ネガ
じゅにあ
第一章「招かれざる客」
――霧島 拓海の視点――
雪は、静かに降り続いていた。
冬鏡荘――それがこの山荘の名だった。名前に“冬”と“鏡”という言葉を冠しているのがいかにも意味深で、どこか不穏さを孕んでいるようにも感じる。それでも、初めてそれを目にしたとき、僕はこの荘にどこか既視感のようなものを抱いた。
木々の合間を縫うように続く細い林道をバスで登ることおよそ一時間。乗り合わせた他の面々とは初対面だったが、全員がある共通の目的を持っていることは、途中の無言の空気からうすうす察していた。
八人。参加者は、僕を含めて八人だった。
そして、山荘の主――鷲尾真理子という名の女性が、私たちをこの冬鏡荘へと招いた。
荘のロビーに足を踏み入れたとき、僕の背筋に微かな寒気が走った。暖房が効いているはずの室内なのに、底冷えするような空気があった。それは気温ではなく、空間そのものが持つ記憶のような冷たさだと、僕の臨床医としての直感が囁いていた。
「ようこそ、皆さん。冬鏡荘へ」
そう言って微笑んだのは、主催者である鷲尾真理子だった。年齢は四十代半ばといったところか。落ち着いた身のこなしと、抑制された表情の奥に、何か強い意志のようなものが見え隠れする女性だった。
僕が精神科医として勤めている病院に、彼女から届いた一通の手紙が、すべての始まりだった。
【あなたには“ある事件”について語るべき立場があると、私は確信しています。
一度、真実と向き合う覚悟はありませんか?】
手紙は、そう締めくくられていた。
“ある事件”とは、十年前に起きた未解決殺人――今はもう公に語られることも少ない、ある高校での教師殺害事件だ。死体は校舎裏の資材倉庫で発見された。加害者は捕まらず、目撃者も決定打に欠けていた。当時、僕はただの学生だったが、事件のことは今でも鮮明に記憶している。
なぜなら――
僕はその現場に、“居合わせた”者の一人だったからだ。
「皆さん、それぞれの部屋へご案内します。今夜は吹雪の予報です。外出はお控えくださいね」
鷲尾の言葉が、どこか静かに響いた。
廊下を進む。ログハウス風の内装は趣があり、窓からは白く煙る雪景色が見える。が、その美しさがどこか不自然に感じたのは、恐らく僕だけではないだろう。
この場所には、「意図」がある。そう、最初から“閉じられること”を前提として設計されたかのように。
個室は広く、清潔だった。木製の机、ベッド、暖炉、そして小型のテレビと本棚まである。ただし、テレビはどのチャンネルにもつながっていなかった。試しにスイッチを入れたが、砂嵐の映像が映るだけだった。
まるで――外界との接続を、最初から断たれているかのように。
夜。
食堂には参加者全員が集まった。長い木製のテーブルを囲み、夕食が用意されていた。煮込み料理、パン、赤ワイン、サラダ……料理はどれも洗練されており、明らかに“もてなし”の意志があった。
「……さて。そろそろ、話しましょうか」
全員が食後のワインを口にしていた頃、鷲尾真理子が静かに立ち上がった。
彼女は、一枚の紙を取り出した。古びた封筒に入っていたそれは、どこか汚れており、年季が入っているように見えた。
「これは――十年前、私の兄が殺された事件の“手記”です。兄は教師でした。そして……この中に、当時の“加害者”がいると、私は信じています」
その瞬間、場の空気が一変した。
「何のつもりだ」
一人の男が声を上げた。元刑事だと名乗っていた柴田恭平だ。年齢は40代前半、無精髭に鋭い眼差しの男だった。
「こうして皆を呼び寄せて、何をさせたい? 自白でも引き出すつもりか?」
鷲尾は静かに彼を見つめ返した。
「いいえ。ただ、真実を共有したいだけです。この荘で、あなたたち一人一人の話を聞きたい。順番にね。明日から、毎日一人ずつ、当時のことを語っていただきます」
「冗談じゃない」
そう呟いたのは、若い医学生の神崎航だった。彼はグラスを置き、椅子から立ち上がった。
「こんな茶番に付き合ってる暇はない。俺は――」
その瞬間、停電が起きた。
