Case.08 十日間だけの店主

二月の始め。

真冬の寒さの中でも、庭の陽だまりには青や白の小さな花が、春を探す者だけが見つけられるように、ひっそりとだが力強く咲いている。

そんな春が時折、微笑みかけてくるようなある日、美広のスマートフォンに姉の静竜しずるから着信があった。


「美広、また有給使ってないでしょ? だから、私のほうで入れておいたわ」


突然かかってきた姉・静竜からの電話に、美広は思わずスマートフォンを持ち直した。


「……姉さん、それはもう決定事項、ということですよね?」


「ええ、そんなこと、聞かなくたってわかるでしょう? とにかく十日間入れたから、休んで頂戴」


「……わかりました。業務命令ということであれば」


美広は知っていた。静竜が社員に有給を取らせるとき、決まって『花村家の人間もちゃんと休んでいるのだから』というを使う——そのためにまず、自分を休ませようとしているのだと。

けれどそれは、口実だけではない。静竜は本当に、美広にも休んでほしいと思っている。そういう人だった。


「そうそう、ツァイトロスは趣味だなんて、通用しませんからね」


釘まで刺されてしまった美広だったが、有給消化を命じられた時になにをするかは決めてあった。

ツァイトロスで使っているコーヒー豆の仕入れ先。グアテマラにある、花村コンツェルングループ専属契約の農園へ、という名目でしようと計画していたのだ。


美広はいつも、コーヒーを淹れながら思いをめぐらせていた。

一杯の香りの奥に、どれだけの手間と時間があるのか。

その手が、目の届かない遠い場所で、過酷な現実に傷ついてはいないか。

画面越しのやりとりでは、伝わらないものもある。

ならば、直接行って確かめたい――そう、ずっと願っていた。



「――ということなので、すみませんが十日間、店は臨時休業になります」


美広が静竜からのをサラに告げると、らしくもなく当然なことを聞いてきた。


「お店……休みにするんですよね?」


美広は奇妙な引っかかりを覚えた。すでにと伝えたのに、改めて確認するようなその言い方が、一度聞いたことは忘れないサラらしくない。

瞬間的にその違和感の正体を探ってはみたが、どうにも正体を掴めず、そのまま会話を続けた。


「そうですね。十日程、サラさんも有給ということでお願いできますか?」


サラは美広の言葉を聞いて、一つ息を飲み込んでからこう答えた。


「サラひとりでもできます……ティーメニューだけだけど……やってみたいです」


まっすぐに美広に向けられるサラの目線。

それを受け止めた瞬間、美広の胸に、小さな衝撃が走った。

今までサラが義務感でティーメニューを練習していたわけじゃない。

いざという時、自分がこの場所を守るんだ――そんな静かな覚悟が、ずっと胸の奥に灯っていたのだと、美広はようやく気づいた。


「そうですね……開店は、一日おきにしましょう。その日の報告を電話で。

それと、何かあったら、静竜姉さんに相談する。この条件で、どうでしょうか?」


「はい、大丈夫です」

サラはキッパリとそう答えた。


「留守の間、ツァイトロスをお願いしますね」

美広は笑顔で、サラにツァイトロスを託した。


十五歳の少女に店を任せる――当然、不安がなかったわけではない。

けれど、この状況でサラの申し出を退けることは、美広にはどうしてもできなかった。

能力的に可能だと判断したのもあるが、それ以上に、彼女の意志を尊重したかったのだ。信頼している、ということを形にしたかった。


サラには、万が一のときのために、メンタルケア事業で開発した非常ボタンを渡してある。

完璧なものではないけれど、美広なりに、できる限りの備えはしてきた。

そのうえで――サラの決意を受けとめること。それが、美広にとってはごく自然な選択だった。



美広が旅立って数日が過ぎた、弥生の風が人々の装いを軽くしはじめた昼下がり。

ツァイトロスの扉が、カラン、と音を立てて開いた。


入ってきたのは、夏にサラがハイビスカスティーを勧めた、あの女性客だった。

それ以来、ときどき店を訪れるようになり、今ではちょっとしたサラの固定客になっている。


「こんにちは、サラちゃん。今日は店長が不在なんだって?」


女性客は、あまり興味がなさそうに言った。


「はい。店長は仕入れで不在です」


「へぇ、休んで行くなんて、大変だね」


その軽い口ぶりに、サラは思わず美広のことをもっと知ってほしくなった。


「はい。グアテマラに行きました」


「グアテマラって、店に行ったのね」


思いがけない返しに、サラの思考が一瞬止まる。

なぜだと思ったのかはわからない――けれど、女性客は最初からそれほど関心があるようには見えなかった。

それなら、訂正する必要もないだろう。サラはそう判断して、話を終わらせることにした。


「グアテマラ……ちょっと遠いんです」


「それで休みを取って行ったのね!

