「あなたは博和さん、如月博和さんで間違いないですね?」


「あなたは博和さん、如月博和さんで間違いないですね?」

 不吉な輪郭を帯びた博和のそれはおよそ死相と呼べる類の厭らしさだった。目を背けたい現実を受け入れて本人かの確認を試みる。

「私は赫崎恭个といいます。探偵です。如月佐紀さんから依頼を請けてあなたの捜索を行っていました」

 事務的に端的に、この場をすぐに立ち退きたい、そんな考えが脳裏を過る。

「あ、ああ――」

 この瞬間、何が起こっているのかを理解していない唸り声を博和は上げる。あまり口を開く機会がなかったのではないか。乾ききった喉の調子を整えようとする仕草一つ見てもどういうからくりで駆動する人形なのか? といったまるで正者の気配の失せたそれはやはり死に体のような不吉な様を印象付ける。

「私がそうだ、博和は私だ。ああ、間違いない。……そうか、娘が、佐紀が探してくれていたか」

 独り言のように、譫言のように、聞き取りにくい声は風前の灯火でこれをどう受け止めていいものか思案気な恭个。

 過去にもそういった心神喪失に近く、生とは真逆の性質に侵食される人間を見たことがある。皆総じてあり得ない現象の渦中にいる存在であり、現実を捻じ曲げるこの世にあってはならない力に作用されているようだった。

「おおよその事情はこちらで把握しています。出来る事ならこの場から早急に立ち去りあなたを娘さんのところに連れて行きたい。しかし――」

 今のあなたをそのまま連れていくことは好ましくない。言いよどむ恭个に代わって伊折が冷淡にも切り捨てる。

「きみねえ、もっと言いようってものがあるじゃない?」

「こういう手合いにはストレートな言葉の方が響くのよ。まあ、本人は何にも聞こえてないでしょうけど」

 然り、伊折の声など届くはずもない。悄然とした博和はかぶりを振る。

「私たちはどうしたってこの街を離れることができない。出ようとはした、しかし、街の入り口を出た瞬間から途方もない飢餓感に襲われる。そのまま……死んでしまった者までいる。怖ろしさのあまり、結局この場所に留まるしかなかった」

 言い終える前に博和は大きく咳き込み屈みこむ。久しぶりの会話でやや興奮も相まって喉に負荷がかかったのだろう。苦し気に俯く彼に伊折が残したゲータレードを差し出す。

「すまない、でもそれはあまり好きではない」

 恭个の手からゲータレードを受け取ることなく博和は応えた。どうにも、この飲み物は人気がないようだ。じゃあなぜ店頭で取り扱っているのだろうか。理不尽にも嫌われるそれを代わりに恭个が飲むことにした。味はどうにも好きになれそうもない。

「ええ、道理でしょうね。ここから出られない立ち退けない。そういう性質を有しているのは直感的に察せます。ではなぜなのか? その脳に打ち込まれた楔を解くためにも一つ、教えては頂けないでしょうか。あなたたちが犯してしまった過ち、その顛末を」

 気付けば日は沈み、仄暗い空にかかった雲が月を覆い隠す。恭个たちの背後、街の中心から集まってきた人々。頑なにコンドミニアム内から出てこようとしなかった住人たちが一気に押し寄せていた。

 総じて皆、表情に覇気は感じられない。ゾンビの軍団とでも呼べばいいのか。その足取りには否応なく迫る死の予感に慄いているようだった。これから選択される今宵今夜の供物として。ただ飼われる側の家畜としての心理が、住人ほか博和らを絶望たらしめている。

「あの夜は、そもそもおかしかったんだ……あんなことになるとは……」

 重々しい声音にざっと住人たちの足音が止まる。あの時間違ってしまった選択を悔いてか、はたまた聞き捨てならない懺悔を厭うてか。


 あの夜は真っ赤な月が浮かんでいた。ブラッドムーンとか言うのだったか、よく解らないけど。とにかく蒸し暑い夜だった。日が沈んでも少しも涼しくなる気配はなかった。

 私も街に着いたばかりの新参者でどうしようもできなかったことを今も悔いている。いや、悔いて済むような話ではないが。

 私もこのアパートに強い憧れを抱いていた。なんせ咀嚼女さまの傍で彼女の咀嚼音と共に生活できるんだ。蕩けるような高揚感が安心感と交互に脳を直接くちゅくちゅと掻き混ぜるあの感覚は端的にセックスなどでは味わえない快感だ。それがいずれ即身仏と化す原因だとしても、いやむしろそうであるからこそ私たちはこの街に集ったんだといえる。自殺願望? それは客観的主観の問題だ。私たちはそれを自殺とは言わない。