部屋は、深い闇に包まれた。
誰かが悲鳴を上げた。誰かの足音。誰かが倒れる音。
懐中電灯を持っていた望月が、震える手でスイッチを入れる。ぼんやりとした光の輪が闇を切り裂き、テーブルを照らす。
そのとき、僕の目に入ったのは――
神崎航の、血に染まったシャツと、頭から滴る赤黒い液体だった。
数秒の沈黙のあと、部屋に響いたのは誰かの叫び声だった。
「灯りを! 誰か、灯りをつけて!」
暗闇の中で動けば、却って危険だ。僕は身動きを取らず、声だけで状況を探ろうとした。
「落ち着いてください。誰も動かないで」
そう言ったのは鷲尾真理子だ。彼女の声は不思議と冷静で、それがかえってこの事態の異常さを強調していた。
やがて、望月圭一が携帯していた懐中電灯が再び灯り、ぼんやりと部屋を照らした。薄暗い光の中で浮かび上がったのは、神崎航の姿だった。
神崎は椅子に座ったまま、前かがみに崩れていた。額から血が流れていたが、深く切れているわけではなさそうだ。どうやらどこかで頭をぶつけたらしい。意識はあるようで、呻き声を漏らしていた。
「な、なんだよ……ふざけんな……!」
彼は震える手でテーブルを掴み、立ち上がろうとするが、体がふらついてまた椅子に崩れた。僕は椅子を蹴って彼のそばへ駆け寄り、額の傷を確認する。
「軽い裂傷だ。脳震盪の可能性がある。しばらく安静にしていた方がいい」
僕がそう言うと、他の参加者たちは安堵の息を漏らした。しかし――
「問題は、誰かが“やった”ということだ」
そう言って鋭い視線を周囲に送ったのは、柴田恭平だった。元刑事。彼はすでに椅子から立ち上がっていた。
「神崎君は突然立ち上がった。直後に停電。そして数秒後、頭部に外傷……偶然ではない。これが“警告”でなければ、なんだ?」
「誰かが……わざと停電させたってことですか?」
そう言ったのは高槻明日香。彼女は自分のグラスをぎゅっと握っていた。爪が白くなるほど強く。
「状況的にそう考えるのが自然だな。しかも電源系統が一時的に落ちたというより、配電盤の操作――つまり内部からだ」
「内部……って、この中に犯人がいるってこと?」
若い女性――美術教師の雪村紗季が震える声でそう言った。
場に、沈黙が落ちた。
その晩、誰もが部屋に戻ったが、安眠できた者はいなかっただろう。
僕の部屋の窓からは、吹雪に覆われた闇が見えるばかりだった。携帯電話は圏外、Wi-Fiもなし。完全な情報の孤島――それが、この冬鏡荘だった。
ベッドに寝転がっても、あの“手紙”の文面が頭を離れなかった。
【あなたには語るべき過去がある】
あの事件――十年前の、教師殺害事件。
僕はあのとき、何を見た?
そして、何を――見なかった?
翌朝、僕が食堂に向かうと、すでに何人かが着席していた。神崎はソファに座っていたが、頭に包帯が巻かれており、青白い顔でスープを啜っていた。
「……昨夜のことだけど」
ぽつりと呟いたのは、映像ディレクターの望月圭一だった。眼鏡の奥の目は、どこか鋭く観察するような光をたたえていた。
「神崎くんが倒れた直後、俺のカメラの録画が勝手に止まったんだ。誰も触っていないのに」
「それって……」
「明らかに意図的な妨害だ。録画されるのを避けるように。つまり、あの“停電”は偶然じゃない。誰かが……神崎を狙っていた」
また、場が静まる。
「ねえ、そもそもさ――」
と、高槻明日香が声を上げた。
「なんで私たち、ここに呼ばれたの? 全員、あの事件のことを“知ってる”わけ?」
彼女の問いに、誰も即答できなかった。
やがて、柴田が口を開いた。
「俺は、当時の捜査に関わっていた。あの事件、結局“目撃証言”も曖昧で、犯人像は最後まで特定できなかった」
「……俺も、あの高校の卒業生だ」
と、望月が言った。
少しの間を置いて、雪村も続いた。
「私も……先生に、美術を教わってた」
そうだ。つまり、全員が――“あの高校”に関係していた。
ではなぜ僕たちは、このタイミングで、ここに集められたのか。
そして――なぜ、“鷲尾真理子”がそれを知っていたのか?
