12、ヴィルダ新暦197年第四季 陽アルテア月の42日


 俺は目を覚ました。

 まるで草を刈った直後に足を踏み入れた公園のような、すさまじく強烈な草の匂いに、頭がくらくらする。


「は?」


 混乱したまま、俺は周囲を見回した。

 緑、緑、あらゆる場所が緑で覆われている。牧草地ならこのくらい草だらけの場所でもおかしくないが、あいにく俺はこんな場所を訪れた覚えはない。

 だいたいなんで野外なんだ。俺はけが人だぞ、と考えてから、自分の体を確かめる。


 なぜか、まったく見覚えのない服を着ている。しかもすごい違和感がある。

 手を伸ばし、体を起こし、立ち上がって、


「……は?」


 もう一度、声が出た。意味がわからない。

 俺は物部龍兎、二十三歳である。

 大学を卒業して、就職に失敗してうだうだしているフリーターである。それがどうしてこんな場所で、こんなふうにおかしなことになっているのか。

 考えても考えても分からず、あ、と思い出した。


 事故だ。猫を追いかけていた少女を庇って、車にはねられた気がする。

 しかし、確かめてみたがどこも痛くない。


 むしろ調子が良い。

 全然寒くもないし、暑くもなく快適で、人生でこんなに気分が良いことは無かった気がする。

 それくらい身体が自分の思い通りに動くことに感動していた。


「え……?」


 そんなに嬉しかったのか俺は。

 涙が出ていたことに気がついて、袖で拭う。


 改めて自分の格好を見直してみるとほぼコスプレであった。

 想像の中の中世ヨーロッパの金持ちが誂えた派手じゃない服装、みたいな印象である。

 なかなか趣味が良い。


 これを作らせたやつは俺と話が合うだろう。さて現実逃避はこのくらいにして、ここはどこなのか。

 待てど暮らせど誰かが駆け寄ってきてドッキリ大成功の看板を掲げたりはしてくれず、俺は途方に暮れていた。


 夜ではなく、知っている景色でもなく、病院で知らない天井だと口にすることもなく、自然豊かな野外に一人ぼっち。


「こういうとき、誰か説明してくれるもんじゃないか?」


 声を上げてみたが、誰かが来る様子も気配もない。

 しばらく待ったが変化はない。


「どうせ近くにいるんだろ? 俺が困ってる様子を見て楽しいか!?」


 様子をうかがっているのかとカマをかけてみるも、そよ風が吹いただけだった。

 草むらがさざなみのように流れて揺れる。

 穏やかな天候に、気持ちがいいくらいに何もない周囲。


 空は青いし雲はゆっくり流れて穏やかだし、ただの良い天気が見えるばかりだ。

 どうしようもなく、とりあえず巨大な倒木を目印として、そこから離れるようにして歩き出した。


 どっちに向かっても良かったが、太陽を背にする。いやに眩しく感じたから、その逆に向かっただけである。

 そうして俺は二日ほど歩き続けて、はたと気づいた。


「空腹を感じない。おかしいぞ」


 普通の人間なら一日食わなければ空腹で動くのも億劫になる。

 そもそも、子供が二日も歩き続けられる脚力と体力があるのもおかしい。

 自分はそんなに頑丈ではない。なのに足の裏や太ももふくらはぎが痛くなることもなく、だんだんと恐怖を覚えてきた。


「まさか、はやりの異世界転生かよ」


 転移と考えるには、自分の肉体が不気味だった。

 途中で見つけた水たまりに顔を映せば、間違いなく子供の頃の俺だった。

 みんなから龍兎と呼ばれ、全能感に浸っていた小学生時代の俺である。


 モブに堕する以前の、自分は小学校一格好いいし天才と信じていた時代の俺だ。

