第四部
俺は……ぬるくなりかけた缶のお茶を、じっと見つめるだけだった。
「……二つの顔、か。」
彼女はそう言った。――間違ってはいない。
でも……俺はもう、“二つ持つ”ほど元気じゃなかった。
残っているのは……たった一つの顔。
大学を卒業して最初の年に、自分の中の理想を殺した後に残った――
ただの“現実主義者の顔”だけだ。
「……で、」
俺はようやく口を開いた。
無駄な時間を消費するのが――馬鹿らしくなってきた。
「何の話なんだ、出原?」
彼女は……すぐには答えなかった。
代わりに、静かに黒いビジネスバッグに手を伸ばした。
その仕草には、“ただの業務的な会話”にしては……あまりにも洗練された優雅さがあった。
そして――彼女が取り出したのは、社内資料ではなかった。
綺麗に折られた……一枚の紙。
無言で、それを――俺に差し出す。
目を落とした瞬間、俺の思考は――ぴたりと止まった。
……やばい。
この文章、覚えてる。
いや……覚えてるなんてもんじゃない。
これは、“まだ世界を変えられる”なんて甘い夢を信じていた頃――
俺が書いた文章だ。
大学時代、図書館サークルで提出したエッセイ。
タイトルは……『経済成長の陰に潜む社会的停滞』。
「……これ、先輩の作品ですよね?」
彼女の声は、相変わらず――冷静だった。
だが……その言葉の裏に、何かがある。
それは、“言葉にしない称賛”かもしれないし……あるいは、“少しの哀れみ”かもしれない。
「……どこで見つけたんだ?」
俺が問うと、彼女は――薄く笑った。
「……図書館オタクで、しかも美人な私はね。
どんな文章が“本気の魂”と“深いリサーチ”から生まれてるかくらい、ちゃんと見分けられるんですよ?」
その微笑み……そこには、三つの論理トラップと、
一つの――隠された賛辞が埋め込まれていた。
俺は……深く息を吐いた。
昔、胸に灯っていた“理想”という名の火が……
ずっとしまっておいた古いクローゼットから、まるで幽霊のように顔を出した気がした。
しかも――その幽霊の顔は、俺自身だった。
「……で、それが話したかったことか? このエッセイの内容について。」
できるだけ……冷静さを保ちながら、尋ねた。
「正直言えば、時代錯誤な情熱にはあまり惹かれません。」
彼女は――率直にそう言った。
「……でも、気になったんです。
だって、先輩の中には……まだ“その火種”が残ってるように思えて。」
火種、か。
可笑しいな。
俺の中に残っているのは、もはや“火”ではない。
ただ……仕事の重圧で時々剥がれる、“灰”のカケラだ。
でも……逃げても仕方がない。
「……俺は君の先輩だ。だから今の君は、ある意味で――俺の責任だ。
聞きたいことがあるなら……言ってみろ。」
彼女は、微笑んだ。
そして、まるで“逆オーラル試験”でも始まるかのように――静かに問いかけた。
「……では、質問一つ目。」
「私たちは、“失われた世代”だとよく言われますよね。
過去の世代と比べて、取り残された存在。
――先輩は、本当に“運命は変えられない”と信じてますか?」
その質問は……危険だった。
難しいからではない。
むしろ、あまりにも簡単に答えられるからこそ――怖い。
なぜなら、その答えひとつで、
人間がかろうじて保っている“生きる意味”の最後の欠片さえ……崩れてしまうかもしれないからだ。
俺たちの世代は、自分たちを“ロストジェネレーション”と呼んできた。
就職氷河期に卒業し、チャンスは常に“先輩たちの既得権”に食われ、
変革を恐れる古い組織に縛られた世界でもがき続けてきた世代だ。
もちろん、俺は……答えるつもりだった。
そうしなければ、彼女はきっと――何度でも問いかけてくるだろうから。
「……運命が変えられないわけじゃない。」
俺は、静かに言った。
「でも……変えることを一番恐れてるのは、俺たち自身だよ。」
彼女は……少しの間、黙って俺を見つめた。
夜風が――彼女の髪を揺らし、
公園の灯りに照らされた横顔は……どこか儚く見えた。
「……つまり、私たちは皆、理想の“死”を先延ばしにしてるだけ?」
「……違う。」
俺は、首を振った。
「……もう殺してるよ。
ただ、“まだ埋めてないだけ”だ。」
彼女は――数秒沈黙した後、ふっと微笑み、そして……小さく笑った。
「……先輩って、本当に怖い人ですね。でも……誠実だ。」
「……もし“正直であること”が怖がられるなら、
この世界の方が――よっぽど脆いんだろうな。」
また……沈黙が訪れた。
遠くから、かすかに車の音が聞こえ始め、
風は――冷たさを増していた。
空はずっと曇ったままで、今にも降りそうで……でも降りない――
そんな、優柔不断な夜だった。
そして彼女は――唐突に訊ねた。
「……先輩、自分に失望したことってありますか?」
予想外の問いだった。
けれど……不思議と、驚きはなかった。
「……いや。」
俺は――即答した。
「ただ、“もっと何かになれる”って、一瞬でも思った自分に……失望してるだけだ。」
「……もし人生が“ただこれだけ”のものだったとしたら?」
「だったら……俺はこれからも皮肉と安い缶コーヒーで、この先を乗り切っていくだけだ。」
彼女は……また笑った。
今度は――少し楽しそうに。
「……それは答えじゃないですよ、先輩。」
出原はそう言った。
その声は穏やかだった。――けれど、確実に“刺す”ものを含んでいた。
お願い、じゃない。これは……挑発だ。
彼女の目が、いつもより――強く光っていた。
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