第一部 中国医学の哲人たち ②張仲景 悲しみを超える医学

後漢の末。人の命は軽く、病の前に人はあまりに無力だった。洛陽の街には連日、葬列が絶えない。死者を埋めるための布さえ足りず、道端に打ち捨てられた亡骸が腐臭を放った。


張仲景はその腐臭に満ちた空気の中で、父の死を見届けた。熱は三日三晩続き、最後には息をするたびに胸がひゅうひゅうと鳴った。「父上……」痩せ細った父の額に、そっと手を当てる。冷たい。もう生きていない。張仲景は声を失った。


母も後を追うように逝った。親族の嘆きは絶え間なく、自らも病を患った幼い甥の小さな体を抱きしめた。「叔父さん、助けて……」その声を、張仲景は一生忘れない。だが救えなかった。


「どうしてだ。私の学びは、なんの役に立つのだ。」宮廷医としての誇りが、粉々に砕けた。


ある夜、張仲景は弟子の一人に漏らした。「この疫病は、祈祷で退けられるものではない。理で制さねばならぬ。」「理……と申されますか。」弟子は青ざめた顔で問い返す。


「人の体には陰と陽がある。寒と熱の巡りがある。それを、正しく見極めるしかない。」張仲景の声には、悲しみと決意がにじんでいた。


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診察室には、貧しい農夫から上級官吏までさまざまな者が訪れた。張仲景は全員を同じ目で診た。


若い娘が、激しい熱と寒気を繰り返すと言ってやってきた。顔は紅潮し、汗は止まらない。脈をとり、舌を観察する。「体表に邪気が留まり、正気が弱くなっている。」張仲景は弟子に処方を伝える。「桂枝湯を用いよ。」


桂枝湯——桂皮、芍薬、生姜、大棗、甘草。これらを絶妙な配合で煎じ、発汗を助け、表の邪を散らす。弟子はうろたえる。「桂皮が少なくなっております。」「隣村に走れ。まだ桑畑の近くに売り人がいるはずだ。」「はっ……!」


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別の日、若い兵士が高熱で倒れ込む。脈は浮き沈みを繰り返し、汗はほとんど出ていない。息苦しさに目をむき、うわごとを言う。張仲景はため息をつき、「麻黄湯を。」「汗を出して、邪を外へ追い払う。」


麻黄湯の材料は麻黄、桂枝、杏仁、甘草。麻黄の辛温で発汗を促し、杏仁で咳を沈め、甘草で調和をとる。弟子は首をかしげた。「麻黄の量が多いのでは?」「いいや。 この病はすでに中に入り込んでいる。 迷わず追い出すしかない。」弟子は張仲景の眼光に押され、黙って頷いた。


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老女が胸の詰まりと不安を訴える。夜になると心臓が高鳴り、眠れない。夢の中で亡くした子に会うたびに涙を流す。張仲景は静かに座り、脈を診た。「柴胡加竜骨牡蛎湯を煎じよ。」弟子が問い返す。「なぜ竜骨と牡蛎を?」「魂を沈め、恐れを鎮めるためだ。」その声は優しかった。柴胡、半夏、黄芩、生姜、大棗、人参、竜骨、牡蛎——複雑な配合だったが、張仲景は弟子に一つずつ薬の意味を教えた。「柴胡は気の巡りを開く。竜骨と牡蛎は、揺れる魂を鎮める。」「魂を……。」弟子は感嘆の声をもらした。


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またある日は、産後の母が激しく冷えて倒れていた。顔は土のように青ざめ、力が出ない。張仲景は、かすかな脈を確かめて首を振る。「血が不足している。」「当帰芍薬散だ。」当帰、芍薬、川芎、蒼朮、沢瀉、茯苓。血を補い、水をさばき、女性の身体を調える。「これで、立ち上がれるはずだ。」優しく声をかけると、その母の目に涙がにじんだ。


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夜。弟子たちはくたくたに疲れて床に伏していた。だが張仲景だけは、筆を止めなかった。蝋燭の火が小さくなると、弟子を揺り起こした。「桂枝湯と麻黄湯の見極めを言え。」寝ぼけた声で弟子がつぶやく。「……汗の有無で、桂枝か麻黄か。」「そうだ。汗は生死を分ける。」「わかっております……。」弟子はまた倒れるように眠る。その寝顔を、張仲景はふっと見つめた。「お前たちが未来の希望だ。 私が死んでも、伝えろ。」誰にともなくつぶやく声が、灯火に溶けた。


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完成した『傷寒雑病論』には二百以上の方剤と、それを使う論理が詰まっていた。熱の移り変わり、表から裏への変化、脈の浮沈、汗の出方、体力の盛衰……どれも人間を生かすために必要な“物語”だった。


張仲景の処方は、薬の寄せ集めではなかった。ひとりひとりの患者の身体の声に、耳を澄ますための手段だった。「薬は刀ではない。 気を正しく巡らせるための舟のようなものだ。」弟子に伝えたその言葉は、いまも伝統医学の根に残っている。


『傷寒雑病論』は完成したあと、戦乱で多くの写本が失われた。しかし弟子が命がけで写し、さらにその弟子へと継がれ、奇跡のように残った。日本へ伝わり、やがて和薬と出会って進化し、人々を支える「漢方」という礎になったのだ。


その始まりには、張仲景というひとりの医の志があった。家族を救えなかった無念。誰も助けられない現実。それでも、人は人を見捨ててはいけないという覚悟。


その覚悟の炎が二千年を超えても消えないのは、決して偶然ではない。

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