迷った末に恭个はそれを背に負うことにした
迷った末に恭个はそれを背に負うことにした。何かしらの戦利品を持ち帰った際のエメスは特段上機嫌になる。上手くいけば望外の望みも飲んでさえくれる。
所詮は私利私欲、人とはなんと因果な存在か……。悲観している場合ではなかった。
何かないか、脱出の糸口。万に一つ、咀嚼女さま本体に気を取られていなければその間にリフトで下降できたか? 否否、選ばなかった選択肢を顧みても無為、瞬間瞬間はあっという間に恭个の周囲を火の海に変えていく。
まさか自身の火によって窮地に陥るとは……。
炎に舐められた壁が軋みを上げ半ば崩壊する。
その時博和の記事の一節を思い出した。隣室のギターの音が聴こえる。つまり、余所の生活音が通るくらい壁は薄いのではないか?
閃いた時にはおおよそ事は決していた。恭个はあらん限りの力で(無意識に炎すら纏っていた)203号室に面する崩壊した壁を――中の基礎組は丸見えだ――蹴り飛ばした。
まだ延焼は免れている正常な空気を肺一杯に吸い込むと、あとを顧みることなく玄関口に向かい、施錠を解除。更に澄んだ外の空気を吸い込むと、あの膿み切った悪臭に絡め捕られていた四肢が自由を得たかのように躍動する。外廊下を悠長に通過している余裕はないと反射的に恭个は欄干に足を引っ掛け二階の高さから緩慢な放物線を描いてアパートの外に脱出することに成功した。日頃の行いか、積み重ねはものを言うとばかり無駄にパワフルな身体能力を発揮し難なく窮地を脱したわけだ。
「あっは――伊折、四半時ぶりかな」
空から降ってきた恭个の長身を見上げながら、その背後から覗く咀嚼女さまの異様に虚を突かれたのか、しばし伊折は放心していた。やがて、
「余裕ぶっている暇はないわよ。あなたが解呪した咀嚼女さまの力がなくなったことでこの空間が急速に収束していってるわ」
「解るの?」
「まあ、そうね。そういう性分ですから」
息つく暇なく恭个たちは走り出す。博和含め集まった街の住人たちを先導する勝利を約束する女神とは言わないものの現世に還る水先案内ぐらいは務まるだろう。
方角に頓着せず走り始めた恭个は再び自身の思慮の浅さを呪った。
「ところで私たち、どこに向かって走ってるの?」
「はあ!? どうしいてそう短慮に走るの?」
「言ってる場合かよ。急を要する展開、こんな虚構塗れの街に取り残されるなんて居ても立っても居られないじゃないか!」
しかし、そう言い争っていては究極的な選択を誤りかねない。
「博和さん! ついてきてますか? この道の先には何がありますか」
恭个は大声で呼びかけ自分たちが向かっている場所を訊く。
「はい、ここにいます。先ほどはその……咀嚼女さまはどうなったのですか?」
「ああ、まあそれは何とかなりました。おそらく、街に楔を打たれた呪いのようなものは排除できたかと思います。しかし、」
このままではこの虚構の産物に取り込まれ永遠に現実世界に戻れなくなる。そう捲し立て博和を狼狽させる。むしろ、焦りに募っているのは恭个の方だったようだが、除霊に成功した人間を見る目は少し違うようである。
兎角、博和の言によればこの先は即身仏として涅槃入りした方々のミイラが納められている山の中に至るという事。
「即身仏に涅槃? なんだかめちゃくちゃな教義に感じますけど。つまり、この先はあれか……伊折の書いた地図にあったよく解らない靄靄の中か」
今まさに恭个率いる宇留江の住人たちが向かっている地点――伊折の街のスケッチを見た時に直感的に禍々しいと感覚した方角、咀嚼女さまのアパートから北西の場所。そこは即身仏と化し入山する場所であり、宇留江に集った人々の究極の楽園。
「どう思う?」
「私に訊かれても……ただ、直接見る事には意味があるのじゃない?」
「それも真っ当な考え方かね……しかし、直接的な脱出方法が消え失せたからといって迂闊に近づくには私の感覚が許そうとしない」
