6、ヴィルダ暦134年第八季 陽スクルダ月の17日(2)



「ねえニンゲン、もうそろそろこっちからも質問いーい……?」

「あともう少し。それで、俺以外の人間を見かけたのはどのあたり? 一人だった? それとも複数人の集団? そいつとは話した?」


「あーもーつかれたぁ……なんなのこのニンゲン……アタシもたいがい知りたがりだけどさァ、ちょっとどころじゃなく延々と質問されるばっかりじゃない」


「でもさっき『ふふーん、何か聞きたいことがあればアタシがなんでも教えてあげる!』って言ってくれたから、俺は妖精さんの優しさに甘えただけなんだが?」


「なんだが? じゃないわよ。程度ってものがあるでしょ」


 俺と妖精は、ニンゲンと妖精さんと呼びあっていた。

 自己紹介をするタイミングがなかったこともあるが、単純に俺が名乗るのが怖かったこともある。


 いわゆる呪術的なものを警戒してのことだ。

 名前を知られてしまうと云々は神話にもおとぎ話にままある流れであり条件でもある。


 ありがちとか古典的とか言うなかれ。

 古代の日本でも中国でも、本当の名前は滅多なことでは名乗らないとか、身内や恋人結婚相手くらいにしか伝えない事例や風習があった。


 しかし、名乗らなければそれでよい、という話でもないのがややこしい。


 名乗るか名乗らないか、名乗る場合には本名か偽名か、ウソにならないけど真の名前とも呼べない何かを口にすべきか、それを決めかねている。


 名前を持たないものは一個の人間と認められない。名前を名乗れないものは、存在しないものとして扱われてもおかしくない。

 難しいバランスでの舵取りが要求されている。


「急ぎで知りたかった内容はおおむね答えてもらったからな。助かった」

「じゃあ、今度はアタシの番よね!?」


 妖精はわーいとはしゃいで、何を聞くかを悩みだしてしまった。

 しばらく考えていたが、とりあえずで口を開いたらしい。

 軽い口調でこう聞かれた。


「あ、じゃあじゃあ、ニンゲンはこれからどこにいくの?」

「分からん」


 本当にわからないのだ。

 小首を傾げた妖精に、俺はまっすぐ視線を返す。


「……? えっと、ならニンゲンはどこから来たの?」

「日本だ」


「ニホン? 聞いたことないね。ここからだとどれくらい遠いの?」

「どのくらいだろうな。俺も知りたい」


「へ……? ええと、どうやったら帰れるの?」

「さっぱり分からない。むしろ知ってたら教えてほしいくらいだ」


「アンタ、ニンゲンよね?」

「ああ。少なくとも自分では人間のつもりだ」


 俺としては、はぐらかしているつもりはなかった。

 ゴーギャンの絵画のタイトルのように、何者なのかと聞かれなくて助かった。それこそ答えようがない。


 妖精が不満そうにほっぺたをふくらませるのを見ても、他に答えようがない。


「なら、ニンゲンはこれからどうするの?」

「どうすればいいんだろうな」


「むー……別に難しい質問してないのに、わかんないこと多すぎない!?」

「そう言われてもなあ」


「んー? この草原に来る前はどこにいたの?」

「あっちの方だ。少しばかり東の、何時間か歩いたくらいの場所だな」


「ふむふむ。その前は?」

「日本にいた」


「……? えっと、うーんと、あれ? だったら、どうやってあのへんに来たの?」

「分からん」


 妖精は目をパチパチと瞬かせ、俺の返答による混乱を隠そうともしなかった。

 論理的に考えられるのなら、おかしなことを言っているとしか思えないはずだろう。

 そしてこの妖精の知性は決して低くない。


「はえー?」

「俺は正直に答えてるぞ」


「つまり、いきなりあのへんに……? アンタ別大陸から長距離転移でもしてきたの?」

「転移って現象があるのか。なら、俺は転移させられた……のかもしれないな」


「ううーん。わけわかんない。つまりアンタはいま迷子ってこと?」

「それが正しい表現かどうかは分からんが、だいたいそんなところだ」


「だからアンタはこんなところにひとりぼっちなんだ」


 ぐるぐるとその場で横に回りながら、その場で考え続ける妖精。

 迷子。


 道に迷っているのではなく、帰り道がわからないという意味では、そのとおりだ。

 ただ、それよりは遭難者の方が近い気がする。さらに、誰かの意思が関与していれば拉致被害者と呼称されるべきだろう。


 妖精が可哀想なものを見る目で俺を見た。


「アンタ、すぐには家に帰れないんだ。帰りたいの? 家族が待ってるから?」

「……いや、もう、家で俺を待ってるひとはいない」


「えっと、それでも帰りたいの? どうして?」

「どうしてだろうな。……ただいま、って言いたい。それだけかもしれない」


 本心を吐露すると、妖精はますます憐れむように俺を見つめてくる。


「ひとりは、さびしい?」

「寂しさにも、一人でいることにも慣れたよ。ただ、家は恋しい」


「そっか。アンタは棲み家に、捨てられない思い出がいっぱいあるのね」


 妖精は訳知り顔で頷いた。妙に物わかりの良い様子であった。

 この異世界転移らしき事象が、たとえば何者かとの問答を経るとか、俺が納得した上でなされたものであったのなら、帰還など一切考えなかっただろう。


 待つ家族もいない。親戚づきあいもほとんどなくて没交渉。

 就職にも失敗し、長年絶えず続けてきたのはソシャゲだけ。どうしても日本に、自宅に、日常に帰らなければならない理由なんかない。


 異世界召喚もののネット小説を大量に読みふけったこともある。

 アニメや漫画も好きだし、ゲームも大好きだ。そうした世界に憧れがなかったといえば嘘になる。


 ファンタジー世界に単身渡ったならどうするか。

 それを想像し、妄想の翼を広げたことも一度や二度ではない。


 日本での生活に見切りをつけた結果とか、あるいは不慮の死を契機として異世界への転移転生を終わった人生の続きとして、たとえば本編のボリュームが少なかった買い切りゲームに後日追加された購入ダウンロードコンテンツみたいに捉えることができたのなら、俺はこの非日常に没頭し、埋没し、この世界で一生を過ごすのもやぶさかではなかった。


 しかし、そうではなかった。

 唐突で、勝手だった。

 知らぬ間に異世界にいて何の説明もなく何をすべきかも分からない状態で、俺は何一つ納得していなかった。

 そんな過程では、そんな状況では、俺にはこの異世界で一生を過ごす覚悟などできはしない。


 理不尽には抗わねばならない。

 物語における敵とは、壁とは、困難とは、耐え難い理不尽のことである。主人公は自らの前に立ちふさがるそれらを乗り越える。物語はそのためにある。


 それはたとえば魔王の姿をしている。

 不治の病のかたちをしている。

 死や不幸、不運のように唐突に現れる。ときには与えられなかった愛情の傷跡みたいにも見える。


 正面からブチのめすか、折り合いをつけるか、やり過ごすか、さもなくば違うものを持ってきて新しく作り直すか。

 戦い方は人それぞれだろう。


 大事なことは、納得できるかどうかだ。

 理不尽なことが起こる。それ自体を防ぐことはできない。どれほど備えようと、それでも降り掛かってくるのが理不尽だからだ。大事なのはそのあと、自分がどうするかだ。


 自分の前に現れた理不尽に対して、やられっぱなしではならない。どんなに辛くても苦しくても、立ち上がって次に進まなければいけない。

 強がりでも、しんどくても、一矢報いなければならない。勝ち目がなくても、抗い続けなければならない。


 諦めず立ち向かう姿が、後に続くものにその姿を見せることが、それこそが、理不尽に打ち勝つための、最初の、そしてもっとも大事な一歩なのだ。


 俺はモブである。今の自分が主人公だなどとは到底思えない。

 しかし、それでも自分の人生のおいては、どんな人間でも主役であり、主人公として振る舞うしかない。


 理不尽に屈してたまるか、と俺は歯を食いしばる。

 俺は日本に帰る。説明もなく連れてこられたこんな場所に誰が順応してやるものか。

 絶対に家に帰ってみせる。そのためには死ねない。知識が必要だ。やるべきことは山積している。


 俺の静かな決意をよそに、妖精は気を使ったように明るい声を出した。


「もっと聞きたいことはない? アタシ、けっこう物知りだからね!」

「なら、そうだな……まずは、この世界について」


 このやり取りに至る前に、しばらくのあいだ、俺は矢継ぎ早に質問を投げかけたのだ。

 この妖精は、おそらく分かる限りを答えてくれた。

 しかしあくまで妖精の視点、妖精の知識や理解によって出された回答であることに留意すべきだった。


「よくわからないけど、何が知りたいの?」

「ここはどんな世界なんだ」


「どんな世界かって言われても世界は世界じゃない? 他の大陸との違い? ニンゲンの国についてとか、名前は良くわからないけど。っていうか、ニンゲンのほうが詳しいでしょ? なんで聞きたいの? アンタが遠くのニンゲンだからってこと?」