 ただ肉体の頑強さと裏腹に、思考は二十三歳まで育って世を拗ねている理屈屋のままなので、どうにもちぐはぐな感じはする。

 まあいいや、といったん疑問は脇に置く。


 一応、怪しげではない果実を見つけたので、パッチテストをしてから、ほんの少量食べてみる。

 美味い、とは言いにくい、いわゆる原種らしいそこはかとなく手放しで褒められない味がした。


 甘いは甘いのだが、品種改良済みの果物には到底及ばない味であった。

 ただ、食えたことは歓迎すべきことだ。


 食事を不要とする怪物に成り果てている恐れもあったが、ちゃんと食の喜びがあるのなら、人間性は維持できている。

 そう考えることにしたのだ。


 草原から離れると意外に歩きやすい道があった。

 街道だろうか。

 とりあえず人間のいる集落を探してみる。


 まさか首狩族の縄張りということもあるまい。

 異世界もののテンプレのような襲われている商人や貴族と出逢うこともなく、街道らしき道をひたすら東に向かって歩く。


 看板があった。

 が、俺は天を仰いだ。

 なぜか書いてある文字が日本語である。周囲に建物も見えず雄大な自然のある景色だらけで、しかもあれほどの草原がある地域となると限られる。


 ここは北海道なのか。それにしては妙に海外っぽい気もするが、目の前の日本語の看板があまりにも強い。

 異世界じゃないのかもしれない。

 いやしかし、だったら子供の頃の俺に若がっていることやこの異常なまでの体力は、どう説明すれば良いのか。

 未来の地球でもないし、黒尽くめの男たちに薬を飲まされたわけでもなく、魔法学園から入学許可の手紙が送付されたわけでもない。


 説明をしろ説明を。責任者出てこい。


 俺の叫びは虚しく響いた。

 誰もいない。


 空腹に耐えかねているわけでもないが、見つけた川で魚を獲ったりもした。

 川魚は寄生虫が怖いから、生では食べたくない。もしかしたら胃も頑丈になっているのかもしれないが、冒険はしない。


 魚を握りしめたまま落ちた枝や枯れ葉を探す。自分でもびっくりするほどの手際で火を起こせてしまった。


 美味い。マスのような魚だ。

 空腹は感じないのに、腹が満たされる感覚はある。

 随分と都合の良いことだが、逆よりはずっといい。

 若いときの苦労は買ってでもしろ、というのは売る側の欺瞞なのである。

 苦労なんぞ、しないに越したことはない。


 歩き続けること五日、とうとう文明の匂いのする街へと辿り着いた。

 壁に囲まれた、わりと大きい街である。


 いや、もちろんさいたま市とか千代田区とかと比べての話ではない。

 田舎の限界集落を想像していたら、その十倍くらいの大きさの街が出てきたくらいなものであった。

 人口は二千人くらいだろうか。壁に囲われている時点で外敵を想定しているようで、少しばかり危険を感じる。


 すぐに街に入るのではなく、遠目に観察をする。

 門番というか、衛兵らしき人物が街の出入りをチェックしているようだ。


 これはまずいか。

 建物の作りも人種も空気感も、どう見ても日本の市町村ではない。

 おそらくは中世ヨーロッパ風異世界で、つまり余所者の出入りを許してくれるとは考えにくい。


 身分証か、許可証、あるいはマスターキーが欲しいところであった。なお、この場合の万能鍵は斧ではなく袖の下の方である。


 あった。

 もしかして、と服のあちこちを探っていたら、縫い付けられた裏地に金貨銀貨が数枚ずつ隠してあった。