「皆さん、お揃いですね」
その声と共に、鷲尾が部屋に入ってきた。
「朝食のあと、まず最初に“語って”もらいます。霧島先生、あなたから」
僕の名を呼ばれ、心臓が跳ねる。
「……僕が?」
「はい。医師として、そして“当時の生徒”として。あなたが何を見たのか、聞かせてください」
視線が集中する。僕は唇を結び、立ち上がる。
あの日のことを、話さなければならない。
だが――
本当に僕は“見ていた”のだろうか?
ロビーの暖炉の前にある、木製のソファに座らされた。視線は僕に集まり、鷲尾はその横で静かにノートを開いていた。まるで聴取のような空気――いや、まさにそれだった。
僕は、喉の奥に乾いた塊のようなものを感じながら、ゆっくりと語り始めた。
「……十年前のことです。僕たちは、まだ高校二年生でした。あの事件は、秋の文化祭が終わった直後に起きた」
そのときの情景が、今も脳裏に焼きついている。
事件当日、僕は放課後の校舎を歩いていた。文化祭の片付けを手伝った帰り道だった。日が落ちかけた頃で、校舎の廊下は薄暗く、誰もいなかった。
職員室の前を通り過ぎたとき、ガタン――と何かが倒れる音がした。振り返ったが、何も見えなかった。だが、その時、校舎裏の資材倉庫の方から、人の気配を感じた。
怖かった。でも、何か変だと思った僕は、倉庫に回り込んだ。
そこで見たのが――
血まみれで倒れている教師の姿だった。
「……教師の名前は、鷲尾優作。英語教師で、学年主任も務めていました。成績には厳しかったが、生徒思いな人でした」
鷲尾真理子が小さくうなずいた。彼女の兄――その名前を口にするのは、さすがに躊躇いがあった。
「現場には凶器らしき物はなかった。ただ、床には血の跡があり……机の脚が不自然に倒れていた。外傷は頭部を強打されたものだったと、後に知りました」
「そのとき、周囲には誰もいなかったのですか?」
と、柴田が訊いた。
「……一人だけ、倉庫の影に誰かがいるのを見た気がしました。だけど、暗くて顔までは見えませんでした。制服のようなものを着ていた。それが生徒だったのか、教師だったのかも……判然としない。ただ、逃げるようにその場を離れていったのを、覚えています」
「なぜ警察にそれを言わなかった?」
「……言いました。でも、“はっきりしない証言”として処理された。曖昧な記憶は証拠にならないと」
「つまり、目撃者がいたが、犯人は特定できなかったということですね」
鷲尾は静かに言った。
その言葉に、僕はうなずくしかなかった。
望月が口を開いた。
「俺も、現場に居合わせた。霧島ほど近くではなかったが、あの日、倉庫のほうから叫び声を聞いた。駆け寄ったが、もう教師は倒れていて、霧島の姿もなかった」
「じゃあ……あんたたちは二人とも、現場にいたってこと?」
と、神崎が睨むように言った。
「……私も、職員室の近くにいたわ。日直で書類を届けに行ったの。確かに、資材倉庫のドアが半開きになっていたのは見た。でも、怖くて覗けなかった」
それは、雪村紗季だった。
次第に、“当時その場にいた者たち”の記憶が交錯し始めていた。
「……でも、なぜ今? なぜ、十年も経ってからこんな集まりを?」
高槻明日香の問いに、鷲尾真理子は目を伏せて答えた。
「ここ数年、兄が残したノートの一部が手元に届いたのです。焼却されたはずの遺品の中から、誰かがそれを密かに保管していた。それを送りつけてきた人物は、差出人不明でしたが……その中には、“事件当日の目撃証言を記したメモ”がありました」
「え……? 証言?」
「兄が生前、疑っていた相手の名前――あるいは、何かを“知っていたはずの生徒”の名前が、断片的に書かれていた。曖昧な言葉、伏せられた記号……でも、それはあなたたちの誰かを指している可能性が高い」
僕たちの間に、冷たい空気が走った。
「まさか……ここに犯人がいると?」
誰かがそう呟いた。
だが、それに対して鷲尾はただ、こう言った。
「私は、“真実”が欲しいだけです。この山荘で、一人ずつ話してもらいます。そして、十年前の全貌を――あなたたち自身の記憶で、もう一度組み立ててほしい」
そのとき、ロビーの暖炉が小さく弾ける音を立てた。
雪は相変わらず、静かに降り続いていた。