 妖精からすれば俺は辺鄙な場所にひとりぼっちで寝ていた変人らしい。

 しばらく前から、このあたりで人間の姿を見かけることはなくなったという。時間にしてどれくらい前かと尋ねると、妖精は悩みだしてしまった。

 聞き方を変えて、同じ季節が何回巡ったくらいかと聞いたが、それもよく覚えていないという。


 この過程で一年のあいだに四季があること、一日がおそらくは二十四時間であることなどを聞き出せた。

 妖精は普通あくせく動いたりはしないし時間を気にすることもないのだが、この妖精は特別好奇心が強いし知識欲もある特殊な存在らしく、つまり頭が良すぎる代わりにぼっちになってしまった可哀想な妖精なのである。


「いま何かひどいこと考えなかった?」

「いや別に」


 さておき、人間が使っている時間の単位を理解し、それを運用しているだけでもすごい。

 本当に特別な妖精なのだ。


 他の妖精を知らないから比較のしようもないのだが、この妖精の愚痴を聞いた限りでは、仲間はイギリスの古典文学によく出てくるタイプが一般的らしく、暗澹たる気分になった。


 つまり気軽にチェンジリングをやったり人間を竈に閉じ込めて焼き殺したり上空に連れて行ってから手を離して墜落死させる、日本の妖怪とは比べ物にならないほど直接的な被害をばら撒いては、右往左往する人間を笑ったり玩具にしたりして楽しむタイプの、イタズラ大好きという可愛らしい言葉では到底収まりつかない被害をもたらす邪悪こそが、この世界における妖精の姿なのである。


 こいつ感性が人間的すぎるからハブられてたんだなあ、と会話からにじみ出る知性と善良さとに俺は本当に感謝していた。


 こいつ以外の同族に寝ていた俺が発見されていたら、たぶんノータイムでゴブリンの巣穴に放り込まれていただろう。

 妖精のイタズラは洒落にならんものと相場が決まっている。


「な、なに? 今度はすごいアタシを持ち上げるみたいな感じがしたけど」

「最初に出逢ったのが、こんなにすごい妖精さんで良かったよ」


「へ? あ、うん。そうよね! アタシってすごい妖精よね!?」

「うん、すごいすごい」


 ともあれ、問いを投げかけて、かえってきた答えには様々な情報が含有されている。

 最初に挙げた例でいえば、俺たちが現在いる場所がそれなりに大きな大陸であること、他にもいくつか大陸があること、人間が国家を擁していること、そしてこの大陸上に複数の国家があることなどだ。

 国の名前は分からない、と妖精が語ったのは、つまり人間がなにかの拍子に国の名前を口にしている姿をどこかで見たけど、興味がなかったか覚えなかったせいだろう。


 もしこの世界に国がひとつしかないのであれば、国の名前は存在しないか、国の名を呼ぶ機会がそもそもない。


 名前は彼我を区別するために用いられるラベルである。

 生物が自分しかいない世界に生きる人間が固有の名前を持つ必要がないように、二つ以上の国々があってこそ国の名前は機能するのだから。


 と、この調子で妖精が語るたび、俺はこの世界がどうやって構成されているのかを、妖精の目を通して再構築してゆく。

 もちろんこれはあくまで妖精の視点から見た世界である。

 世界観とは視点者が世界をどう理解し、どう捉えているか、その共有作業にほかならない。


 これを繰り返し、分かったことで重要そうなことをまとめると、こうなる。

 まず、この世界はほぼ地球の類似である。並行世界説が若干強くなったくらいには、地球の環境と酷似していると言って差し支えない。


 で、複数の大陸がある。妖精は人間の持つ地図を盗み見たことがあるらしく、おおまかに大陸の形や大小、島国などの位置や数を語った。


 妖精の見聞によれば、この俺達がいる大陸にはいくつかの国があって、隣国同士がたまに戦争をしているらしい。

 人類の性質上、永遠に戦争しないことなどありえないので、人間らしさが窺えて大変結構である。


 話が逸れた。とにかくこの世界には国家が存在している。

 すなわち人間が文化を持ち、大量の人数がいて、知識と力を有していることにほかならない。

 モンスターが生息していて、妖精のような不可思議生物が闊歩している以上は、地球と同じような歴史を積み重ねるとは考えにくいが。一方で人間の性質なんぞ場所が変わろうと、時代が変わろうと大して変わらんのではないか、という気持ちにもなる。


