02
あの人がいたら、なんて言っただろう。
──私の、父。
七歳の夏、私は草津の温泉街のはずれにある楽器屋で、すっとんに出会った。
無名のメーカー。シリアルナンバーすら曖昧なプライベートブランド。
でも、そのギターだけが、私には光って見えた。
「また行きたい」「あのギター、まだあるかな」
私は毎年、その店に寄ることをお願いして、そして確認した。
──あった。
すっとんは、誰にも買われず、そこにいた。
七歳の誕生日、私はついに「欲しい」と口に出した。
母は困惑し、「もっと安くて可愛いのにしなさい」と笑った。
だけど、父は違った。
「この子には、このギターが似合う気がする」
たったそれだけで、ギターは私の元にやってきた。
──でも、その冬、父は事故で帰らなくなった。
ギターに“すっとん”と名前をつけたのは、たしか、小学校の高学年になった頃だった。
理由は……ちゃんとは覚えていない。
でも、たぶん、「ストラトキャスターって言いにくい」って言った私に、父が笑って「じゃあ、すっとんにしよう」って言ったんだと思う。
どこかのゆるキャラみたいな、変な名前。
けど、呼びやすくて、愛着が湧いた。
だから私はその日から、ギターに向かって「おはよう」「いってきます」「また練習しようね」って話しかけるようになった。
ギターはしゃべらない。
けど、私にとっては──返事が聞こえていた気がする。
父は、ギターに詳しかった。プロではなかったけど、趣味として本気でやっていた。
あの“すっとん”だって、ブランドの知名度こそなかったけど、材質やネックの精度、配線の構造にいたるまで「これはすごいよ」って言っていた。
ただの高いギターじゃない。音に、意思がある。そう言っていた。
……今なら、少しだけわかる気がする。
そのギターと一緒に、私は音楽を始めた。
最初はただコードを鳴らすだけだった。
でも気づいたら、ギターを持つと安心するようになっていて、
歌うと、何かがほどけて、泣きたくなるような気持ちになっていた。
配信を始めたのは、中学二年のとき。
小さなマイクをスマホに繋いで、週に一度だけ投稿していた。
再生数は二桁。でも、コメントがひとつだけついた。
「この声、好きです」
そのたったひとことが、私をどこまでも走らせてくれた。
ライブ配信も、駅前の広場でのストリートも、少しずつ始めた。
顔は出さなかった。怖かったし、自信もなかったから。
でも、音は正直だった。
ギターの音、声の震え、息遣い──全部、そこにあった。
──そして、ある日、声が出なくなった。
最初は、たかが風邪だと思っていた。
喉の痛み、咳、声の掠れ。
季節の変わり目にはよくあることだったから、気にしなかった。
でも、それが数週間経っても戻らなかった。
声を張ると痛む。
高音が出ない。
何より、歌ったあと、胸の奥が熱を持って軋んだ。
病院で検査を受けて、見つかったのが──喉の腫瘍だった。
誰にも言えなかった。
母にも、配信を見てくれていた人にも。
私は、だましだまし、配信を続けた。
「今日はちょっとだけね」
「久々の投稿だね、ごめん」
「次は、もっと元気に歌えるといいな」
そう言って──歌った。
息が足りなくて、途中で音が外れた。
それでも最後まで歌って、画面の向こうに手を振った。
──もう、これが最後だって、分かってた。
その日の夜、私はすっとんを抱きしめて、ひとりで泣いた。
音楽と一緒にいた人生。
声と一緒にいた日々。
そして、私の隣にずっといたすっとん。
「ごめんね。……もう、歌えないみたい」
ギターは黙っていた。
でも、私には聞こえた気がした。
「それでも、奏でよう」と──そんなふうに。
夜風が、少し冷たかった。
ギターケースを背負って歩くのは、いったいどれくらいぶりだろう。
以前は毎週のように通っていたこの道も、今では少し見上げるだけで、涙が滲む。
声は、もう出ない。