 所持金ゼロスタートは最悪盗みに手を出すところまで追い詰められる心配があったから、これは幸運であった。


 元手がないと何も出来ないものだ。

 決まった住所がないから新しく部屋を借りられないとか、服を買いに行くための服がない、みたいなループ構造の詰みが発生しなくて本当に良かった。


 なんとなく視線を感じて、周囲を窺う。

 門番と目が合ってしまった。

 気づかれてなお観察を続けるわけにもいかず、街に向かって近づいてゆく。


「こんにちは」

「む、黒目黒髪か……いや、まさかな。それより坊主、親はどうした? こんな場所に一人でいると危ないぞ」


 門番に挨拶をして、何食わぬ顔をして前を通り過ぎようとしたら当然に制止された。

 さっき通った男は談笑してそのまま街に入っていったから、その後ろをついていく手もあったが、結局は見咎められたのだろう。

 見覚えのない人間を通さない、という仕事をちゃんとしていたわけだ。


「一人なんですが、私は街に入ってはいけませんか?」

「通行証……いや、しかし……子供を追い返すのもな……」

「あの」


 普段使わない、私、という一人称に就活のトラウマが蘇って悶える。

 御社。うう。


 嘘はつかない方が良いだろう。

 なるべく正直に、かついい感じに相手が納得してくれるように話を持っていくのが大事だ。

 面接は心証と、喋り方。そしてレスポンスの良さ。


「通行証がないと、街へは入れないのですか?」

「普段は、もう少し緩いんだが……今はちょっとな。まあ、子供なら問題ないだろう。さ、入っていいぞ。ところで聞きにくいことを聞くんだが、親はあとから街に来るのか?」


「……いえ、すでに亡くなっているので」

「そうか。小さい村で食うに困って、この街まで仕事を探しに来たってところか。手が足りないところはいくつかあるが、子供にもできる仕事はそれほどないぞ。大丈夫か?」


「贅沢を言っていられる場合ではないのは分かっています」

「ならいい。……強く生きろよ」


 門番の温情で街の中に入れてもらえた俺は、安堵しつつも、情報収集は怠らなかった。

 何かが起こっているのなら、それを知るチャンスを投げ捨てたりはしない。


「ところで門番さん。今は出入りを厳しくしているってことは、何かあったんですか?」

「はっはっは、子供の知ることじゃないぞ。さあ、早く行くんだ」


 残念、教えてくれなかった。

 とにかく俺はようやく人里に辿り着いて、ひとまず文明の香りに触れることが出来た。


 大変うれしいことである。街の中に入った途端、臭いがすごいが。

 中世のパリかここは。そんな俺の不安は外れた。


 さすがに大通りがうんこまみれではなかったが、全体的に異臭が漂っている。

 いや、死臭と呼ぶべきかもしれない。

 信長上洛前の京都の方が近かったのかもしれない。


 待ちゆく人々の顔には悲壮感が漂い、街全体に活気がない。

 辛気臭い顔で立ち話をしている飲んだくれ二人の会話に耳を済ませると、俺は門番の言葉の意味を理解した。


 この国は戦争中らしい。しかも魔王を名乗るものが現れて、特に四天王と呼ばれる恐ろしい魔族が好き勝手に暴れまわっているのだという。

 さらに、魔族はモンスターを操る力と特異な能力を持ち、あちこちに攻め入っては、大きな被害を出しているとのことである。


 そのうえ魔王はかつて封印されていたとか、それなのに封印した場所や人物、どうやったのかすら誰も把握していないだとか、大陸全土の混乱度合いを示す妙な噂が、日々まことしやかに囁かれているという。

