第十七部
もし彼女が、あの美貌と高いIQを持った女じゃなかったら……俺なんて、とっくに家に帰ってたはずだ。
でも――人生って、そういうものだ。
原始時代だろうが、AI時代だろうが……男の弱点は、変わらない。
「賢く微笑む、美しい女」――それに勝てる男なんて、いない。
「それで? 次は、先輩?」
「三つ目は……大企業との協力だ。」
「政府が効率化や技術革新、自動化の政策パッケージを作って、それを大企業に渡す。
――あとは、裏で静かに実行させればいい。」
「たとえば、農地の“クロスリース制度”……つまり農家同士の土地を柔軟に貸し借りできるようにして、無駄なく耕作面積を最適化する。」
「効率が上がり、補助金はそのままでも……“受け取る人間”は、自動化の波で減っていく。」
伊豆原は静かに頷きながら、淡々とタイピングを続けていた。
「最後の一手は……すでに始まってる。」
「政府はすでに“個人型年金”を用意してるし、非課税の長期投資枠も設けてる。
――でもね、それでも“本当の根”には届いていない。」
「ほう? その制度を批判するってことは……
当然、その“腐ってる場所”も知ってるんでしょうね。――さあ、言ってごらんなさい?」
はあ……ほんと、手のかかる女だ。
ラップトップのタイピング音すら……今の俺には、精神的なムチに聞こえる。
「今の日本の年金制度は、“若者世代”が“高齢者世代”を支える構造になってる。」
「でも――その高齢者は増える一方で、若者は減ってる。
つまり、“負担する側”が少なくなって……“受け取る側”が多くなる。
当然、財政の圧力はどんどん強くなるわけだ。」
「それなのに、“支給開始年齢”を上げたり、“受給額”を削ったりなんて……そんなの、政治的には爆弾だよ。」
「しかも――その爆弾を守ってるのは、高齢の有権者、労働組合、そして政権中枢の老人たちなんだ。」
伊豆原は、くすっと笑った。
その笑いは……どこか誇らしげに聞こえるべきなのに、俺の中に芽生えたのは、むしろ警戒心だった。
「タブーに触れたわね、先輩。でも――好きよ、そういうの。
堂々と“言ってしまえる”勇気、私は嫌いじゃない。」
「ただの凡人だよ……何度もこのシステムに踏み潰されてきた。
せめて被害者には、加害者を責める権利くらい、あってもいいだろう?」
空になったコーヒーカップを見下ろす。
舌の奥に残るワインとカラメルの余韻が……まるで“人生の甘さなんて幻想だ”と、静かに嘲笑っているようだった。
「残念だけどね……結局、何も変わらない。
変わるのは、せいぜい“働き方”くらいさ。」
「日本の労働システムも――狂ってる。」
「終身雇用、年功序列、退職金制度……それらは“かつての時代”にはロマンチックだったのかもしれない。
でも――今となっては、“時限爆弾”でしかない。」
「で? 先輩の“本当の答え”って……何?」
しばらく黙っていた俺を、
伊豆原は静かに、けれど確かに――“追い詰めるような眼差し”で見つめていた。
心臓が……理性の壁をノックする。
「金が足りないとか、時間がないとか……
問題は、それだけじゃない。
一番の問題は、“チャンス”の欠如だ。」
「そして――最大のチャンスって、案外“小さなこと”から始まるんだよ。」
俺は息を吸い込んで……言葉を紡ぎ出した。
「文化輸出の蛇口を開けるんだ。重工業じゃない。
むしろ――世界中に熱狂されてる“軽い文化”。
そう、漫画、アニメ、ラノベ……そしてあらゆる形の日本のエンタメだ。」
「もう広まってはいる。けど……儲かっていない。
なぜなら、“アクセスが悪い”からだ。
だから――それを変える。」
「若者に、参加の場を与える。
“消費者”じゃなく……“生産者”として。」
「必要なら、こう言ってもいい……“可愛い女の子と巨大ロボットを描いて、日本を救え”って。」
伊豆原は――再び、沈黙した。
彼女は、俺を見つめていた。
その目にあるのは……賞賛でも、困惑でもない。
もっと厄介で、もっと危ういもの。
――“確信”。
「そう。これが……ずっと先輩の頭の中にあったことなのね。」
「ああ。――だけど、もういいだろ。」
「俺が今まで言ってきたことなんて……全部、ただの戯言さ。」
「だから……全部忘れてくれて構わないよ、伊豆原さん。」
小さく笑った。
でも――その笑いには、どこか苦さが混じっていた。
対する彼女は、ただ微笑んでいた。
それは……まるで戦争が始まる直前の、静かな笑みだった。
「先輩。」
「ん?」
「もしそれが“戯言”だというなら……どうして私は、“それを現実にしたい”なんて思っちゃったのかな?」
――ドクン。
シンプルな一言だった。
でも、正直に言おう。
今の一言で……俺の胸は、まるで山手線の特急に正面衝突されたようだった。
数秒の静寂のあと……
伊豆原真澄は、静かに席を立ち、ノートパソコンを閉じた。
そして――まるで高級香水のCMにでも出てくるような、優雅な歩みでベッドの方へ向かっていく。
そこで彼女は……まるで一つの“政界ドラマ”の新章を開くかのように、スマートフォンを取り出した。
そして――何のためらいもなく、電話をかけ始めた。
「もしもし、お父様? 真澄です。今日の国会の会議……もう終わった?」
――スピーカーモード。
……しまった。
よりによって、スピーカーかよ。
そして、受話口から聞こえてきたその声……俺は、その声をよく知っていた。
冷たく、権威に満ち……外交の重圧すら感じさせる、まさに「システム」が作り上げた声。
『ああ。どうした、真澄。何か用か?』
「政府にとって、役立つかもしれない情報を……いくつか見つけたの。
今週、少し時間をちょうだい――お父様。」
『……わかった。お前の望みなら。』
「それじゃあ……おやすみなさい。」
――ピッ。
通話が、切れた。
その直後、彼女は……俺を見た。
もうその目は、“可愛い”とか“魅力的”とか“妖艶”なんてレベルじゃなかった。
ああ……まずい。
俺が今聞いたことは、本来なら知ってはいけない――“何か”だった。
「伊豆原……今の、父親にかけてたのか?」
「ええ。さっきの“答え”、覚えてる? ――あれが私なりの返事よ。」
正直、どんな反応をすればいいのか……分からなかった。
怒るべきか? 驚くべきか?
バルコニーから飛び出して「やばいぃぃぃっ!」って叫ぶべきか?
それとも……どこかのメロドラマの主人公みたいに、突然記憶喪失になる演技でもしようか?
どのパターンを考えても……現実は、それを許さなかった。
俺が選べた行動は――たった一つ。
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