でも、音は出せる。
それなら、それだけでいい──そう思って、私は“最後のライブ”へと向かっていた。
人も少ない夜九時手前。
ちょっと悪いことをしているような気もして、でも、誰にも見つからなければいいとも思っていた。
このまま、誰にも気づかれずに弾ければ、それでいい。誰にも聞かれなくても──。
公園の広場。
街灯がぽつりぽつりと灯るだけで、ほとんど誰もいない。
子どもの笑い声が響いていた場所も、今は静まり返っている。
いつもの木のベンチに腰掛け、ケースからギターを取り出す。
すっとん。私が七歳のときから、ずっと一緒にいた相棒。
持ち運び用の小さなスピーカーを置いて、音だけを繋ぐ。
配信はしない。SNSも、もうずっと止めたままだ。
《BlueTone》──CDデビューを目前にして止まった私の、音楽のすべて。
誰もいないこの場所で。
私は、ひとりで弾き始めた。
コードを押さえる左手が、少しだけ震えていた。
でも、すっとんはいつも通りだった。
十年弾き続けてきた手触り。どこまでも馴染んだ重み。
歌は、ない。
でも、旋律はあった。
ギターだけのインスト。
だけど、その音に、私はすべての言葉を込めていた。
さよなら。
ありがとう。
ごめんね。
そして──またいつか、歌えるように、と。
──そのときだった。
空気が、ねじれた。
冷たい気圧のようなものが肌を撫でて、空気が数度下がる。
そして──どこからか、足音が響いた。鉄を踏み鳴らすような、重い足音。
振り返ったときには、すでに目の前にいた。
人間のような形をしていた。けれど、それは人じゃなかった。
機械と肉の融合。天使の彫像のように美しい顔立ちに、無機質な両腕。
背中には翼のような装甲があり、冷たく輝いていた。
「……篠坂蒼」
私の名前を、正確に呼んだ。
「あなたの魂は、規格外の覚醒兆候を示している。よって、浄化対象に選定された」
意味が、わからなかった。
でも──その目を見た瞬間に、理解してしまった。
この人は、私を──
「……殺すつもりだ」
逃げようとした。けれど、足が動かなかった。
私はギターを抱えたまま、ただ震えていた。
その存在は、ゆっくりと右手を掲げ──光の刃を生み出した。
剣のようなそれを、迷いもなく振り下ろしてくる。
怖い。怖い。動けない。死にたくない。
──その瞬間。
「なに勝手に処理しようとしてんの?」
私の目の前に、黒い影が割り込んだ。
ガキィィン! と甲高い金属音。
火花を散らして、天使の刃を受け止めたのは、巨大な鎌だった。
鎌の柄の向こうにいたのは、細身の少女。
黒いパーカーのフードをかぶり、銀の瞳でこちらを見ていた。
「勝手に“処分対象”とか、決めてんじゃないよ。あんたら天界はいつもそう」
一言も噛まずに、彼女はそう吐き捨てた。
そして、私にだけ一瞬だけ柔らかい目を向ける。
「──蒼ちゃん、大丈夫? 怖かったね。でも、もう安心していいよ」
そう言うと、彼女は音もなく──加速した。
信じられない速度で駆け、鎌を振るい、天使と真っ向からぶつかる。
一合、二合。金属音が何度も弾け、地面がえぐれ、空気が揺れた。
そして三合目──少女の鎌が天使の腕を切り飛ばした。
「……機能損失……再調整を──」
天使の声が途切れた。
少女は無言で、最後の一撃を振り下ろす。
天使の姿が光に砕けて、霧のように空へと消えていった。
少女はゆっくりこちらに戻ってきて、鎌を背中に戻した。
「名乗るの、遅くなっちゃったね。私はユウ。死神」
蒼然とする私に、彼女はにっこりと笑った。
「……バンド、組まない? 蒼ちゃん」
ギターを抱いたままの私に、彼女は手を差し出してくる。
「喋れなくても、ギターがある。君の音、すごく好きだった。だから、さ」
「──一緒に、世界をぶっ壊そう」
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