 他人事ながら、お偉いさんの苦労は察して余りある。


 そして、この街に勇者が来たとか来るとか、そんな話まであるらしい。


 勇者である。

 異世界転移ものなら普通その立場は俺だろ、と一瞬だけ思ったが、決してそんなことはないようだ。

 女神から何らかの試練を与えられ、それを乗り越えたものを勇者として認定するとかなんとか。

 酔っぱらい同士の会話だから何もかも曖昧だが、だいたいそんなところだった。


 早まったかもしれない。そんな危険な連中が跋扈しているのでは、この街が標的になる危険性は高い。

 むしろ街が襲撃されると予想されるから、門番は出入りの制限を強めている。

 つまり魔族はスパイを送り込むくらいには知能が高く、狡猾で、しかも人間と敵対している。


 不穏さの理由に興味がないわけではなかったが、死ぬ危険がある状況はごめんだ。

 まずここで情報と道具を集めた方が良さそうだ。


 子供の身でもできる仕事をして日銭を稼ぐつもりではあったが、状況次第では諦めるか切り上げて、さっさと街を出たほうが良いかもしれない。


「勇者ねえ……そもそも魔族ってなんだ? そんなのいたのか」


 違和感を覚えたが、そもそも俺はこの世界のことを良く知らない。

 実際に被害が出ているのなら存在はしているのだろう、と考えて、まずは宿を探すことにした。


 できれば夕食付きのところがよいのだが、贅沢は言っていられない。


 そして俺は手頃な宿を見つけた。

 看板娘の口が軽いというか、物言いがいちいち危なっかしいのは減点要素だったが、宿賃は安価で、夕食も悪くない味だった。


 宿泊名簿に名前を書くときだけわずかに緊張した。リュート、と少しだけ表記と響きをいじっておく。

 これなら偽名ではなく表記ぶれの範疇だろう。

 俺はそれから日中は街中を散策し、旅に必要そうな道具を買い揃え、子供の姿をフル活用して情報を足で集めた。


 どうにも視線を感じる。さっと振り返ると、奇異の視線を向けていたであろう通行人から目をそらされることが何度もあった。

 どうやら黒目黒髪は悪目立ちするようだ。

 日本人というか、東洋人っぽい顔はほとんど見当たらず、一目で余所者と見抜かれるらしい。


 金銀に茶色栗色亜麻色の髪まであった。

 多様性があるようで、黒い髪だけはいない。こうなると日本語が通じることだけが不気味過ぎて、夢かゲーム世界かと疑いたくもなる。


 一応、子供でもできる仕事は複数あった。魔王軍とやらの襲撃の余波で、各地から男手が減っているらしい。


 さらに、やってみろと言われた力仕事で結果を出したおかげで宿賃も稼げた。

 成人男性だった頃の俺より力があるんじゃないか、この身体。


 不可解さを見なかったことにすれば、悪くない状態だろう。

 どんな罠があるか分かったものではないが、背に腹は代えられない。


 街にいると噂されていた勇者を一目くらいは見てみたかったが、どうにもそれらしい人物は見当たらない。


