首吊りの風景
はじまり
現在からおよそ十数年前――その事件は起きた。
薄ぼんやりとした空気の孕む熱、その気怠さだけが妙に生々しく記憶に引っ掛かっていた。
「あの夜のことは、鮮明に記憶していないの……」
伊折(いおり)はため息を呑み込む形でグラスを満たす琥珀色というと濃い印象の色を帯びたワインを咽喉に流し込んでいく。吐く息から伝わる芳醇な香り。ストッカーには呑み切れないほどストックされていたはずの白ワインのボトルは、この数日で彼女がそのほとんどを空にしていった。台所の片隅に整然と並ぶ空のボトルがその証拠とばかり室内の明かりを受けて歪んでいた。
「すぐに寝付けなかったから、下に降りて目の前にある桜の木を何とはなしに眺めていたと思う」
はじめは風になびく葉叢(はむら)の影ではないかと、さして気にすることもなかった。しかし、雲の切れ間から差し込んだ月の光から現れたのは、町を彩る美しさからはかけ離れた光景だった。
「首を括った若い男だったと思う……暗かったから、確かじゃないけど。印象が凄く薄いの。どういったらいいのかな……能面のような……色白さを連想するけど、全体的な顔立ちをはっきりと記憶できない儚さ、危うさ、脆さ……。神聖な天使のような侵し難い無垢なようでもあった」
幼い伊折は慌てて眠っていた両親を起こした。状況を把握した伊折の父はガレージから剪定用の大バサミを手に伊折の言うがまま、素早く首を括る青年の下へと駆けた。
「父が男を抱え上げて、私が樹上からハサミで縄を断ったの。私が見たのは首を括った瞬間だったみたいで、男にはまだ息があった」
激しく胸を打つ心臓の鼓動に息苦しさを感じた。それは胸騒ぎだったのか、得体の知れない不安が色濃く這い寄ってくるようだったからか。
得体とは――邪悪さは感じられない。元より強く訴えかけてくる聖性が男(実際には少年とも少女とも判然としない、奇妙な中立性を印象していた)を見た伊折にはよくないものを家に招いてしまった後ろめたさのようなものが蟠っていた。
自死の寸前で助け出された男は家の一階部分――カフェを営むスペースの長椅子に寝かされた。意識はなかったものの、呼吸や脈拍は安定していたようである。伊折の両親がよっぽどのお人よしだったかは話を聞く限り判然としない。しかし、自殺を図るほど追い詰められていた男のことを慮って、すぐに警察や救急に連絡した様子は感じられなかった。
「私、そのとき凄く怯えていたような気がする。死のうとしていた人間を家の中に入れたのもあったけど、何か余計なものまで中に入れてしまった気がして落ち着かなかった。おそらく、静かに眠っているだけの男から嫌な気配を感じてたんだと思う」
直感というには生々しく、だからといって経験から想像されるような厭らしさとも違う。
そんな恐ろしさから逃げるようにして伊折は二階の自室に引きこもった。あれだけ眠気を誘わなかった夜だというのに、ベッドに潜り込むと呆気ないほどすぐに寝入ってしまった。
「激しい物音、魚を擦り潰したときの生臭さ、首筋を這い上がる寒気、苦みを帯びた口内、目も眩むような闇。それらが一斉に襲い掛かってきた。最低の目覚め。どんなに記憶は曖昧でも、五感での知覚は忘れられない」
嫌な夢を見た。全身を汗に濡らし、一瞬で体温を奪っていく。気怠い目覚めに時計を確認すると、眠りについてからそんなに時間は経っていなかった。
伊折は水を求めてリビングに立ち、そこで階下の異常に気が付いた。
灯りが消えている。そういえば、と先ほどの大きな物音を思い出す。そう私はその音で目が覚めたのだ。寝室に耳をそばだてる。両親が寝室に戻った様子はない。やはり、まだ男の介抱の最中か。
暗く、物音もない一階からは、人の持つ生暖かな気配だけがにじり寄ってくる。不安を払拭するため、伊折は覚束ない足取りで階段を下っていった。
床板の軋みが、暗がりに消えていく。静まり返った室内は廃墟のようで、普段は気にならない埃臭さを際立たせた。目は一向に暗闇になれないばかりか、決して出口の見えない暗闇が果てることなく続いている気がした。
そして、カフェスペースになっている広間の灯りを点けた瞬間、目に飛び込んできたのは信じられない光景だった。
「そこには、刃物でめった刺しにされた両親が倒れていた。まるで、ぼろ雑巾……いえ、もっと酷いものだった」
強烈な胃の痙攣と身体の震えが同時に襲い掛かる。幸せの団欒がフラッシュバックし、何故なぜナゼ? と脳内を埋め尽くす疑問が噴出し、あり得ない! と激しく吼えた。
凄惨な現場に気が動転しておかしくなってもよかったはずだ。衝撃に胸を打たれて、その肉塊が両親であったと理解したなら泣き叫んでもよかったはずだ。しかし、その時伊折の胸中を駆け巡った感情は翻って彼女を冷静にさせた。
まだ、男が残っている。そう予感させる色濃い人間の息遣いが、この室内に籠っている。
素早く行動できたのは奇跡だったかもしれない。〝逃げる〟という選択肢を瞬時にはじき出した彼女は桜の覗く硝子扉に手を伸ばした。
「そこで生前の私の記憶は途切れた。痛みも嘆きもそこにはなかった。後はこの通り、この家に縛り付けられた私というイメージだけが残った」
語り終えた伊折はそこで、くたり、と頭を垂れた。
黒く幼い、反面老獪な淑女にも視える幽霊が語る原点。
からん、と溶けた氷がグラスを回転し飴色のバーボンを攪拌する。
涼し気な雨音を耳にして、幽霊を見て。
ようやく恭个は息を吐く。またひとつ、一筋縄ではいかない現象に巻き込まれてしまったのだと。
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