あの坂の途中で

暁月 紡

第1話 高校生活(青春の坂道)

真新しい制服のスカートが、春風にはためく。小野ひなこは息を切らしながらも、桜川高校へと続く坂道を軽やかに駆け上がっていた。隣には、一つ結びの黒髪が揺れる幼なじみの森田れいが、いつものように淡々とした足取りで続く。駅の改札を出た瞬間から、ひなこの胸には新しい生活への期待が満ちていた。大阪の街並みが、坂を上るにつれて少しずつ視界に広がる。


時は2000年代の初め。まだスマートフォンは普及しておらず、誰もがガラケーを手にしていた時代だ。放課後の寄り道といえば、駅前のゲームセンターか、新しくできたばかりのドーナツショップ。SNSで日常を切り取る習慣なんてなかったけれど、だからこそ、目の前の「今」が、より鮮やかに心に焼き付いていた。


「れい、はよはよ! 遅れてまうで!」

ひなこが振り返って声をかけると、れいは「分かってる」とだけ返した。ひなこがどんなに先を急いでも、れいはいつも、ひなこの少し後ろを一定の距離で歩く。そんな二人の関係性は、小学校からの何年間も変わらない。


坂の途中、満開の桜の木の下で、はしゃぎながら記念撮影をしている新入生たちの姿が見えた。彼らの持つ使い捨てカメラのフラッシュが、眩しく光る。

「あー、ほんまにこの坂、いつまで経っても慣れへんなあ」

ひなこが独りごとのように呟くと、れいは横に並んで言った。

「毎日上ってたら、そのうち慣れるやろ」

「慣れるかなあ? でも、この坂上ったら、なんか全部始まりそうな気がするわ!」


校門が見えた途端、ひなこは胸いっぱいに春の空気を吸い込み、大きく伸びをした。

「なあ、れい。私たち、この高校で、どんなことするんやろ? どんな友達ができるんやろ?」

ひなこは興奮気味にれいの腕を掴む。

「そりゃ、勉強して、部活して……普通に高校生活送るだけやろ」

れいは冷静に答える。

「えー! れいは夢ないん!? もっとこう、青春!みたいな!」

「青春てなんやねん」

れいは呆れたように笑ったが、その瞳は楽しそうだった。


「じゃあさ、約束しよ!」

ひなこは急に真剣な顔になり、れいに右手を出した。

「この坂のてっぺんで、どんな時も、お互いを一番に応援するって。しんどい時も、楽しい時も、ずっと一緒におるって!」

れいは差し出されたひなこの手を見て、少し躊躇した。ひなこの突拍子もない提案に、いつも戸惑う。だが、彼女の真っ直ぐな瞳には、いつも敵わない。

「……しゃあないな」

れいもゆっくりと右手を出し、ひなこの小さな手に重ねた。ひなこの手は、れいのよりも少しだけ温かかった。

「よっしゃ! 約束な!」

ひなこは満面の笑みを浮かべ、れいの手をぎゅっと握りしめた。


その日から数週間後。部活見学を終えた放課後、ひなこは校舎裏の普段使われない勝手口を見つけた。「ここ、なんか秘密の場所っぽい!」と、好奇心が抑えられないひなこは扉をガチャガチャし始めた。

「ひなこ、あかんって。そこ入ったら怒られんで」

れいは制止するが、ひなこは聞かない。意外にもあっさり開いた扉の先に、薄暗く埃っぽい旧理科準備室があった。使われなくなった実験器具の奥に、一台の古いアップライトピアノが静かに佇んでいた。

「……うわ、なんかええ雰囲気やな」

ひなこは興味津々に部屋を歩き回り、ピアノの前に座る。鍵盤をそっと押すと、少し狂った「ぽろん」という音が鳴った。

「……この音、なんか、好きかも。きれいとか下手とかだけちゃうんやなって思った」

ひなこの言葉に、れいはハッとさせられ、「ひなこの言うことって、たまに、詩みたいやな」とつぶやく。

「え、今の褒めた!? れいが褒めたで!? 録音しとけばよかった〜!」

ひなこが大げさに喜ぶので、れいは照れくさそうに顔を背けた。その日から、二人は誰にも知られずにその秘密の教室に通うようになる。ピアノを弾いたり、お菓子を食べたり、宿題をしたり。二人の秘密の放課後が、二人の絆を深めていった。


高校一年生の夏休み。秘密の教室で宿題をしている最中に、ひなこは商店街の夏祭りのポスターを見つけた。

「れいも行こ! 浴衣着たいし!」

れいは渋々承諾した。待ち合わせ場所で、浴衣姿のお互いを見て、二人は少し照れた。ひなこは水色の金魚柄、れいは紺色の朝顔柄。互いの浴衣姿を褒め合い、友達とは違う意識が芽生え始める。

祭りの会場は、提灯の明かりと屋台の匂いで溢れていた。たこ焼きを分け合い、金魚すくいではしゃぐ。人混みの中、はぐれないように自然と手が触れ合う。人混みを抜け、川沿いの土手で花火を見上げる。夜空に咲く大輪の花火が、二人の顔を鮮やかに照らす。れいがひなこの横顔に見惚れ、ひなこもれいの少し大人びた横顔にドキッとする。言葉にならない感情が二人の間に流れた。

花火が終わる頃、ひなこが少しだけれいの肩に寄り添い「来年も、また一緒に来ような」とつぶやく。れいは言葉ではなく、静かに頷くことで、二人の間に芽生えた特別な感情を確かめ合った。


秋風が吹き始め、ひなこたち高校一年生は初めての文化祭準備に沸き立っていた。ひなこはクラスの出し物であるお化け屋敷の飾りつけに夢中で、放課後も居残り、張り子の幽霊に顔を描き込んだり、廊下を不気味な暗幕で覆ったりしていた。れいはというと、手先が器用なため、展示用の精巧な模型作りに集中していた。普段、秘密の教室で過ごす二人だが、文化祭という大きな行事を通して、クラスメイトとの新たな交流も増えていく。


文化祭当日。校内は生徒たちの熱気と、来場者の笑顔で溢れていた。ひなこのクラスのお化け屋敷は大盛況で、彼女は声を枯らしながら客引きをしていた。休憩中、冷たいジュースを持ってきてくれたのはれいだった。

「ひなこ、頑張ってるな」

「れいもやん! 模型、めっちゃ人気みたいやで!」

互いの頑張りを認め合う瞬間は、秘密の教室での時間とはまた違う、温かい絆を感じさせた。


そして、冬が過ぎ、桜川高校に二度目の春が訪れようとしていた。ひなこは高校生活にすっかり慣れ、新しい学年への期待に胸を膨らませていた。れいの隣で坂道を上る足取りは、入学式の頃よりずっと軽やかになっている。あの坂のてっぺんから見える景色は、一年経った今も、ひなこの心を躍らせるものだった。新しい学年では、どんな約束が待っているのだろう。ひなこはそう思いながら、隣を歩くれいの、ほんの少しだけ伸びた背中を見上げた。

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