そうそう、今日は何か、春っぽいハーブティーはある?」


女性客がウキウキしながらサラの顔を覗き込む。

実のところ、何を選んでくれても構わない。あの一件以来、自分の為にハーブを選んでくれるのが嬉しくなって通っているのだ。


「ローズマリーとペパーミントのブレンドはいかがですか?」


「うん、それで! サラちゃんのお勧めなら、間違いないし!」


女性客は口元をほころばせ、すぐに頷いた。


サラは軽く会釈し、カウンターに戻ってポットに湯を注ぐ。

湯気の向こうでハーブが踊り、とびきりスッキリとした香りが立ちのぼる。

それをトレイに乗せて客のもとへ運ぶと、女性客は手を止めて受け取り、ほっとしたように微笑んだ。


そのとき、テーブルの上のスマートフォンが震え、小さな振動がテンポよく木の天板を叩いた。

すぐさま画面を確認した女性客は、ひと呼吸置くと、すっと背筋を伸ばし、滑らかな声で応答する。


「お電話ありがとうございます、百笑どうめきです」


サラはその様子に気づき、邪魔をしないようにそっと一礼し、静かにカウンターへと戻った。



電話を切った女性客の鼻先に、ふわりと香ばしいコーヒーの香りが舞い込んできた。

カウンターの向こうに目をやると、サラが神妙な面持ちで、ドリップポットを傾けているのが見える。


(あれ……店長が居ないからコーヒーはないって、SNSで見たような……私の勘違い?)


他に客の姿もなく、まあいいかとばかりに、ハーブティーのカップを片手にカウンター席へ、するりと移る。

振る舞いが自由過ぎるかもしれないとの思いは、サラの行動への興味が無意識へと追いやった。


「コーヒー……?」


「あ、これ……練習です……」


「上達しようとしてるのねー! えらい、えらい! 私そういうの、好きよ!」


唐突な賞賛の嵐に、サラは少し面食らいながらも、どこか嬉しそうだった。

そして――そこから話は止まらない。ハーブの話、紅茶の話、昨日テレビで見た猫の話。


それでもサラは、以前よりずっと落ち着いて対応していた。


「もしよかったら……味、見てもらえますか?」


話がひと息ついた時に、サラはスッとカップを差し出した。

予想外の提案に女性客は少し目を見開き、すぐに笑みを浮かべて手を伸ばす。


「いいの!? うわー……いただきまーす!」


一口、二口。女性客は真剣な顔で味わったあと、何とかサラの役に立ちそうなひと言を捻り出そうとしたのだが――


「ん〜〜〜、なんか、いい香り! 苦くない! いや、苦いのか?

甘いのか? 甘くはない、甘い香り? わかんないけど……いいと思う!」


「……いい……ですか?」


「ごめん! 私、コーヒーの味の良し悪しなんて、正直、わかんないのよ!

でも頑張ってるの、伝わってくるから、もうそれで100点満点よ!」


そう言って女性客は、あっけらかんと笑う。


「……ありがとうございます」


逆に気を使わせてしまったかもしれない、そんな思いが過ぎるサラだったが、それでも褒められたのは嬉しかった。


「あ、もうこんな時間! 今日もハーブティーおいしかった! じゃ、また来るわね!

今度はも教えてね!」


女性客は、慣れない香りを胸に抱きながら、バタバタと去っていく。

その背中を見送りながら、サラはふっと息をついて思った。


(……いつもと同じ)


そう思うと、どこか胸の奥が、すうっと落ち着いていく気がした。



ツァイトロスの今日が終わり――夕方。

日の傾きと、間接照明が相まって、薄暗さを感じる店内に、サラが一人。


仕事終わり、いつものように紅茶を淹れる。

それから、スマートフォンを取り出し、再生ボタンを押した。


『……グアテマラのラ・アウロラ国際空港に着きました。そちらはどうですか?』


遥か彼方から届いたとは思えない、クリアな美広の声が流れる。


美広は居ないけれど、サラはうなずいて答える。


「……こっちは、大丈夫です」


カップの紅色が、夕日が溶けていく。

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