 所詮噂か、と諦めて街を出る支度をしていると、どこかで鐘が打ち鳴らされた。


 一度や二度ではなく、カンカンカンと繰り返し激しく叩かれる。

 何事かと戸惑っている俺を置き去りに街の人間が皆どこかに逃げ出す。これは襲撃の合図らしかった。


 一週間ほど滞在し、明日街を出る予定だった。

 タイミングの悪さに頭を抱えた。

 俺が入ってきた門か、それとも逆側にも出入り口があるのかと様子を見るが、どちらも違う。


 壁に囲まれた街である。そう容易く侵入されることはないだろうと高をくくっていたら、声が聞こえた。

 頭上からの声であった。


「我こそは魔王軍四天王が一人……! 天空のゲルディウスであるッ!」


 悪趣味の極みとしか思えない翼を持った不気味な造形をした化け物が、人間の言葉を喋っている。

 どこが口なのか良くわからないが、声を発しているからには声帯があるのだろう。


 テレパシーで俺の脳内に声を直接送り込んでいるふうでもないし、そもそも俺に視線を向けてもいない。

 ちょうど物陰に隠れることができた俺は、そのまま脱出ルートを考える。


 人並み以上の体力や腕力、脚力を手に入れたし空腹にも耐性があるとして、それが何になるというのか。


 空を飛んでいる化け物相手に戦う術を持ってはいないし、そもそも戦う意味がない。

 街に愛着があるわけでも、どうしてもこの場で立ち向かわないといけない理由すらないのだ。


 ただ、タイミングが悪い。

 四天王のひとり、天空のゲルディウスと名乗った人型の、いやシルエットだけ人の形をした良くわからん化け物は、あたり一面に破壊を撒き散らし始めたのだ。


 手のひらから謎の光線を発射すると、そのたび建物は爆発炎上した。

 さらに、この街にはやたら木造住宅が多かった。

 そのくせ防火対策などしていないのか、どんどん周囲に火の手が広がってゆく。


 逃げ惑う人々に対し、ゲルディウスは空から様々な攻撃を放ち続けた。


 悲鳴が上がる。

 断末魔が聞こえてくる。

 建物が崩壊する音がする。

 燃えた建物や人体の臭いが立ち込めて、煙と塵が舞い上がっては視界を遮る。

 ひととおり被害を拡大させると、ゲルディウスは高らかに謳うようにして、街全体に聞こえるほどの大声で、こう告げた。


「さあ勇者よ、早く我が前に現れるのだ! すぐにでも貴様が来ないと、この街の人間はひとり残らず死ぬことになるぞッ!」


 この魔族の狙いは、街に来るだか、来たという勇者だったらしい。

 俺が歩き回って調べた限り勇者がこの街を訪れた形跡はなかった。

 だとすると、とんだとばっちりである。


 ゲルディウスはふと振り返ると、兵士に魔法を放った。

 弓を構え、今まさに矢を放とうとした兵士はその姿のまま真っ二つに両断された。


「はっはっは! 勇者が来ないのであれば、我は遊ばせてもらおう! 手始めに、そこに隠れている人間からだな! 逃げようとしても無駄だ! 出てこなければまとめて殺す! 出てきたらひとりずつ命乞いを聞いてやる!」