 歴史は繰り返さないが韻を踏む、という言葉もあった。

 あとは社会制度というか、文化の習熟具合が気になるところだ。

 時代区分として、古代か、中世か、近世か。近代や現代であることまでは期待できまい。

 と、あれこれ推測しているうちに、一番の疑問点を思い出した。


「妖精さんさ、なんで日本語を喋れるんだ」

「ニホンゴってなに?」


 おいおい。まじかー、と俺は天を仰いだ。

 まだ昼前の青空がどこか寒々しかった。


「俺達は同じ言語を喋っているよな?」

「言語?」


「……言語の意味は分かるだろ」

「アタシが喋っているこの言葉ってこと?」


「ああ。俺には妖精さんが日本語を喋っているとしか聞こえないし、そうとしか見えない」

「アタシは普通の言葉を話してるんだけど?」


 いや、もっと早く気づくべきだった。再現した地図の信頼性がないにしても、日本を知らないのに日本語が喋れるのは流石に意味がわからない。

 しかし謎の力で翻訳されている、という感じにも見えない。

 口語の文字数、発声の仕方と、聞こえてくる日本語のトーンや言葉や内容は一致している。


 もしかしたら実際にはズレていて俺の脳内にフィルターが掛かっている、ないし俺の視界に何らかの補正がかかっている、この疑いまでは否定できない。

 しかし俺たちは同じ言葉を、つまり日本語を用いて会話しているとシンプルに考えるべきだろう。


「もしかして……全世界で共通の言葉を話しているのか? 人間も? 妖精も全員が?」

「ええと、たぶん?」


「たぶん?」

「アタシの知る限り、この大陸ではこれ以外の言葉は聞いたことないし」


 俺は地面に言葉、と漢字で書いた。


「ん? ことば? いきなり書いてどーしたの?」

「でも日本語とは呼ばれていないわけか」


「だからニホンゴってなによ!」


 共有される前提の一番根幹をなす部分だけが抜け落ちているのは、たいへん気持ち悪い。

 日本語が通じる。嬉しいより困惑が勝る。俺より先にこの異世界に転移したもの、あるいは転生者の存在を前提とするべきかもしれない。


 正直、都合が良すぎるとは感じた。

 異世界ものの初心者向けスターターキットである現地の言葉自動翻訳ないし脳内インストールよりも納得しづらい。


 言語体系の成立は人類の進歩、人間社会の習熟、歴史の積み重ねと密接に関係している。

 普遍的感情や感覚、思考までなら人類であれば共有できるかもしれないが、その土地特有の出来事や概念の言語化、圧縮、比喩は必ず前提を必要とすることになる。


 と、ここまで考えて違和感を覚えた。

 自動翻訳については何か反証がありそうだ。妖精との会話を遡っていって、さらにその前のことを思い出してようやく気がついた。


 ゴブリンの叫び声である。言語によらず意思疎通が可能であれば、あのゴブリンの耳苦しい喚き声の意味も読み取れたはずである。


「アンタすぐ黙り込んじゃうわね。アタシが見た中で一番変なニンゲンよね」


 また随分と思考が迷路を彷徨ってしまった。

 妖精は退屈そうにほっぺたをつついてきたり、頭の上に乗ったり、耳元でふっと息を吹きかけたりして、俺の反応を引き出そうといろいろやってくる。


 当たり前に日本語が通じる環境は自分にとって得でしかないはずだが、どうにも手放しで喜ぶ気になれない。


 実際には俺が考えすぎなだけだろう。

 もし言葉が通じる状況そのものが罠として機能するならば、それは日本語を共用語とする世界をわざわざ一個作り出したことを意味する。


 ここが異世界で、そこに本来あった自然な言語を、記憶や記録、思考ごと日本語に置き換えた場合でも同じことだ。


 世界を作るのも、丸ごと変質させるのも、いわば造物主の御業である。

 この状況を生み出した何者かがいるとして、そいつにそれほどの力があるのなら、俺ごときが少しばかり警戒しようと意味がないだろう。


 このようにして俺は思索を挟みつつ、妖精から様々な情報を引き出していった。

 ちなみに今更ではあるが、この妖精はしっかりと服を着ている。草萌えの緑がかったワンピースっぽい服装で、少しだけだが飾りもついているし余計なひらひらまで縫い付けられていて、思ったよりも手の込んだ衣料品である。


 聞けば手作りらしく、昔見た綺麗な人間のそれを参考に再現していい感じにアレンジしたのだ、と妖精はふんぞりかえっていた。


 翻って俺の格好を見下ろす。

 入院着っぽい白の貫頭衣で、妖精の服よりも手抜き感と言うか、古代っぽさが強い。

 他の妖精の服装事情を尋ねると、なんとも煮えきらない返事が帰ってきた。良く知らないというか、あまり統一感がないとのことだ。


 人間と関わらず森の奥で遊んで暮らしている連中はたいてい全裸だし、人間相手に悪趣味ないたずらを仕掛ける連中は人形用の服を盗んで着たりしているらしい。


 目の前の妖精も羽の部分が開いていないといけないからと、くるりと回って見せてくれたのは、大きく背中が空いているドレスみたいなワンピースだった。

 実に手が込んでいる。


 妖精の話から読み取れたのは生まれた瞬間はちゃんと裸である、という一点である。

 着ている洋服込みの造形でこの世に唐突に出現したりはしていないわけだ。やはりこの世界ならではの一種族、しっかりとした生態系を持った自然の一部と捉えるべきらしい。


 このあたりまで聞いたところで、俺の振る舞い方、警戒の度合いの指針が固まった。

 自分の身分を中世ヨーロッパの市民権を持たない流れ者と想定し、大陸を支配している国はどれも王政国家とあたりをつける。

 帝国でもさほど変わらないが、少なくとも共和国や共産国家、社会主義国家は存在しないだろう。

 なので一応は王国と仮定して行動しなければならない。


 ナーロッパ世界観であってくれれば即死リスクはだいぶ減る。

 ナーロッパだとしてもピンからキリまで幅があるのだが、ピンの方のナーロッパであれば風呂にもトイレにも困らず、民衆は二十世紀後半の人権意識を持ち、食い物はどれだけ不味くても死ぬわけではなく、なんなら美味い飯すら仕事をすれば普通に買えて、しかも初顔の余所者ごときが冒険者みたいな暴力を行使しても官憲に睨まれないで市民相当の扱いを受けられ、ただ生きていくだけならあまり困らないと至れり尽くせりの待遇なのである。最高すぎる。


 キリの方の中世風異世界? まず街に入れないで、街の外でモンスターや野党に襲われるか行き倒れて三日くらいで動けなくなって死ぬ。

 街に入れても余所者と見れば一目だから、食い物は売ってもらえない。

 金を持っていることを知られたら殴られて奪われる。

 そのあと官憲に通報されて捕まって冤罪を訴えても誰も助けてくれないで牢獄死が関の山だろう。


 冒険者ギルドに登録? ギルドは利益を自分たちと自分たちの都合の良い人間で独占するために身内や弟子や関係者が集まって作る寄合だったり組合だったりする。

 新規参入者なんてお呼びじゃない。

 なんなら利権に手を出したとしてギルド関係者全員が結託して殺しに来るだろう。


 もちろん、こんなのは俺の想像である。

 邪推かもしれない。

 おかしい。

 俺はこんなにも疑り深く、性格の悪い考え方をする人間ではなかったはずだ。

 もしかしたら意識を失って、目覚めるまでのあいだに何か脳や精神を弄られてしまったのだろうか。


 いや、単に不安なのだ。

 人間、腹がすくと余計なことを考える。

 最初に出会ったのが俺を殺そうとするゴブリンではなく、通りがかった優しい商人のお姉さんであれば、こんなにも悪い想像ばかり膨らませたりはしないだろう。


 喉がからからになっている。

 とりあえず、犬歯を舐める。喉を鳴らす。


「……腹が、減った」

「うぇっ!?」


 ちなみに俺は今ぼんやりと考えていたのだが、時間にしたら数分しか経過していない。


 俺にする質問を考えていたらしい妖精がつぶやきを耳にした途端、目をきょろきょろと動かして、俺を見つめ、だらだらと冷や汗を流し始めた。

 表情がコロコロ変わってたいへん愛くるしくて可愛らしい。


 そう考えたせいで口元がほころんでしまったのだろう。

 俺の笑みを見た妖精はますます恐怖におののいたように身体をブルっと震わせて、おっかなびっくり、俺の機嫌を損ねないような下からの口調と態度で、こう尋ねてきた。


「ね、ねえニンゲン……? どうしてそんなにアタシを見つめているの?」

「それは」


「それは……?」


 それはね、お前を食べるためさあ! と赤ずきんの狼よろしく豹変してみせて、妖精をからかっても良かったのだが、涙目になるだけならともかく、覚悟を決めて俺を焼き殺そうとされても困るので、そういう悪ふざけは心の中だけで済ませておいた。


 少し黙っただけでビクビクと挙動不審になる妖精。

 うーん、悪いことをしてしまった。俺は自分が安全な男であることを再度示した。


「妖精さん」

「な、なによっ!?」


「好きだ」


 もちろん恋愛的な意味ではないが、たいへん好ましく思っていることは間違いない。

 素直な気持ちを口にしてみた。


「ひうっ!? だ、だめよ! そんな目で見られても、アタシとニンゲンとのあいだには種族の差とかあるし、いくらアタシが可愛らしくて知的ですごくてサイキョーでも、そんないきなり愛の告白をされちゃったら心の準備ってものがいるし、そもそもの話また会ってからもまだ数時間も経っていないわけでね、だから、その、……うんアタシも好き!」


 やばい。チョロすぎて心配になってきた。

 大丈夫かこの妖精。


 しかし人間的ではある。好意の返報性という言葉があって、好意を向けられると、その相手に好意を抱くのは普通のことなのだ。


「嘘だとは思わないのか?」

「え、なんで? アンタがアタシのこと好きなの、ホントのことだって分かるし」


 率直な返答に、一瞬、俺も挙動不審になってしまう。

 ひとつ、ふたつ、みっつ、と胸のうちで数えて心を落ち着ける。

 俺はいま、軽々にとてつもなく危険な橋をわたったのではないか。そんな気がしてならなかった。


「ねえニンゲン。お願いだから、アタシに嘘をつかないでよね?」


 この妖精は、嘘を見抜ける。

 感覚的な察知か、種族的な能力によるものかは分からない。俺の言葉というか、声を聞いたうえで真贋を聞き分けているように見られた。


 ただ、凄みがあった。目覚めた直後にゴブリンが棍棒を振りかぶっていた瞬間より、よっぽど強烈な命の危機を感じたくらいだ。


 小さな体躯からは想像もできないほどの妖精の苛烈さがにじみ出ている。

 それが言葉にした嘘そのものに反応するのか、それとも嘘をついたことの自覚や認知によって発動するのかは、あえて確かめようとは思わなかった。遊んだり試したりして地雷原の上でタップダンスをする趣味はない。