恭个の鋭敏な感覚が第六感である証左はないが、身に宿す炎が内側を焦がすようなざわめきを呼び覚まし、落ち着きを見ない。後天的に宿した力に対して先天的な恭个の直感力がそれを勝るかどうかは賭けでしかないが、往々にしてそういった悪運に近しい賭けには自信があった。
「まずは現物を拝むとしますか」
恭个の答えに伊折は小さく頷き、着地点へと向かいつつある今フェーズのフィナーレをと突き進む。
僅かにそれと見て取れる山道への入り口をかき分け、大勢の宇留江の住人が先導する赫赫とした女の後を追従する。希望の灯火か、海を揺らう不知火か。深さを増していく草木を掻き分け緩く傾斜する山道を駆けていく。
もはや自立的な解釈を得、自己判断する正常な理性を排した住人からすれば善きに悪しかれも先を導いてくれる存在は咀嚼女さまと代わりないのではなかろうか。自身とそれとを比較して、否と唱える恭个が人道的と言えばそれは事実だろう。だからといって誰も彼をも救う救世主たりえる器かと言えば断じて否。
正義のヒーローとは程遠く、目の前にいて手を差し伸べてくる存在なら拒みはしない。しかし、無論、ただ働きなど言語道断。その後はそれ相応の対価を求める。人間とはそういう生き物だろ?
善悪を問うことに意味はないと考え、その中道を行く。救いが善なら、なにかを切り捨てる行為を悪と罵られようと何ら痛痒は感じない。少なくとも、偽善とも取れるような〝すべてを救って見せ〟るなどとは口が裂けても言えない。
過去がそう嘯くのか、彼女生来の心情なのかは兎も角、自身に嘘ついてまで行為を全うする事だけはどうにも鼻白むような奇妙なモヤモヤを心の内に感じ取る。
こんなにも大勢の人間を巻き込んだ宇留江という虚構に対する恭个の今あるスタンスが鼻持ちならないストレスを持ち込み、かつ、このような嫌がらせにしか思えない世界を構築した元凶の影を幻想し吐き気にも似た嫌悪感が彼女の背にのしかかっていた。
そんな恭个の理念的なことはとりあえず置いておくとして(深くはいずれ語られるだろう)――
一見、その先に渦巻く空間の揺らぎは街の出口と錯覚させるような温かさを持っていた。しかし、実際はそうではなく未だ害悪の兆しが伺える。というのも、そもそも街が拡大したのには膨大な量の投げ銭があったからでは? という仮説が立つ。ここから類推していくと、それは虚構に投じた富という虚栄の肥大といった比喩が見え隠れする。ならば、この先の涅槃というものは歪んでしまった咀嚼女さま等に通った性質の悪意による詐称を疑わずにはいられない。そもそも、街から脱出したいというなら、そんな胡乱な渦巻きに飛び込むことという選択が解せない。
あちこちから勝手に住人たちは迸る。決壊したダムの奔流さながらそれらは留まることを知らない。あの博和ですら虚構から目覚めたばかりの熱気に充てられたのか、息巻いて囃し立てる。
あそこから出られるぞ! お前たち早くあれの中に飛び込め! 涅槃への道が私たちを救ってくれる! あの光は俺たちを救う希望だ!
滔々と判然ともしない胡乱な口の中になに躊躇うことなく飛び込む人々。
きっとそれらは救われることはないだってそれは。
恭个が下した決断はこうだった。
消失しているのは宇留江という虚構、だから崩壊しているように見えるそれは実のところ元に戻ろうとする力によるもの。よって、私たちが向かうべき先はあの崩れていく――バグを起こした3D映像のような街が世界から剥離していくその先にある。
「あれは違うな」
どこか冷めたかのような恭个の口振りに伊折はそっと手を差し伸べる。
博和に耳打ちし、恭个の得た答えを代弁させるとともに伊折ともども彼女はこの街を後にすることにした。
大半は、あの粘着質的な涅槃の渦に飛び込んでいった。もとより全を救うことなどかなわない。というより、一方的にその信仰する対象を消滅させた女の言うことを信じる奴というのはそもからして信仰心などないのだ。
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