 やばい、と思ったものの、俺は飛び出さなかった。

 息を潜め、気配を殺す。

 建物ごと爆破されればどうしようもないが、攻撃が飛んできた様子はない。

 建物の隙間から覗くと、数人の男女が魔族から遠ざかろうと走り出したところだった。


「早く逃げろ!」


 と、叫んだのは見覚えのある顔だ。俺が泊まった宿の主人だった。

 宿屋を営んでいた親子三人と太った女性がひとかたまりで動いている。

 散り散りに逃げたほうが助かる可能性は高いが、それを考える余裕はなかったのだろう。


 魔族が指先から細い光線を発射した。

 はっとした宿の主人は、娘をかばうように射線の方向に飛び出した。


 さきほどの兵士に向けたものとは違い、かなり荒い狙いだったから、当たったのは運が悪かったとしか言いようがない。

 射抜かれたのは心臓だった。あれでは助かるまい。


 言葉通り、ゲルディウスは遊んでいるのだろう。人間をなぶって、悲鳴や慟哭を聞くために、じわじわといたぶっている。

 そうした嗜虐的な振る舞いが声にも行為にも現れている。


 続けて太った女性と、弓も持たずに飛び出してきた騎士らしき人物が殺された。

 残ったのは、あの宿の従業員である母と娘だけだった。遠からずあの二人も惨たらしく殺されるのは目に見えていた。


 助けに入るつもりはなかった。

 対抗手段無しに出ていっても殺されるだけなのがひとつ。

 もうひとつは、あの母子に決して好意的な印象を覚えていなかったからである。

 宿泊代の安さと夕食の味を除けば、あの宿は決して褒められた質ではなかったのだ。


 接客態度が特に悪かった。

 黒目黒髪の子供だから余所者で、しかも不審人物扱いだったのは分かるが、顔と言葉に出さないくらいの配慮は欲しいと心底思ったものである。


 俺にもサービス業のバイト経験がある。接客が良くてプラス評価になることは珍しいが、悪ければ必ず評価が下がるポイントだ。


 最終的な評価は事実ではなく印象で決まるから、態度が悪いと他のサービスがどれほど良くても客は不快感を覚えてしまう。


 前半中盤めちゃくちゃ楽しくて面白いのにラストがバッドエンドで終わる物語みたいなものだ。


 その印象に引きずられて結局、全部が嫌な感じの思い出になる。

 笑ったことも楽しかったことも薄れて、後味の悪さだけが心に暗い影を落とす。

 でも仕方がない。

 それも含めて全体の評価なのだから。


 というわけで俺はあの母子から目を逸らした。

 空で楽しげに笑いながら虐殺している魔族の目を逃れ、無事に街の外へと逃げるためのルートを探そうとした。


「にげ、て……リリ……」


 視界の端で母親が、あの娘をかばうのが見えた。

 覆いかぶさった直後、さきほどの光線が母親の背中を貫いた。


 血しぶきこそ派手に飛び散ったが、建物に向けていたものに比べるとだいぶ抑えられた威力に見える。

 魔族は宣言通りに遊んでいるのだろう。勇者を待つ間の暇つぶしだ。


 父親のように心臓を射抜かれたわけでもなく、死ぬほどの傷ではなさそうだ。 

 娘が凍りついたように動きを止めた。動揺か、足が動かなくなったのか。


 リリだかリリーだかが、宿屋の看板娘の名前なのだろう。名乗られた覚えもないが、少しばかり耳に残っていた。


 どうしてか見捨てようという気が失せてしまった。

 戦う手段はない。子供らしからぬ怪力を使って投石でもするか。

 幸い、投擲に使える破片がそこら中に落ちている。


 俺は前に出た。

 出てきたのが勇者だと思ったのか、ゲルディウスが俺を凝視した。

 表情に変化があったのは一瞬で、つまらなそうな目をした。

 塵芥を眺める無機質な瞳だった。


「ようやく待ち人が来たかと思ったが、期待外れであるな」


 分かったことがひとつ。

 勇者は黒目黒髪ではないらしい。

 同郷の人間が実は勇者で、みたいな展開を期待したが、なかなか上手く行かないものである。


 同じような容姿の持ち主が勇者なら、俺にもこの魔族を打倒しうる隠された能力があるかもしれないと、そう夢を見られただろう。


「そこな娘を守るためか? それとも恐怖で気が狂ったか?」


 俺は無言で魔族の前に立ちふさがった。

 宿屋の母子をかばうような位置に出た。


 俺の態度か、表情か、何かしらがゲルディウスの癪に障ったのだろう。

 凶相が笑みに変わる。


「……愚かな子供よ、死ぬが良い」


 魔族が俺に手のひらを向けた。建物を破壊した、あの高威力の爆炎が放射される。



 ――馬鹿はアンタよ。死になさい。



 どこか覚えのある少女の声が聞こえた。そう思った瞬間、ゲルディウスの身体が凄まじい勢いで燃え上がった。


 唐突に、おそろしいまでの破壊の烈光が渦を巻いた。