 この妖精に嘘は厳禁、欺こうとしたり偽りを述べると致命的なことになる。

 それを早いうちに知れてよかったと思うことにする。


「ちなみに、嘘をついていたらどうなってた?」

「えー、そうねえ……そんなひどい嘘をつかれていたら、怒って燃やしてたかも?」


 軽い口調で言うことではなかった。

 何を、とは聞くまい。この流れで燃やされるのは俺しかいない。

 一応、そんなこともありうるかと思って口にする言葉に注意はしていたが、その慎重さが命を救うとは思っていなかった。


 俺は知らずしらずのうちにこの妖精を侮っていたらしい。

 会話が気安くて、俺の言葉や態度ひとつで翻弄されてくれているが、もしかしたらこの妖精は機嫌ひとつ、指先ひとつで俺を殺したり死ぬよりひどい目に合わせることが可能かもしれない存在なのだから。


 とりあえずこんな状況でも分かったことが増えたことに知識欲が満たされる。

 自動的ではないというのは大事だ。

 迂闊に嘘を口にしてしまっても、弁解のチャンスはたぶん与えられる。


「そっか」

「うんうん。アタシを好きなんだから、アンタは良いニンゲンよ! それで恋人ってことでいいのよね!? ところで恋人ってナニするの? 前見たニンゲンみたいにキス? 抱き合って踊る? それとも犬みたいに交尾したり、発情した猫みたいな声を出すの?」


 たいへん好奇心旺盛な妖精で、そうした知識にも精通しているらしい。

 聞けばこのあたりを大量の人間が行き交っていた頃のこと、大人数で馬車に乗って移動している集団がいて、そのなかにいた若い男女が夜こっそり抜け出し、この広大な草原の、あの大きな樹の下で逢引をして、さらに夜更けまで情熱的にまぐわっていた一連の流れを、この大樹の枝に潜んでずっと観察していたことがあったそうだ。


 それからしばらくして人間がこの周辺に近づくことがなくなり、この妖精の趣味だった人間観察の機会も失われてしまったと。


 人間が大勢往来していた時期は野営中に近くに隠れて盗み聞きしたり、馬車に忍び込んで盗み食いしたり、ちょっとしたイタズラを仕掛けて驚かせたりしたらしく、このあたりに可愛い妖精が棲んでいることは人間にはよく知られていたらしい。


「妖精の草原?」

「って言われてるらしーわよ。前にアタシを見たニンゲンがそう言ってた」


 当時遭遇した人間は、この妖精を見ると会話するなどとんでもないとばかりに、逃げ出すか祈るかすることが多かったらしく、この妖精はそうした対応が好きではなかった。

 結果、人間の前に姿を現すことは控えていたらしい。


 草原の妖精ではなく、妖精の草原である。

 つまり、この妖精が主体なのだ。


 そのうちにゴブリンが増えてきて、危険だからと人間は草原どころか周辺一帯に近寄らなくなったのだろう。

 と、いかにもありえそうな経緯と顛末を妖精は口にした。


 ゴブリンのせいだけではないんじゃなかろうかと俺は思った。口にはしなかったが。


「このあたりには妖精さんがひとりで暮らしている?」

「……そーね。同族は来ないわね。このあたり」


 ぼっち疑惑再び。

 それはもしかしたら、他の妖精にこの妖精が馴染めないのではなく、賢くて強すぎるこの妖精を恐れて他の同族が近寄ろうとしない、逃げ出すのではないか。


 なんとなくそんな印象を覚えた。そしてこの妖精は自身の特異性を自覚しているようにも。

 ふと、口をついて出たのは素直な疑問だった。


「嘘つきが嫌い?」

「うん。騙されるの、アタシだいっきらいなんだ」


「他の妖精は……もしかして、嘘を付くのか」

「アタシも嘘はつくよ?」


「えっ」

「えっ?」


「嘘をつかれるのは嫌だけど、自分が嘘を言うのはいいのか」

「うん。ニンゲンだってそうでしょ?」


「まあたしかに」


 本当に妖精だ。あまりにも人間的であり、それでいて非人間的の権化。

 嘘をついたら弱体化するとか存在が維持できないとかそういうものじゃなく、単に騙されるのが嫌いなだけでそれを他者に強いる身勝手さ。

 まさに妖精。


 俺はドン引きしつつも感動していた。そして大半の人間も同じような思考や習性をしているから、俺にはこれを責めることは出来なかった。


「まあアタシ以外はあんまりわかんないみたいだけど。アタシ本当に騙されるの嫌いだから。いつの間にか、ホントと嘘とが分かるようになったんだ」


 これ以上深くは突っ込んで聞かなかったが、なんとなく察した。

 同族の妖精たちは嘘つきだらけなのだろう。疎外感もある。孤独感もある。寂しさもある。

 しかし他の妖精たちの輪に混じって我慢することだけは耐え難かった。

 だからこの妖精はたったひとりでこの草原で暮らしている。


 人恋しさとか好奇心、ついでに知性の高さもあいまって、寂寥から、こんなにチョロくなってしまったのだと俺は受け止めた。

 相手のこれまで辿ってきた道のりを具体的に想像できると、どうにも親近感が湧いてきてしまって困る。


「まあ恋愛的な意味の好きじゃなかったわけだが」

「えっ」


「さっきの、親愛とか友情とかそっちの好きだぞ」

「嘘……じゃない! 騙したのっ!? いや騙してないけど、ずるい! ニンゲンのくせにアタシのこと弄んだんだ! ひどいよ! アタシのトキメキを返してよ!」


「それ、人間の真似だろ。言ってみたかったのか」

「……えへへ」


 人間模様を眺めていれば、別れ話をしている男女もいるだろう。

 怒ったフリと俺が分かったのは、妖精の気配がさっきのやばい空気感にならなかったからだ。

 そういう意味ではこの妖精が嘘を見抜けるのと同じように、俺も危機を察知できるようになったのかもしれない。


「思ってた好きじゃなかったのはいいのか?」

「だって友達になりたいってことでしょ? いいよー」

「いいのか」


 口調は軽いのだが、なんか重い。

 なんとなく妖精の笑顔にプレッシャーを感じた。別に向こうは何か難しいことを要求してくるでもないのだが、友達、と口にした瞬間の喜びようが胸に刺さる。

 もしかしたら、同族に友達などいなかったのかもしれない。少なくともこの妖精が他の同族について語るときの口調や説明の内容からして、仲間意識は薄そうだった。


「あ、そうだ! 良いこと思いついた!」


 思いつきは往々にして厄介ごとの種である。

 自分のものであれ、他者のものであれ、思いつきは構造上そうした性質を含まざるを得ない。

 なぜなら思いつきだからである。


 それは前提とか方法とか実現性とか未来とかをまるっと無視し、ありうるなかで一番都合の良い成果だけを主張するので、一見これこそ最高のアイデアだ、みたいに思えてしまうことに起因する。

 将棋で言えば二歩みたいなものである。

 もちろん実際に二歩をすると失格になる。

 即敗北である。

 しかし稀にプロ棋士ですら二歩を指してしまうことがある。


 ルール上許されないくせに、うっかりそれをやらかしてしまう者がいるのは、それがあまりにも魅惑的すぎる最高の一手だからなのだ。

 と、かようにはた迷惑なものではあるのだが、諸問題をクリアできさえすれば、その思いつきが役に立つこともある。


「アタシ、アンタとずっと一緒にいてあげる!」

「却下」

「なんで!?」


 本気で断られると思っていなかった顔である。とてもショックを受けた表情だった。

 俺はジト目でそんな妖精を見つめた。


「どうして俺が許可すると思ったんだ」

「だってだって」


 唇をとがらせて、妖精が答えた。


「ひとりでいると、アンタすぐ死んじゃいそうだし」

「む」

「アンタ見るからに弱っちいもん」


 これには反論できなかった。妖精の目から見て俺は軟弱なのだろう。

 それがモンスターが蔓延る世界観ゆえのことなのか。

 それとも一般的な人間の平均に比べて弱そう、脆そうという感想からくるものなのか。


 ゴブリンですら油断しているのを不意打ちして転ばして容赦なく踏みつけ殺しただけなのだ。

 まともに戦闘となったら、武術を習ったこともなく、殴り合いの喧嘩ですらほとんどしたことのない俺では、悪意や害意を持って襲いかかってくる存在には勝ち目がないだろう。


 そもそも暴力は苦手だ。

 ゴブリンを害獣と認識できたから躊躇も容赦もしなくて済んだが、咄嗟に身体が動いたあの一回を、また都合よく繰り返せるとは思えない。


「友達に死なれるの、嫌だし」


 妖精は期待するような目で俺を見た。


 友達になったのは決定事項らしい。俺も否定はしない。

 万が一ここで友達じゃないと口にしたら消し炭にされそうな予感はあったが、それはそれとして、これだけ面倒な質疑応答に付き合ってくれた妖精の好意を無碍になど出来なかったのだ。