だが、僕たちは知っていた。
この山荘は、すでに“密室”になっていたのだ。
その夜、僕は奇妙な夢を見た。
校舎の長い廊下。埃っぽい空気。文化祭のポスターが破れてひらひらと舞っていた。
床には赤いしみ。天井の蛍光灯はチカチカと点滅していた。
倉庫のドアが、ゆっくりと開く。中に立っていたのは――顔のない“教師”だった。血まみれのチョークを持ち、僕の名を呼んだ。
「……霧島……どうして、見なかった?」
振り返ると、校舎の影に、もう一人の僕が立っていた。
――笑っていた。
目を覚ますと、部屋はまだ夜の気配を残していた。時計は午前4時を指している。外は真っ白な雪の闇。風の音すら消えていた。
水を飲もうと部屋を出ようとしたとき――廊下の奥に、人影が見えた。
小柄なシルエット。明らかに、女性だ。
(誰だ……? こんな時間に……)
僕は足音を忍ばせ、ゆっくりとその影を追った。
その人物は、階段を上り、最上階の書斎へ向かっているようだった。
(書斎は、真理子さん以外は使わないって言っていたはず……)
僕は手すりを掴みながら、物音を立てずに階段を上る。
そして、書斎のドアが開いて――
中から、誰かが飛び出してきた。
「っ……!」
突然のことに、僕は咄嗟に壁に身を隠した。
飛び出してきたのは、男だった。黒いダウンにマフラー、帽子で顔が隠れていた。だが、見覚えのあるシルエット。
(……神崎?)
彼は僕に気づかぬまま、階段を駆け下りていった。慌てた様子だった。
しばらくしてから、僕はそっと書斎のドアを開ける。
――中には誰もいなかった。
ただ、机の上に一冊のノートが開かれ、ページがめくられたままだった。
【生徒リスト(200X年度・英語教師クラス)】
ページには、数人の名前が赤ペンで丸付けされていた。
・望月 圭一
・雪村 紗季
・高槻 明日香
・神崎 航
そして、そこに赤く殴り書きされた言葉――
「この中に、嘘をついている者がいる」
翌朝、食堂に神崎の姿はなかった。
「……まだ寝てるんじゃない?」
高槻がそう言ったが、どこかぎこちない。
「……様子を見てくる」
僕はそう言い残し、神崎の部屋へ向かった。
ノックする――反応なし。
「神崎? 起きてるか?」
再度ノックし、ドアノブをひねってみる。開いている。
僕は慎重に中へ入った。
――そして、息を呑んだ。
神崎 航は、ベッドの上で動かなくなっていた。
ベッドには整った布団。だが、顔色は異常に蒼白だった。肩に手を当てて揺さぶると、冷たい感触がした。
「……死んでる……?」
すぐに、柴田を呼んだ。彼は血の気を引かせながらも、冷静に神崎の身体を調べた。
「脈がない。死後硬直は始まっていないが、体温低下が早い……死後2、3時間ってところか」
「昨夜……4時頃、俺は神崎を見た」
「……何?」
「書斎から出てきた。なぜそこにいたのかは分からない。でも、あれが最後だとしたら……」
柴田は、書斎での出来事を聞き、深く眉をひそめた。
「つまり、お前が見た“人影”は別の人物か、あるいは神崎と共にそこにいた“誰か”だな」
「……いや、最初に書斎に入っていったのは、小柄な“女性”だったはずだ」
柴田の視線が鋭くなった。
「誰だ、その女は?」
答えられなかった。確証がなかったからだ。
ロビーに全員が集められた。
鷲尾は、神崎の死を告げた。
「――事故、あるいは病死とも取れる状態でした。ですが、“偶然”として片付けるには、状況が整いすぎています」
沈黙。
「昨夜、書斎に誰かが入りました。そして、“何か”を見てしまった。その人物が、神崎の死と関係している可能性があります」
全員が周囲を見渡す。疑念が走る。
「ノートに、こう書かれていました」
『この中に、嘘をついている者がいる』
鷲尾は一人ずつ見つめた。
「名乗り出るべきです。あなたの“沈黙”が、次の犠牲者を生むかもしれない」
誰も、何も言わなかった。
そしてその瞬間、僕は確信した。
この中に“犯人”がいる。
いや、“複数”いるかもしれない。
そして何より――
誰かが“事件を再演”しようとしている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます