第16話 芽吹く笑顔、繋がる音色

美咲は、視線を、楽しそうにピアノを囲む子供たちへと向けた。

あの日から、もうずいぶん経った。れいさんがいなくなってからの「虹の広場」を運営する道のりは、本当に険しい。それでも、この場所で芽生え始めた小さな笑顔と、響き始めた音色を見ていると、美咲は、あの日のれいの温かい手のひらの感触を思い出す。


「森田さん、見ててくださいね」

美咲は、心の中で呟いた。

「この『虹の広場』は、きっと、たくさんの笑顔で満たされます。そして、お母さんとれいさんが夢見たこの場所を、私、必ず守り抜いて、未来へと繋いでいきますから」


困難と向き合う日々

れいさんの死を受け、美咲は「虹の広場」を後世に残すという決意を固めた。しかし、社会人としての仕事と、集会所の再生という、二つの大きな責任を両立させる日々は、決して楽なものではなかった。


「NPO法人 虹の広場」として、行政への手続きを進めるのは、想像以上に複雑な作業だった。膨大な書類作成、何度も区役所や社会福祉協議会に通い、担当者との打ち合わせを重ねる日々。美咲は、今まで触れたことのない専門用語や法律の壁に何度もぶつかり、正直、心が折れそうになることもあった。


「なんでこんなに手続きがややこしいんやろう……」

深夜、パソコンの前で頭を抱えながら、美咲は思わずため息をついた。

そんな時、美咲の支えになったのは、楽器店の店主や、職場の同僚、そしてれいさんの親戚からの温かい励ましの言葉だった。

「焦らず、一つずつ丁寧にやっていけばええんやで、美咲ちゃん。ひなこさんも、あんたのこと、きっと見てはるから」

れいの親戚からの電話の向こうの言葉に、美咲は何度となく勇気づけられた。


資金繰りもまた、大きな課題だった。ピアノの修復費用はれいさんが負担してくれたが、集会所の維持費、電気代や水道代、消耗品費、そして今後の運営費をどう捻出していくか。美咲は、個人でできる範囲のクラウドファンディングを立ち上げたり、地域のイベントで「虹の広場」の活動をPRしたりと、必死に模索を続けた。しかし、なかなか思うように寄付が集まらず、焦りが募ることもあった。


確かな変化、小さな芽吹き

それでも、美咲は諦めなかった。毎週土曜の午後、美咲と同僚の和也(かずや)は、集会所の清掃や整備を続けた。和也は、美咲の熱意に触発され、自身のSNSで集会所の様子を発信してくれたり、簡単なDIYで壊れた棚を直してくれたりした。彼らの地道な活動は、少しずつ、けれど確実に、集会所の雰囲気を変えていった。


壁に貼られた子供たちの絵は、埃を拭き取られ、色褪せながらも、確かに存在を主張している。美しく蘇ったピアノは、部屋の中央で、静かに、しかし力強い存在感を放っていた。美咲は、作業の合間にピアノの蓋を開け、鍵盤をそっと叩く。澄み切った音色が、静かな空間に響き渡るたびに、美咲は、ひなこさんとれいさんの笑顔を思い出し、再び活力を得た。


ある日のこと、集会所の前を通りかかった近所の小学生たちが、中の様子を興味深そうに覗いていた。

「ねぇ、ここって何?」

「ピアノがあるよ! 弾いてるの?」

子供たちの好奇心旺盛な声に、美咲は思わず顔を綻ばせた。

「ここはね、昔、たくさんの子供たちが音楽を楽しんだ場所なんだよ。また、みんなが自由に音を奏でられる場所にしたいと思って、今、準備してるの」

美咲が優しく語りかけると、子供たちは目を輝かせた。

「私、ピアノ習ってる! 弾いてもいい?」

「僕、歌うの好き!」

子供たちの純粋な言葉に、美咲の胸は熱くなった。それは、ひなこさんとれいさんが夢見た「みんなが自由に音を奏でられる場所」が、確かにこの場所に根付いていく兆しだった。


美咲は、子供たちに、あのピアノに触れることの楽しさを語り、簡単な童謡をいくつか教えてあげた。たどたどしい指で鍵盤を叩き、ぎこちないけれど、楽しそうに歌う子供たちの姿を見て、美咲の心は温かい光に満たされた。


この小さな出来事が、美咲にとって、何よりも大きな励みとなった。行政手続きの困難さも、資金繰りの悩みも、この子供たちの笑顔を見たら、全て乗り越えられる気がした。


未来へ紡ぐ音色

「虹の広場・音楽と笑顔の家」。その看板は、まだ真新しいけれど、その下には、確実に未来への希望が芽吹き始めていた。美咲は、この場所が、かつてひなこさんとれいさんが、そして田中先生が子供たちに与えたように、多くの人にとって、音楽の喜びと、心の安らぎを与えられる場所になることを信じていた。


美咲は、あのピアノの前に座り、鍵盤に指を置いた。そして、ひなこさんが残したあの歌を、そっと口ずさんだ。

「♪ いつか、この歌を、あの子と、そして、みんなと歌いたい……」

美咲の歌声は、澄んでいて、力強かった。それは、過去の悲しみを乗り越え、未来への希望を込めて、美咲自身が紡ぎ出す、新しい旋律だった。肥後橋から阿波座へと繋がる、母とれい、そして美咲の物語は、この「虹の広場」で、新しい世代へと、確かに受け継がれていこうとしていた。

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