第20話
夜の帳が、都市の残骸を静かに覆っていた。
アクシスは、壁に刻まれた灰色の文字の前に立ち尽くしていた。
それは、まるで誰かの思考の断片を直接刻みつけたようなものだった。
「存在は記録されるためにある」「意志は灰へと帰す」「器は、残滓を運ぶ媒介にすぎない」——。
彼の目の前で崩れた少年の“残り”が、まだ地にくすぶるように漂っている。
灰ではなく、微細な粒子。
それが空気に混じり、肺を通して体内に入り込む感覚があった。
吐き出そうとしても、吸い込んでしまう。まるで意図的に“残されている”かのように。
「……この街全体が、檻か」
アクシスは低く呟く。
灰の手が求めているのは、人間の体でも魂でもない。“意志”そのもの。
それを抽出し、再構築し、記録として保存する。
ならば、この都市自体が巨大な記録装置なのではないか——そう思った瞬間、背後から声がした。
「その考えは正しい。だが、遅すぎる」
反射的に銃を構える。
だが、そこに立っていたのは、かつて同じ部隊にいた女——リヴィアだった。
彼女の瞳は鈍い銀色に濁り、かつての温度はなかった。
「リヴィア……お前、生きていたのか」
「“生きている”と呼ぶなら、そうかもな。
でももう、私は人間じゃない」
彼女は服を少し開き、胸元の下を見せた。
そこには金属の管が幾重にも埋め込まれ、青い液体がゆっくりと流れていた。
管の先には、脈動する灰色の結晶。
それはまるで心臓の代わりに“記録”を送る機械のようだった。
「灰の手に捕らえられてから、私は“継ぎ”の実験に使われた。
死と記憶を繋ぐ装置。感情を消す代わりに、意志を保存する。
笑えるだろ? 私はもう、自分で自分を思い出せない」
アクシスの喉が詰まる。
彼女の声には確かにリヴィアの響きがある。だが、魂の奥底が違う。
彼女は“記憶の檻”の中に閉じ込められた存在——生と死の境界を失った残響。
「逃げろ、アクシス。ここは、もう灰の手の中心領域だ。
お前を“解析”するための回廊に、足を踏み入れた」
「お前も一緒に——」
「無理だ!」
リヴィアの叫びは、人間の声ではなかった。
響きと共に、壁が脈打ち、都市全体がざわめく。
まるで意志を持つ生物のように、建物の内部が蠢いている。
「ここは呼吸しているの。灰の手が作った“有機的な都市”。
一人一人の記録が神経のように繋がって、私たちはその内部を循環している。
誰かが抜け出そうとすれば、他の誰かが代わりに取り込まれる」
アクシスは息を呑んだ。
リヴィアの身体が徐々に崩れていく。皮膚の下から光の粒が漏れ、形を保てなくなっていく。
「リヴィア! おい、まだ……!」
「行け、アクシス。あんたはまだ“記録”じゃない。
あんたの意志は、まだ……」
彼女の手が宙を掴むように伸びたが、そのまま空気に溶けた。
音もなく、ただ灰の粒が静かに降り積もる。
沈黙。
アクシスは膝をつき、拳を地に叩きつけた。
「……記録なんて、クソくらえだ。俺は、俺のままで終わる」
その瞬間、視界の端に“揺らめき”が見えた。
霧のような映像が脳裏に流れ込む。——そこには、別の施設の光景。
白衣を着た者たちが、何かを“転送”している。
リヴィアの意志と、無数の記録データを“別の場所”へ。
「……転送先?」
アクシスの体が震える。
灰の手は、ここだけの組織ではない。
この都市は一つの中継点。——さらに上位の、未知の“集合知”へと意志を流している。
リヴィアの声が最後に脳裏で響いた。
『灰の手のさらに上層に、“観測者”がいる。彼らは神ではない。だが、人の意志を神に変えようとしている——』
「観測者(オブザーバー)……?」
アクシスは立ち上がった。
夜明けの光がかすかに地平を照らす。だが、その光さえも灰色に濁って見えた。
胸の奥で、怒りと恐怖と、奇妙な決意が入り混じる。
「リヴィア、お前の記録が俺の中にあるなら……必ず、取り戻してやる」
彼は再び歩き出した。
足元の灰が音を立てるたび、過去の記録がかすかに囁く。
その声は、恐ろしくも温かかった。
——まだ終わりではない。
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