 少なくとも俺がこんだけ大量に質問され続けたらだんだん鬱陶しくなるか面倒になって答えが適当になりそうなものを、この妖精はちゃんと考えて答えてくれた。

 誠意には誠意を返すのが筋だろう。

 それが友達という関係であるのなら、俺はすでに強い友情を抱いているといっていい。


「そう、だな。俺たちはもう友達だからな」

「……よかった」


 深々と吐き出されたのは、安堵の吐息。

 妖精は喜んで、美しい羽をはためかせ、陽光に煌めく軌跡を描きながら舞い踊る……ということはなく、媚びるような笑顔を浮かべて、すすすっと俺の目と鼻の先まで近づいてきた。


 これはもしや早まったか?

 俺が何を言い出すのか戦々恐々としていると、妖精はひどく躊躇しながら口を開く。


「じゃあニンゲン、さっそくお願いがあるんだけど」

「ああ」


 こいつも親しくなると無理難題を押し付けてくる一般妖精タイプだったか、と内心嘆いていると、俺の渋面をどう受け止めたのか、慌てたように変なお願いじゃないから、無茶な願い事じゃないから誤解しないでと言いたげに、焦りに満ちた表情を見せた。


「違うからね! お願いがあるから、友達になったんじゃないから! ホントだからっ! そういうふうに思われちゃうタイミングだったのは謝るからあっ!! 聞いてよ!」

「お、おう」


 必死の懇願に、俺もいったん表情をリセットする。


「あの、ね。友達って、お互いのことを名前で呼びあうもの……なんでしょ?」

「まあ、全員じゃないが、そういう傾向はあるな」


 確認を取るような言い方に、おそらくは聞きかじり、さもなくばそういった場面を直に見て羨ましくなったかしたのだろうと思われた。


 もっと言ってしまえば、友達という存在を大事なものと見ているような、友達という概念に夢を見ているかのような、そんな目線も感じる。


「でしょ! それで、ね。アタシもアンタのこと名前で呼びたくて」


 たしかに友達をニンゲン呼ばわりは若干アレである。妖精の感性からしても、さすがにありえないと感じたらしい。それならば理解はできる。

 理解はできるが、少しだけ疑ってしまう自分がいる。


「俺に名前を教えろと?」

「そう! そうなの!」


 いい話だ。感動的だ。妖精と人間の友情物語としては良く出来ている。

 俺に余計な知識がなければ素直に答えていただろう。


 俺は躊躇った。

 名前を教える。それはときに、自分の命を預けるのと同じような意味を持つことがある。

 魔法的なもの。呪術的なもの。そして嘘をついてしまったら、妖精はそれを見抜くという状況が俺に逃げ道を与えてくれなかった。


 妖精はすぐに俺が名前を教えてくれると思っていたのだろう。なかなか名乗ろうとしないことに最初は不思議そうに、だんだんと怪訝そうに、最後は涙目で俺を見つめていた。


「名前、教えてくれないの?」


 これで妖精が責めるような目を一瞬でもしていたら、俺はこの願いを一蹴できた。

 どうして、と声ならぬ声を視線に込めながら、しかし俺が悪いというふうな表情や態度を取ることもなく、ただ自分の何が悪かったのだろうと思い悩む姿を見せられては、俺も可能な限り応えてやるべきだ、という気持ちになってしまう。