 ところで、君たちのように招かれざる客というものは後を絶たない。大抵の人間は遭難者としてこちらから丁重に街の外へと案内していた。しかし、稀に中途半端な知識とこちら側とのコンタクトもなしに紛れ込んでくる輩は居る。そしてそれらがもたらす害悪は他でもない街に多大な不利益を被る。

 そいつは、言ってしまえば怖いものに対して敬意を表さないむしろそれを破壊する迷惑系の人間だった。アパートまで忍び込んできたそいつは(悪いが名前すら知らないのだよ)咀嚼女さまに会わせろと喚き散らした。もともと、このアパートには街の幹部が住まう仕来りとなっている。一つは咀嚼女さまに妄りに近づこうとする輩に対する警備、つまりはお守り役を務める。もう一つは厳正な儀式を毎夜滞りなく執り行うための神官のような役割を彼らは得ていた。

 彼らと不届きな男は対立した。数人で羽交い絞めにし追い返そうとしても、いつまでも抵抗する。挙句の果てにナイフなど取り出して……想像に難くない、揉み合いの末誤って男の首、頸動脈を切り裂いてしまった。間違いなく事故だ。ここまでなら、情状酌量の余地はあっただろう。それでも私たちは外界との縁を切った別物なんだ。そういう優越感のようなものが私たちの正常だった認識を捻じ曲げてしまっていた。警察が介入したときこの街はどうなってしまうのか? 事は公になって然る機関によって封鎖される。まるで陰謀論にでも出現するような霊的な組織を私たちは恐れた。

 だから、当然の帰結――その時はそれが正しいと誰もが思っていた――街の外にでも放り捨ててさえいれば少なくとも街を気取られることもなく通り魔に襲われ遺棄された遺体が発見される程度(こんな言葉は使いたくない……)だったはず。

 間違いなくあの夜は狂っていた。誰かが言った。咀嚼女さまに食べて戴こう。そうだそれがいい。不届きなる者の肉を喰らって戴き二度とこのような輩を許さぬその礎となってもらおう。そうこれは私たちの流儀に則った供養なのだ。

 なにをもっても正当化されない、思い返せば馬鹿馬鹿しい妄言が飛び交っていた。麻縄で括られた冷たくなった男の身体を103号室のリフトまで運んで、仄暗い頃合いに咀嚼女さまが顕れて、その咀嚼音が、あまりにも恐ろしく悍ましく、限界まで握りしめられるような圧迫感と軋轢による酷い痛み。脳みそを侵す、あの想像を絶する咀嚼音。

 私たちが歪めてしまった。なぜ、それが人身御供という忌み嫌われる行いだったかと気付けなかったのか。あるいは、それが咀嚼女さまのご遺志によるものだったのか。

 もうどうでもいい。……数日のうちに私たちは悟った。今後は豊穣を願う供物の献上とは訳が違う。咀嚼女さまが望むから人を供物として戴いてもらう。……一度だけとはいかなかったんだ。男を捧げて次の晩は今まで通り牛肉を捧げた。なにかしら後ろめたいものを感じつつも、これでいい、これで問題なく今までのような幸福な時間が戻ってくる、と。

 違っていた。私たちの認識は何処までも甘く、神格化された心霊の類を見誤っていた。

 宇留江の住人は形容しがたい飢餓感に襲われた。丸一晩満たされることのない空腹感が街を混乱に落とし込んだ。アパートの幹部連は全員腹を引き裂いて自決していた。この空腹、満たされない飢えを抑える方法を私たちは既に知っていた。

 その日を境に、街から一人、供物として人肉を捧げることが当たり前となった。あの飢餓感を味わうぐらいなら、私たちの中から一人犠牲になってでも、忌避感の方が勝っていた。

 君たちはまさに最悪の瞬間に街に足を踏み入れてしまった。今夜もひとり、またひとり、選択しなくてはならない。血に塗れてしまったこの街から私たちを解放することは出来ない。それが可能だったとしても、私たちは余りに……外の世界で胸を張って生きていくことは叶わないのだから。


「なるほどね。罪の意識は十分……どうにも〝けし掛け〟られた印象を感じる話だったが、さてどうしたものか」

 恭个は殺到する視線の中にも拘わらず呑気にも煙草などを吹かし始めた。彼らの決心には悪いが、このような状況とは言え無下に扱うことは出来ない。それは人としての一線を越えている。

 人を殺してしまった後の異常心理だと言ってしまえばそれまでだが、通常とはだいぶかけ離れた空間内で正常な判断を下すことは難しかろう。

「経緯はどうであれ、ならばお前たちはその罪を背負って生きていく必要があるように私は感じる。虚構の街の中でのこと、現実の法律で裁けないというなら、別の形で償っていく他ない」

