第2話 交差する二つの時間
骨壺が鎮座するリビングの棚は、まるで別世界の入口のように美咲には見えた。母の死を受け入れられない心と、社会人として前を向かなければならない焦りが、美咲の胸の内で激しくせめぎ合う。この空っぽな部屋で、美咲の時間は止まったままだった。しかし、あの夜、れいと交わした言葉が、美咲の固く閉ざされた心の扉に、わずかな隙間を作った。そして、母の遺した「思い出」の箱が、その隙間からかすかな光を差し込ませる。
美咲は、再び箱の前に座り込んだ。通夜の夜、れいが語った「ひなこは美咲ちゃんのこと、心配してたよ」「元気で、幸せに生きてほしいって」という言葉が、美咲の脳裏にこだまする。母は、最期まで自分のことを思ってくれていた。その事実が、美咲の心をほんの少しだけ温かくした。同時に、まだ開けていない最後の手紙の存在が、美咲の心をざわつかせた。この手紙を開けば、本当に母との別れが決定的なものになってしまう気がして、どうしても指が動かない。しかし、このままではいけない。前に進むためには、母の残したものを、受け止める必要がある。
美咲は、その手紙をそっと箱の奥に押しやり、代わりに、あの古いフィルムカメラを手に取った。ひんやりとした金属の感触。レンズには薄っすらと埃が被っている。このカメラは、母の青春を写し取ってきたのだろうか。ファインダーを覗くと、ただ暗闇が広がる。シャッターをそっと押すと、「カシャリ」と乾いた音が、静まり返った部屋に響き渡った。その音は、止まっていた美咲の時間の歯車が、ゆっくりと動き出した合図のようだった。
カメラを置いた美咲は、箱の中から一番古そうなアルバムを引っ張り出した。表紙に書かれた「桜川高校入学式」の文字が、セピア色に色褪せている。母の丸い字は、幼い頃に見ていた絵本の文字とよく似ていた。美咲は、深く息を吸い込み、ゆっくりとページをめくった。
最初のページには、真新しい制服に身を包んだ、まだあどけない笑顔のひなこがいた。きらきらと輝く瞳には、未来への希望が満ち溢れている。その隣には、少しだけ緊張した面持ちの森田れい。黒髪は肩にかかるくらいで、今よりもずっと短い。表情は硬いが、ひなこに寄り添うように立っていた。二人の間には、写真越しにも伝わる、確かな絆がそこにあった。美咲が知っている「森田さん」とは違う、純粋な少女時代の森田れいがそこにいた。
次のページには、「文化祭」とマジックで書かれた文字。ひなこが満面の笑みで張り子の幽霊に顔を描き込んでいる写真。絵の具が鼻についているのもお構いなしだ。その隣には、カフェの装飾品らしき繊細なステンドグラス風の飾りを、真剣な顔で作っているれいが写っていた。その飾りの精巧さに、美咲は目を奪われた。不器用で大雑把な母と、手先が器用で完璧主義なれい。全く違う二人が、互いの得意なことを活かして何かを創り上げている。その光景が、美咲の胸に温かいものを広げた。
さらにページをめくると、夏祭りの写真があった。浴衣姿のひなこは、水色の金魚柄がよく似合い、楽しそうに笑っている。隣には、紺色の朝顔柄の浴衣を着たれい。二人で屋台のたこ焼きを分け合って笑い、金魚すくいに夢中になっている姿。そして、夜空を見上げる二人の横顔。大輪の花火が、二人の顔を鮮やかに照らしている。れいの横顔を見つめるひなこの眼差しに、美咲は少しだけ胸が締め付けられるのを感じた。それは、娘である美咲が知っている「母の顔」とは違う、一人の少女としての、純粋な感情がそこにあった。母も、自分と同じように、青春を謳歌し、誰かと深い絆を育んでいたのだ。その事実に、美咲は言いようのない親近感と、同時に、自分が全く知らなかった母の人生への、微かな寂しさを覚えた。
アルバムの中の母は、いつも楽しそうで、輝いていた。隣には、必ずれいがいた。美咲が知る母は、いつも明るく、おおらかで、時折突拍子もないことをする人だったが、そこに「少女」としての面影はなかった。アルバムの中の母は、美咲が生まれる前の、全く知らない「小野ひなこ」だった。
古い写真を見つめる美咲の目から、また涙がこぼれ落ちた。それは、悲しみだけでなく、知らない母の姿への戸惑いと、それでもそこにある温かい光景への、複雑な感情が混じり合っていた。止まったはずの時間が、アルバムのページをめくるごとに、ゆっくりと、しかし確実に動き出しているのを感じた。
時間が経ち、アルバムの中の母と、目の前に置かれた骨壺の母。どちらが本当の母なのか、美咲には分からなかった。ただ、確実に言えるのは、アルバムの中の母は、今も生き生きと、その瞳を輝かせているということだった。
美咲は、最後のページをめくった。そこには、卒業式の日に、桜川高校の坂道のてっぺんで撮られたと思われる二人の写真があった。ひなことれいが、固く握手をしている。二人とも、少しだけ照れたような、でも、未来への希望に満ちた、強い眼差しをしていた。その写真の裏には、ひなこの字でこう書かれていた。
『いつか、また、この坂を上ろう。私たちらしく、未来へ向かって。』
美咲は、その文字を指でなぞった。母は、この坂道のてっぺんで、未来への約束を交わしていたのだ。しかし、その未来に、母はもういない。美咲の心に、また冷たい風が吹き込む。母の死を受け入れなければならない。でも、こんなに輝いていた母の人生が、そこで途切れてしまったことが、どうしても信じられない。
美咲は、その写真を静かに閉じた。母の残したアルバムは、美咲の心に、新たな問いを投げかけた。母は、この写真に何を託したかったのだろう。そして、このフィルムカメラには、まだ写されていない母の想いが、隠されているのだろうか。
無性に、森田れいに会いたくなった。あのアルバムに写る母のこと、そして、れいのこと。美咲の知らない母の人生を、もっと聞きたい。そして、このフィルムカメラのこと。あの時、れいが話すことを躊躇した、母との「秘密」のこと。知りたい、という衝動が、美咲の心を突き動かした。これは、未来へ進むための一歩だと、美咲は思った。
美咲は、手に持っていたアルバムを箱に戻し、しっかりと蓋を閉めた。そして、母の骨壺に静かに語りかけた。
「お母さん、私、もう少しだけ、お母さんのこと、知りたいよ」
それは、美咲の心の中で、止まっていた時間が、再び呼吸を始めた証だった。
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