 結局、警戒していても情に流された意思の弱さを笑いたくば笑うが良い。泣く子と地頭には勝てぬ、と昔の人も言っている。


 俺には妖精のお願いを拒絶するだけの力はなかった。


 いや、正確には詭弁で誤魔化すことも不可能ではなかった。真っ先に思いついたのはシェイクスピアの描いた悲劇、ロミオとジュリエットの台詞を借りることだ。


 薔薇はどんな名前で呼ばれたとしても、同じように甘く香るだろう。


 俺の名前も、その薔薇と同じだ。どんな名前でも友になった事実に違いはない。名前を知らずともバラの香りは楽しめるように、俺の名前を知る必要もないのだと。


 ただ、所詮はつまらない時間稼ぎだ。一時しのぎにはなっても、ほんとうの意味での問題解決にはなりえない。


 率直にいえば、つまり名乗ることで起こり得る将来の危険を理由とすれば、この妖精は頷いて諦めてくれたのではないか、とは思う。

 しかしそれこそ信義にもとる返事ではないか。

 友誼を結ばんと歩み寄ってくれた相手に、そんな非道な返しはできない。


「龍兎だ。俺の名前は物部龍兎」


 ファミリーネームが後にくる可能性もあったな、と思いつつ素直な順番に告げる。言葉や文字のイメージが伝わらなかったのか、妖精は音の響きだけを繰り返した。


「モノノベ? リュウト? どんな字を書くの? どっちが名前?」

「龍兎の方だ。物部は名字……ファミリーネームとか、家名ってやつだな」


「あ、前にここに来た人間も名乗ってたわ! なんかすごく長いのを! そいつにはぜんぜん興味もなかったからまったく覚えてないけど」


 箔付けのための長さだろうか。草原を訪れたのは、地位ある者だったかもしれない。


「漢字だとリュウにウサギだな。つまりドラゴンとラビットだ」

「龍と兎なんだ? 格好いい名前ね! アタシ、これからはリュウトって呼ぶわね!」


 日本語という単語が通じなかったのに、漢字がわかるのも不可解ではある。

 書き分ける場合にひらがなカタカナ漢字が区分されていないと理解が難しいからだろうか。


 俺が皮肉げに笑ったのを見て、妖精が目を伏せる。


「ご、ごめんね……アタシ、アンタが名前を聞かれるの、そんなに嫌だとは思わなくて」

「気にするな。こっちの事情だ」


 たぶん口にした瞬間は真っ青だったであろう顔色も、だんだんと回復している。

 名乗った次の瞬間に妖精が豹変し、ヤバそうな顔芸をして、楽しかったぜお前との友情ごっこ! と叫んで本性を表す、みたいな展開すら覚悟していたのである。

 セーフ。圧倒的セーフである。


「うん。……リュウト。リュウト。……いい名前ね!」

「ありがとう」


 妖精が名前を褒めた。俺は笑顔で返した。

 妖精が、動きを止めた。


「えっ」


 まるで目の前の人間がいきなり別人になったみたいな驚き方をされてしまった。


「なんだよ」

「……ううん。驚いただけ。リュウト、アンタそんなふうに笑えたんだ」

「いいだろ別に」


 中学、高校からは腫れ物のように扱われたこの名前。

 大学からは、よく喋っていた先輩以外は触れなかったこの名前。しかし小学校時代には俺の価値のすべてであった俺の名前。


 褒められるとつい喜んでしまうのは昔からの癖だった。

 しっかりと名乗る機会は減ってしまったけれど、俺は自分の名前がかなり好きなのである。

 だから俺の名前を、馬鹿にするのではなくからかうのでもなく気を使ってでもなく、ちゃんと褒めてくれる相手には礼を言う。


「あっ、すねないでよー」

「それより、妖精さんの名前は?」

「あ、うん。名前、アタシの名前ね」


 当然の流れのように思われたが、妖精はどことなく困ったように眉をハの字にした。


「おいおいまさか俺にだけ名乗らせて、自分は名乗らないつもりか?」

「そういうんじゃなくて」


 雲行きが怪しい。煽ってみたのに、妖精はなかなか名乗ろうとしない。

 やはり罠だったのか? 名前を知られるとまずいことがあるから、俺に一方的に名前を要求したのだろうか。


 今更疑いたくもないが、態度に疑念を持ってしまいそうになる。怒りというほどではないが、不公平であることは事実だ。

 そしてそれをこの賢い妖精が理解できないはずもない。

 申し訳無さそうなのが半分、もう半分は悲しみをたたえた瞳で、俺を見る。


「アタシね、名前がないの」

「……そうか」


 いま見せた表情とためらいの理由、疑問の大半がそれだけで解消した。

 自らは名乗るべき名を持たないからこそ、友の名を求めた。それを尊ぶ姿勢を見せた。

 そして返せる名がないことを悲しく、そして申し訳なく思っている。


「ねえ、リュウト」

「なんだ」


「アタシに名前をつけてくれない?」

「それは……」


 妖精は、いや、この妖精が特殊すぎるだけで、一般的な妖精は名前を持っていないことを気にすることはないのかもしれない。

 世界について考えたときにも思ったが、名前とはそれ以外とを区別するために用いられるラベルだ。


 それのみが持ち、与えられ、それであることを示すために使われる。

 それ自体が意味であり価値であり、そして固有であることの証明ともいえる。


 普通の妖精は、他の妖精と区別することもされることもないのだろう。

 自分というものすら持っていない可能性がある。

 ただ妖精という種族でありその機能を持った生物の集団。自他、彼我の区別が曖昧であれば、名前はむしろ邪魔にすらなるだろう。

 そんななかに生まれ、知恵を持ち、自分というものを持ってしまったこの妖精は、妖精の世界に留まることをよしとしなかった。


 人間の名前を参考にすれば、適当な名前を考えることも、自身に名付けることも別に難しいことではない。

 ただ、この妖精はそれをしたくなかったのだ。

 友人の名前を呼ぶことに、そして呼ばれることに憧れを抱いていたのであれば、適当な名前を選びたくはなかった。


 名前の本質が分かっていたからだ。

 親が我が子に名付けるように。著した作品に作者がタイトルをつけるように。


 名前は作り手、あるいは愛するものから与えられるものである。

 世界に溢れるあらゆるもののなかで、それは特別であると示すために為される。


 ゆえに名付けとは祝福である。

 名前は贈り物だ。それは他者から与えられてこそ意味があるものだから。


「だめ?」


 なんてひどい妖精だろう。これは、ささいなお願いなんかでは決してなかった。

 妖精は名付けの意味を知っている。俺はその重責に恐れおののいている。それを見て妖精はますます期待に満ちた瞳で俺を見上げている。


 しかし俺は無言でいた。頷くでも断るでもなくただ妖精を、そして妖精の周囲に覗く草原の緑と冷たい朝の澄んだ空気、そして可愛らしい小さな身体の向こう側に、どこまでも果てしなく広く青く吸い込まれそうな空を見ていた。透ける羽越しの世界は、絵画のように静かで、ありえないほどに鮮やかな色彩のコントラストがどこか不安定に揺らめいている。


 傍から見たとき、俺はたぶん不機嫌そうに見えたことだろう。


「あ、あはは。やっぱり……ダメ、みたいね」

「いや」


 それだけ返した。うつむきかけた顔をパッと上げて、妖精が俺の言葉を待つ。


 俺は動かない。動けない。ひたすら考え続けている。


 俺はいま大量に思い浮かんだ妖精の名前を脳内に留め続けている。人生で見聞きしたすべての妖精の名前を選別している。

 悪魔の証明みたいなものだ。

 あることを証明するためには一例見つければよいが、ないことを証明するためには全知全能である必要がある。


 だが、そこまでを求められているわけではない。

 他と被ることのない、それでいてこの妖精らしい名前を考えつけばよいのだ。


 それが簡単にできるなら苦労はしない。


 種族的なノームだのピクシーだのキキーモラみたいなものは最初から候補になり得ない。ティンカーベルだのオベロンだのティターニアだのの有名どころも近い響きごと投げ捨てる。

 ナヴィ、チルノ、パック、エアリー、マリアナ、アンネといった日本でゲームや漫画ライトノベルで出てきたような名前で顔を結びつくものも全部却下だ。


 そうやってどんどん妖精らしい名前として思いついたものを削ってゆくと、やがて巨大な石塊のようだったイメージは、だんだんと小さな欠片しか残らなくなる。


 沈思黙考を続ける俺を不安そうに見守りつつも、大人しく待っている妖精。

 妖精。ただの妖精じゃない。


 俺の目の前にふよふよ漂っている、この賢くて、寂しがりやで、少しずるいやつの名前。


 いや、妖精らしい名前であることに拘る必要はなかった。

 俺が考えるべきは、友達に贈る呼び名だ。

 そして、親が子に名付けるそれと違って、俺と妖精は友誼を結んだのだから、一方的に俺が決めるのもおかしな話だ。


 かつて俺は龍兎という子供心にも格好良い名前を持ちながらも、成長を機に周囲からモブと呼ばれるようになった。

 自分が彼らにとっての主人公ではない事実を受け入れたから、その呼び方にも納得をした。


 しかし気に入ってはいなかった。

 誰がモブ扱いされて喜ぶというのか。

 その頃の自分の呼称や扱いとして間違っていないからしぶしぶ飲み込んだだけである。


 さておき、祝福であり、贈り物であるが、当人にはまず受取拒否ができないもの。

 それが名前である。


 翻って今、俺の目の前で不安と期待のはざまに揺れ動いているこの可愛らしい生き物は、会話もできる。

 確たる意思もあれば、良し悪しを判断する知能もある。


「妖精さん」

「な、なに!?」


 ずっと口をつぐんでいたのに急に話しかけられてビクっと跳ねた妖精は、何を言われるのかと俺の顔色を伺うような上目遣いでいる。


「すまん。決められない」

「えっ……あ、そう、なんだ。うん……そうよね、急に言われても困るわよね。仕方ない。仕方ないもんね」


 一応は隠そうとしているが全身からにじみ出ている落胆と失望の雰囲気。

 俺が真面目に考えていたことが分かっているだけに、仕方ないとばかりの諦めの表情。

 すぐに俺は続けた。


「ふたりで一緒に考えるんじゃだめか?」

「え」

「不本意な名前になるよりは、しっかりと考えてから選んだほうが後悔しないと思うが」


 妖精はぽかんと口を半開きにして、固まっていた。

 思いもしなかった。

 そんな顔だった。


 名前は必ず他者から与えられるもの、そう疑っていなかった者の表情に見えた。

 この分だと自分で自分に名前をつけると考えたり、候補を考えるといったこともしたことがなかったのかもしれない。


「それって、いいの? 自分で決めても……?」

「どうしてダメだと思うんだ」


「だって! だって……あれ? アタシ、どうしてダメだと思っていたんだろう」

「草原の妖精って呼ばれるのは嫌なんだろ? 人間に勝手に呼ばれているって意味じゃ、それも名前みたいなもんだが」


「違うわよ! そんなの名前じゃないもの。名前っていうのは、もっと、こう……」

「自分自身をあらわすものでないといけない?」


「そう! よく分かってるじゃない! さすがリュウトね!」


 リュウトと呼ばれようと、モブと呼ばれようと、俺は俺だ。

 薔薇がどんな名前で呼ばれていても香りが変わることがないように、俺自身であることに違いはない。


 しかし呼ばれる名前は、多かれ少なかれ何らかの影響を与えはするだろう。

 その名を口にする者の心にも。

 その名で呼ばれる者の精神にも。


「なら決まりだな。次はどんな名前にするかだ」

「ねえリュウト。アタシにふさわしい名前って、どんなの?」


「そうだな……可愛らしい。賢い。妖精。そして俺の友達……」

「いろいろな言葉を言ってみて、そこから選ぶとか。意味から? それとも響きから?」


「それかまったく新しい言葉を作るか」

「組み合わせるのもいいわね!」


「まあ、人間もそうやって名前を考えるからな」

「そっかあ。うーん、アタシの名前……アタシだけの名前……」


 名前に限らず、どんな言葉も力を持っている。

 言葉ひとつで人は傷つく。言葉ひとつで人は奮起する。


 使い方ひとつで役に立つことも、害になることもある。

 正しく使えばこんなにも素晴らしいものはなく、みだりに用いれば自らを破滅させうる言の葉。


「困ったわ! ぜんっぜん思いつかない!」

「なにかないのか。こうなりたいとか、これが好きとか」


「んー。あえていうなら、ニンゲンを見るのが、ニンゲンの話を聞くのが好きだけど」

「見るとか、聞くとか、……人間の近くにいる……難しいな」


「ねえリュウト!」

「なんだ」


「なんだかすっごい楽しい! ……んだけど、思いつかなくてなんだか苦しいわ」

「誰だってそうだ。ちゃんと考えるっていうのは、しんどいもんだ」


「でも、すごく……なんというか、そう、充実してる気がするの!」

「そりゃ良かった。探す……求める……日本語の方が良いのか、それとも英語か?」


「ニホンゴとかエイゴとか良くわからないけど、可愛い響きが良いわ!」

「じゃあ濁音は少なめのほうが良いか」


 言葉が意図した通りに伝わることは少ない。

 たいていの場合、想定ほど届かない。

 ときには望んだ効果をはるかに超えて、甚大な規模へ広がってしまうこともある。それは猛る火に似ている。流れる水と例えられる。吹く風に重なる。恐ろしい雷として振る舞うこともある。