「というより以前に、害悪でしかない超常の存在をこのまま放置するわけにはいかないのよ」

「私はあくまで博和さんを娘さんの下へ連れていくという仕事の為だけに行動する。それが、この街の救済に繋がることとかはっきり言って興味ない、関係ない。現実問題私は明日の生活を続けられる金の為に生きている。お前たちのことなんて興味ない。私が咀嚼女さまからの楔を解いた後のことなんてお前たちが勝手に考えればいい。償いたいのなら償えばいいし、自責の念に堪えられなければこの場に留まればいい」

 知った事じゃない、恭个は善人寄りの人間だろうが、独りよがりの救いを与えることを偽善的と断じている。そうでもなければ伊折を連れ歩いている意味が解らない。

「裁かれる時はそれまでだし、それを知ったうえで生き続けられるなら……あーなんていえばいいのかな、よく解らなくなってきたよ伊折?」

「性に合わない説教なんてやめればいいじゃない」

 伊折にすげなくあしらわれて。さてでは、恭个はこの状況をどう突破するのか。本題に移ることとした。根本的な解決――実のところ恭个だからこそそれは可能だったりする。

 労力、に比してあまり対価が伴わない格好つけてる場合じゃない、と冷たく伊折に囁かれながら萎れて項垂れた枯れ枝のような博和を睥睨する。

「私になら可能だろう。まあ、こういったトラブルには好かれているというか因縁めいた関係にある」

「仰る意味が解らないのですが……」

「咀嚼女さまに喰われちまった脳みそは〝人が助けてやる〟って意味すら汲み取れないかね? 状況に諦めて生きる意志を見失うな。っはー臭い臭いこういう役割はやっぱり性に合わない」

 もうさっさと済ませてしまおう、と吸いきった煙草を虚空に弾いて――宙を回るフィルターが爆ぜて消えた。

 それを合図に恭个はアパートの玄関の方へまっすぐ歩き始めた。伊折は、おそらく仲までついてくる気はない様子。まあ、居ても居なくてもこの場合はどうでもいい。

「し、しかし、あんな――」

「化け物ってか? その認識があるならなおさらあんたらは助かるべきなんじゃないの」

 よくよく見てみれば、人の侵入を簡単に許しそうなほど簡素な造りのアパートだった。あえて、都会の中に紛れる寂れた建物を装う意図だとしたら、咀嚼女さまの祭壇ともいえるアパートをこのように設計したのには一種の悪意する感じる。

 それはありがちな事故物件に相応しい様相なのだから。

「二つ質問」

 はあ、と気の抜けた返事が返ってくる。

「毎夜ごとの供物の選択、それはどのように行われていたのか」

 恭个に訊かれて数瞬呆けた後、博和は答えた。

「くじ、くじで決めてました。その、プログラミングに精通していた者がいまして、彼の設計した抽選プログラムでランダムに、住人の選択をしていました」

 公平性を期すならば、か。そのプログラムを作った男は早々に犠牲になってしまっているようだった。泣き叫び逃げ惑う一人を追い立てて犠牲にするよりかは理性的だ。ゆえに、まだ還ることが可能と恭个は判断する。

「供物としてリフトに乗せられる者は、縛るのか? あるいは殺すのか?」

 はっと息を呑んでいる雰囲気。それから信じてもらえないだろうがと前置きしてから、

「麻酔がある。キシロカインという歯科治療なんかで用いる物が。それを譫妄状態あるいは昏睡する量を打ち込むようにしていた」

 この街ひとつで完結するよう医療行為等、専門職の人間も少なくない。それ故に、咀嚼女さま本来の力を信仰していた当初、宇留江という街は楽園、ユートピアと言って差し支えなかったのではないか。

「それもこれも全部後の祭り、と」

 さて、祭壇と目される小部屋に通じる103号室の扉の前までやってきた。二つの質問に答えてもらったのは、間をもたせるためのつまらない与太話だったろうが、この街の住人が因習村めいた凶行に真っ先に飛びついているようだったら話を反故にしても良かったと考えていた。

「あんたたちが思っていた以上に理性的に街にとどまり続けたのは正解だったよ」

 その結果が裏返っていたならこの『存在しない街』という話はもっとも悍ましい様相を経て街談巷説として予想もしない悪果をもたらしていたかもしれないのだから。

「それじゃあ私には麻酔は不要だから、あとは上手くいくことを祈っていてくれ」

 それだけ言い残して恭个は何のためらいもなく災厄の中心へと手を伸ばした。

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