 それはさきほどゲルディウス自身が放った破壊の光線を複数束ねたかのようで、名残の燐光が周囲にいまだ輝いている。


「ぐあッ、ガっ……なに、が……」


 恐怖に歪む顔の魔族は、周囲を慌てた様子で見回すが、それを成した存在の姿はどこを探しても見つけられない。

 焦った様子のまま、瞬時に不利と判断したのか上空に逃げ出そうとする。


 空には未だ輝きが残っていて、あまりに眩しい。

 目を細め、何が起こっているのかを見極めようとするが、魔王軍四天王ゲルディウスの焼け焦げた身体と煙の動きしか見えない。


 ふと、なにかが見えた気がして、その位置を指さして距離感を掴もうとする。


 どうなっているのか。

 俺の疑問を置き去りに、魔族が高度を上げる。人間には決して追いかけられない場所へと逃げ込んでゆこうとする。


 さらに高い場所に、黒い雲があった。

 街から立ち上った煙が吸い込まれていったのか、青空に似つかわしくない、どす黒く圧縮されたような黒があった。


 その真っ黒な雲はちょうどゲルディウスの真上に位置していた。

 まさに天から雷が降り注ぐようだった。

 光の槍が次から次へと魔族の肉体へ突き刺さり、生命尽きるまで何度も打ち据える。


 青空のなか自由に空を飛んでいたゲルディウスは、まるで太陽に近づきすぎたイカロスのごとく、空を飛ぶ力を失いみじめに墜落していった。


 俺はただ、あまりにも現実離れした光景に、空を仰いだまま呆然としていた。


 なんだあれ。

 怖すぎる。ちょっと尋常じゃない。

 もしやあれが噂の勇者の力か、と思ったが、天空のゲルディウスも、これほど力の差があることを知っていたら、わざわざ街を襲撃して呼び寄せる阿呆な真似はしないだろう。


 さっきの様子を見るに残虐で狡猾かもしれないが、知能が低いわけでもなさそうだった。

 街の破壊で笑っていたのも、大勢を虐殺していたことも、勇者ごとき正面から戦えば勝てると思っているからこその蛮行に見えた。


 それを姿も見せず一方的に消し飛ばした何者かがいるのだ。

 まさかと思って宿の娘を横目で眺めてみるが、彼女も何が起こったのか分かっていないような顔をしている。


 声の主はその娘ではないし、あの可愛らしい声も聞こえなかったのだろう。

 俺が立ち尽くしていると、背後の娘が何か叫んでいるようだった。


「どうして……!」


 悲痛な声だった。


「どうして、そんな力があったのに、もっと早く助けてくれなかったの!?」


 え、俺?


 急にそんなことを言われてびっくりしてしまった。

 予想外過ぎたのだ。


 いやいやいや。そんな力があったら、こんな状況になっていないのだけれど。

 釈明しようにも宿屋の娘の目は、完全に俺のせいと訴えている。

 まったく意味がわからない。


「もっと早く来てくれたらっ……お父さんも、みんなも、こんなふうに死なずにすんだのに! あなたのせいよ! あなたなら簡単に助けられたんでしょっ……!」


 そこで、彼女が誤解していることに気がついた。

 あの魔族を消し炭に変えたのは俺だと思ってしまったらしい。


 いやいや、いやいやいや。

 無理。

 いくらなんでも無理がある。


 だが、肉親を亡くしたばかりの相手に道理を説いても意味がないことくらいは、俺にも分かる。


「ごめん」


 口だけの謝罪である。

 被害者の気持ちに寄り添うのは大事なことだが、さすがにこれ以上付き合ってはいられない。


「一応言っておくけど、今のは俺じゃないんで、それだけは理解してもらって……」


 どんな目で睨まれているのか。少し怖かったが、覚悟を決めて振り返ると、宿屋の娘はすでに気を失っていた。

 俺の言葉は届かなかったのだろう。


 とりあえず、まだ息のあった母親と一緒に娘を火の手に巻かれなさそうな場所まで運んでおいた。

 見れば、泊まっていた宿屋もしっかり燃えている。


 荷物を全部持ち歩いていて良かった。

 備えておくものだ。


 いろいろ考えた結果、早いところ街を出たほうが良いと結論付けた。

 万が一、本当に俺が倒したと誤解されていたら、たいへん厄介なことになるのは目に見えていたからだ。


 勇者という本職がいるならそっちに任せて、俺はさっさと戦火から遠ざかるべきだった。


 人種も違う、市民でもない、後ろ盾もない人間が、こうした混乱した状況だと責任を押し付けられるのはよくあることだ。


 深入りせずに済んだと思って、まずは避難する住民に紛れて街の外へと向かう。

 そうして俺は歩き続けること一日、見通しの悪い鬱蒼とした森の中へと逃げ込んだのだった。


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