 あらゆるものを象形しながら、同時にそれらとちっとも似ていないこともある。

 同じ言葉が一つの意味と、万の意味とを併せ持つこともある。

 それは過去であり、未来でもある。


 世界は言葉でできている。


 かつて読んだ幻想小説の一部分だ。

 これを目にしたとき、俺はただ呆然とした。

 それまで、ただの言葉がこれほどに目を奪うことはなかった。何度も何度もその一節を読み返しては、ため息を吐いた。


 展開ではなく文章そのものに力を感じたのは、それがたぶん初めてのことだった。


 ちなみに、出典は山尾悠子の『遠近法・補遺』である。それからいくつもの心を揺さぶる言葉に出逢ったが、あの一節の衝撃を超えるものはなかった。

 ただ、こんなにも俺を魅了した言葉も、この部分だけでは意味をなさない。


 まるでファンタジー作品に出てくる魔法の詠唱のようではないか。

 すべてを正しく唱えなければ、望んだ効果は得られない。


 本当は前段を含めた一節こそが真に俺の心を奪った言葉であったが、それをそのまま語るようなことはしない。

 言葉は誰にでも使えるくせに、誰もが思った通りに使いこなせるわけではない。

 本来の文脈から切り離し、違う場面で、違うかたちで用いることだって可能だ。


 世界は言葉でできている。


 だが、言葉だけでは世界は成り立たない。あの一節はそれを正しく俺に知らしめた。

 言葉を見聞きするものがいなければ、その世界はどこにも作られることはないのだ。


 なぜなら言葉は他者に放たれたとき、他者が目にしたとき、他者が受け取ったときに、はじめてその力を発揮するものだから。


「色? 赤とか、青とか、金色とか? ぜんぜん可愛くないんだけどっ」

「レッドやブルー、ゴールドもあるぞ」

「呼び方が違うだけじゃない!」


「だよな。となると、色を取り入れる方向もあんまりお気に召さないと。まあ、妖精さんは桃子とかサクラって感じじゃないもんな」

「真面目に考えてよ!」

「真面目に考えてるよ」


 言葉はただそこにあるだけでは何の効果ももたらさない。


「光、透明、羽、浮遊、好奇心……なにか思いつきそうなんだがピンとこないな」

「ちなみにダメだった名前の候補を聞いても良い?」


「インフルとか、ルミナスとか、フィラーとか」

「うぇっ、なんかヤだよそれ」

「だからもう却下した」


 意味のある英語をそのまま、あるいは少しいじって使うのが名前としては綺麗に収まりそうだったのだが、どうしても俺がその言葉の意味とイメージを被らせてしまう。

 思考が一巡したあたりで、ぱっと口をついて出た言葉があった。


「リリカ」

「え?」


「リリカでどうだ」

「……答える前に一応聞くけど、何か意味があるのよね?」


「イタリア語で抒情詩のことだ。抒情詩はつまり、感情を詩にしたものだな」

「イタリアゴっていうのはいまいちわからないけど、つまり歌ってこと?」

「もうちょっと物静かなイメージだけど、まあそうだ」


 いろいろ考えた結果が、詩の呼び方をそのまま持ってくるという安直さである。

 感情を表現するもの。感動をもたらすもの。我ながら恥ずかしいことを考えているなと自嘲しつつ、しかし一度思いついてしまえばこれ以外の名前を選べなくなってしまった。


 妖精は何度か、リリカ、と確かめるように口にする。

 りりか、りりか、歌うように口ずさみ、様子をうかがう俺を見て、こらえきれないように口元をほころばせると、からかうように俺の顔の近くを飛び回る。


「そっかそっか。アンタにはアタシがそう見えてるんだ。ふーん、そうなんだ」

「悪いか」


「ううん。悪くない。ぜんっぜん悪くない。……ありがと。嬉しい」

「どういたしまして」


「アタシはリリカ。ああ、……名前があるって、こんなに素敵なことなんだ」


 ああ、と感嘆の声を漏らし、リリカは微笑む。

 それまでの子供っぽい振る舞いから一転、どこか嫣然と、どこか艶めかしく唇を舐め、蠱惑するように俺の耳元にささやく。


「ねえリュウト、アタシの友達。どうしても叶えたい願いはないかしら?」

「なんだ、いきなり」

「妖精は気まぐれよ。でも、ひどいことをされたら仕返しをするし、助けてもらったら恩返しをする生き物でもある。アタシは名前をもらった。本当に欲しかったものをあなたはくれた。だからあなたが心から求めるものがあるのなら、その願いを叶えてあげる。……もちろんアタシに叶えられる願いに限るけど」


「リリカ」

「なあに」


 くすくすと、明るく楽しく無邪気で賢い妖精は、なぜか邪悪そうに目を細める。

 まるで、そうすることが作法なのだと言いたげに。


 あまりにもわざとらしい振る舞いに、俺は肩をすくめて嘆息を禁じ得ない。


「なに、その反応」

「お前に願いを叶えてもらおうとは思わない」

「いいの?」

「ああ」

「本当にいいの? 願いを聞くのは今だけよ? あとになって本当は欲しいものがあったとか、やってほしいことがあったとか言われても聞かないわよ? 最後のチャンスだからね? このタイミングを逃したら二度目はないからね!? ほら、なにかないの? なんでもいいのよ?」


 必死に願いを聞き出そうとするリリカだったが、俺はすげなく断った。


「いらん」

「どうして」

「俺とリリカは友達だろ? プレゼントに対価を求めたらおかしいじゃないか」

「……リュウト」


 瞳をうるませて俺を見るリリカに、俺は頷いた。

 しばらくそのまま見つめ合った。


 一分、二分くらいが経過したあたりで、何か空気が変わったのを感じた。


「ねえリュウト」

「なんだリリカ」


「……気づいてた?」

「そら気づくだろ。あんなあからさまなトラップ」

「だよねー」


 えへへ、と可愛らしく笑うリリカは、申し訳無さと不敵さの混じった表情を見せた。

 リリカの振る舞いには妖精らしい部分と、妖精らしくない部分とが混在している。どんなに善良に見えようとも、どれほど人間らしい物言いをしても、妖精には妖精の在り方があるのだ。


「友達を試すなよ。肝が冷えたぞ」

「アンタなら察すると思ってあからさまなヒントあげたじゃない!」


「俺が気づかずに、お願いとやらをうっかり口にしてたらどうなってたんだ」

「それは、ねえ」


 ふふふ、と笑うリリカの笑顔は無邪気ではあるが、残酷さを感じさせるものでもあった。

 それはそれ、これはこれの精神なのだろう。

 油断ならない。

 人間とまったく同じ生態ではないことは最初から分かっていたが、危ないところだった。


 妖精の逸話には、人間に選択を強いたり、試練を与えたり、一方的なルールを課すなどする話がやたらと多い。

 もちろん約束を守るとか、課された試練を突破することで、本当に願い事を叶えてもらった例もある。


 だが、古くから語り継がれた妖精の物語はどれも寓話的である。それは神や天災と似ている。

 ひどく理不尽で、気まぐれで、人間が都合よく使おうとした結果、手ひどいしっぺ返しをくらうなんてのは典型例である。


 ただ、正しい手順を踏み、試練を超え、認められさえすれば、以降は妖精は悪意を持って人間を陥れようとはしなくなる。

 人間で言えば、河原でタイマンして殴り合った後の不良同士の絆みたいなものが生まれるのだろう。

 仲間や身内と認識するまでは、妖精にとって人間など玩具だとか観察対象がせいぜいで、良くて遊び相手くらいにしか思われない。


 口では友達と言いつつも、試す機会を窺っていたとしか思えないやり取りの発生は、警戒していた俺からしたら、ようやく来たかという予想していた展開ではあったのだ。

 なお、妖精が一度身内認定すると、その相手をやたらとかまってくるし、ことあるごとに力を貸してくれて、それがかえって問題を大きくすることもあるから要注意である。妖精にさじ加減を求めてはいけない。


 うかつな願い事をしてはならない、というのもこれで、たとえば細かく指定せず部屋いっぱいの金貨がほしい、みたいな願い叶えてもらった場合、妖精は一晩で山ほどの金貨を持ってきてくれるだろう。

 その結果、人間が金貨の山に埋もれて圧死しようと窒息死しようと妖精は気にしない。

 あるいは銀行だとか貴族の家の金庫から金貨を持ち出していて、部屋いっぱいに詰め込まれた大量の金貨を証拠として、願い主は捕まって処刑されるかもしれない。


 妖精に願い事をするとは、そうしたリスクと隣合わせであることを把握する必要があるのだ。

 というわけで妖精を見つけても、軽々に頼ったり願ったりしてはいけない。


「もう試練めいたものはこれ以上ないよな」

「どうかなー」


「ああん? 脅そうってんなら今をもって友達辞めるぞ」

「ごめんって! ないから! もうないから! いや、アタシだって本当はせっかく出来た友達相手にそんなことやりたくなかったのよ。でも妖精の本分というか、本能というか、絶対に譲れない一線だったのよ。アンタがニンゲンで、アタシが妖精である限り、どうしてもこの手のやり取りをしておかないと……」


「アイデンティティが崩れる?」

「それよ! ……で、アイデンティティってなに?」


 頷いてから言葉の意味を尋ねてくるあたり、だいぶお調子者であることは間違いない。

 会話の流れで、俺がリリカのままならなさと、それでもルールに準じなければいけない世知辛さとを理解してくれていると判断しての、だいたい合っていることを口にしたのだろうという信頼と思っておくことにする。


「直訳すると、自己同一性だ。自分は何者か。その証明や自認って理解したほうが早いか」

「うんうん。まったくその通りね」

「……そうか」


「あ、その顔! アタシが良く分かってないって思ったでしょ! 分かるわよ! つまりアタシが妖精である限り逃れられない在り方ってことでしょ!? それをしなかったら自分じゃない、みたいなもの!」

「まあそうだな」


「アタシはニンゲンに興味はあるけど、自分が妖精であることを否定するつもりはないの。だから妖精らしさを捨てたりはしないわ。それがアイデンティティ? ってことでしょ」


「だいたいあってる」

「やっぱりね! ほら、アタシってば賢いから!」


 うんうん。リリカは賢いなあ。


「あと、これは願いを叶える云々とはまったく別のことなんだけど、友達であるアタシに何かしてほしいことはある?」

「特にないな」


「ええっ。それもちょっと……なんていうか、妖精の矜持にもとるというか」

「言いたいことは分かる。俺はリリカに名前を贈った。商売しているわけじゃないんだから、プレゼントに対価を求めるのはおかしい。でも、一方的にもらうのは気が引ける。そういう感覚があるってことだろう」


「それはそう、なんだけど」

「ありがとうって言って素直に受け取れば良いんだ。贈り物は自分があげたくてするもんだからな。返さなきゃいけないプレゼントは、もらったときに気が重いだろ?」


 プレゼントは、あげなきゃいけないと思った時点でしんどいイベントに早変わりだ。

 何かしてあげたことに対し、見返りがあることで、嬉しくなることは否定しない。しかしそれを最初から期待するなら、物々交換と何が違うのか。


「そういうものかしら」

「もらったプレゼントに見合ったものを返したい、と思うのはリリカの自由だ。ただ、俺はあげた贈り物には対価を求めていない、ってことだけは明言しておくぞ」


「リュウトってば、変なところにこだわるわね。下心ないの?」

「勘違いするなよ。プレゼントでなければ普通に対価を要求する。俺は下心で動く。普段、たいていの相手に親切にするが、それは自分が親切にしてもらいたいからだ。優しくするのも優しくしてほしいからだ。無駄に攻撃的に振る舞わないのは、攻撃してほしくないからだ。何かをしてほしいから、先に何かをしてあげる。それ自体は、いたって普通のことだ」


「じゃあ、どうして」

「プレゼントに求めるお返し――対価があるとすれば、相手が喜んでくれることだ。喜んでもらいたいから贈り物をするのであって、それ以上を求めるのは、俺の定義ではもらいすぎになる。少なくとも俺はそう思う。俺はプレゼントをした。リリカは喜んだ。それで終わりだ」


 とは言いつつも、たとえば自分は相手に誕生日プレゼントをあげたとして、その後自分の誕生日にプレゼントを貰えなかったら悲しくなるか、寂しくは思うだろう。

 ただ、自分はあげたのに、と考えてしまうのは、俺の基準では格好悪いことだった。

 期待をしてしまうのはひとの常だけれど、打算や見返りを絡めたくはなかった。


「アンタ、ひねくれすぎてない?」

「うるさい。いいんだよ、別に」


「……照れてる?」

「悪いか。普段、俺はプレゼントとかしない方だからな。慣れてないだけだ」


「ふふふ。そっか、そっかあっ。リュウトはそういうふうに考えるのかー。なんだかちょっと分かってきたかも」


 リリカの目線が優しげというか、可愛らしいものを見る目つきになった。

 俺はこの小さな友達のからかう口調と裏腹に、飛び回る身体の動き、羽をパタパタさせる速度から、よっぽど嬉しいか楽しいのだろうと見て取った。話しているうちに少しだけ時間が経って、朝らしい空気の冷たさ、陽光の透明さがやわらいできていた。


 俺はリリカと、その周囲で朝露に輝く草原とを眺めていると、ぼんやりとしてきた。


「じゃ、じゃあリュウト! って、アンタ顔が……」

「ああ……」


「ああ、じゃないわよ! どうしたの、そんな、急に……!」

「言っただろ。腹が、へった、って」


「お腹がすいたって、そんなに!? 今にも倒れそうなんだけど!?」


 頭を使うのにもカロリーを消費するのだ。目が覚めてから今この瞬間まで全開で脳をフル回転させていたせいで、すごい勢いで俺の体力が減っていた自覚はあった。


 昨日から何も食べていない。むしろ昨晩の時点ですでにお腹が空いていた。


 リリカは危険ではないとは言わないが、少なくとも無体な行動を取らないと分かったこともあり、張り詰めていた緊張の糸が途切れたのかもしれなかった。

 どんどん意識が朦朧としてきた。唾液で喉を潤すのも、空腹をごまかすのも、さすがに限界だったらしい。

 安全が確信できるまでは一切の弱みを見せるわけにはいかなかったのだ。


「あ……すまん、限界だ」


 どうにかそれだけは口にできた。妖精の慌てた顔がアップになる。

 俺を好き勝手にするチャンスだが、ここぞとばかりに動き出したふうではなさそうだった。


 泣きそうな顔。

 必死な顔。

 そんな顔をさせるつもりはなかったのだけれど、ふっと意識が遠くなるのを感じる。


 膝から力が抜けた。頭を強く打ち付けるのは勘弁してほしいと思った。だが身体が自由にならなかった。

 仰向けに倒れたおかげでか、最後に見えた景色はひたすらに美しかった。


「リュウト! ……リュウトってばあっ!?」


 青い空、白い雲、清冽な光、そして妖精の泣き顔。

 最後に聞こえたのは自分の倒れる音、そしてリリカの焦った声だけだった。


 心配させることに罪悪感を抱きつつも、悪い気分ではないな、と俺は霞みつつある視界のなかで思った。


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