【短編】夕暮れのシルエット
茂上 仙佳
夕暮れのベンチ
五月も半ばを過ぎ、都心のビル群に挟まれた空に、穏やかな夕日が差し込んでいた。高橋彩は27階建てオフィスビルの屋上庭園にたどり着くと、深く息を吸い込んだ。地上の喧騒が嘘のように静かで、かすかに聞こえる車のエンジン音も、この高さではまるで遠い海の波音のように心地よい。
「やっと一息つける」
彩は小さく呟きながら、いつものベンチに腰を下ろした。手元のボールペン—今日一日中握り締めていた愛用のブルーのペン—を無意識に指の間で回している。これは彩の癖で、考え事をする時や緊張している時、必ずこうして手を動かしてしまう。
広告代理店「クリエイティブソリューションズ」の営業として働く毎日は、想像以上に過酷だった。大学時代、マーケティングの授業で学んだ広告業界への憧れと、実際の現場での現実との間には、深い溝があった。クライアントとの終わりの見えない打ち合わせ、深夜まで続く企画書の修正作業、そして何よりも、自分のアイデアを形にする機会がほとんどないことへの失望感。
「今日もまた、言いなりになってしまった」
午後の会議を思い返し、彩は眉をひそめた。新しいファッションブランドのキャンペーン企画で、彩なりに練り上げた提案を、クライアントはあっさりと却下した。「もっと保守的で、確実性のあるものを」と。それは彩が思い描く、人々の心に響くような創造的な広告とは程遠いものだった。
真面目で責任感の強い性格ゆえに、彩はつい自分を追い込んでしまいがちだった。周りの同僚たちは「仕方ない」「そういうものだ」と割り切っているようだが、彩にはどうしてもそれができない。なぜなら、この仕事に本当の情熱を抱いているからこそ、妥協することが苦痛でならないのだ。
屋上庭園は、この複合オフィスビルに入居する十数社が共同で利用できるスペースだった。建物のオーナーが「働く人々の心の潤いを」というコンセプトで設計したという話を、入社時に聞いたことがある。東西に長い楕円形の空間に、木製のベンチが等間隔で六つ配置され、その間に季節の花々や小さな樹木が植えられている。春には桜、今の時期には薔薇、秋には紅葉、冬には常緑樹が目を楽しませてくれる。
彩がショートボブの黒髪を軽く撫でながら遠くの景色を眺めていると、隣のベンチに人影が現れた。振り返ると、細身でメガネをかけた男性がゆっくりとベンチに腰を下ろすところだった。年齢は自分と同じくらいか、少し上くらいだろうか。ネイビーのスーツを着ているが、ネクタイは少し緩められ、ワイシャツの袖は軽くまくり上げられている。一日の疲れが表情に現れていて、彩と同じように深いため息をついていた。
男性は彩の存在に気づいているのかいないのか、黙って西の空を見上げている。彩も同じ方向を向き、沈みゆく太陽を眺めた。オレンジ色に染まった雲が、まるで水彩画のように空に広がっている。都市の硬いコンクリートとガラスの建物群が、夕日の柔らかな光によって温かみのあるシルエットに変わっていく。この瞬間だけは、忙しい東京の中心部にいることを忘れられる。
風が穏やかに頬を撫でていく。五月の風は、まだ夏の暑さを含んでおらず、冬の冷たさも完全に去って、一年で最も心地よい時期だった。彩は目を閉じて、その風を全身で感じていた。地上27階の高さにあるこの庭園では、街の喧騒は遠い記憶のようになり、代わりに鳥のさえずりや葉擦れの音が聞こえてくる。
しばらく無言の時間が流れた後、隣の男性が小さくため息をついた。それは独り言のような、誰に向けているとも分からない呟きだった。
「長い一日でした」
その声は疲れているが、どこか温かみがあった。低めの落ち着いた声で、彩は思わず反応してしまった。
「そうですね」
彩の声に、男性が少し驚いたような表情を見せた。
「すみません、独り言のつもりでした」
男性が慌てたように謝った。その様子から、普段あまり人との会話に慣れていないことが伺える。
「いえいえ。私も同じことを思っていたので」
彩は手元のペンを回しながら微笑んだ。この笑顔は作り物ではなく、心からの自然なものだった。今日一日、クライアントや上司に見せ続けてきた営業用の笑顔とは全く違う、素の彩の表情だった。
男性は安堵の表情を浮かべ、軽く頭を下げた。
「大崎と申します」
「高橋です」
簡単な自己紹介だったが、お互いに何かしらの安心感を覚えた。初対面の人との間に生まれる緊張感や警戒心が、この屋上庭園という特別な空間では和らいでいくようだった。
大崎隼と名乗った男性は、メガネの奥の瞳が知性的で、クールな印象を与えながらも、どこか誠実さを感じさせる雰囲気があった。話し方は控えめで、視線をまっすぐ相手に向けることは少ないが、それが却って誠実さを物語っているようでもあった。
「お疲れ様です」
「お疲れ様です」
短い挨拶を交わした後、二人は再び夕暮れの街並みを眺めた。太陽は建物の向こうに沈みかけており、空の色は徐々にオレンジから薄い紫へと変化している。都心のビル群が作り出すシルエットは、まるで巨大な積み木のように空に立ち並んでいる。その中を、小さな光の粒—車のヘッドライトや窓明かり—が動いている。一つ一つの光の向こうには、それぞれの人生があり、それぞれの物語があることを思うと、不思議な感慨が胸に湧いてくる。
「今日も一日終わりましたね」
隼が静かに呟いた。その声には、安堵と疲労、そしてかすかな孤独感が混じっていた。
「そうですね。毎日があっという間に過ぎていく感じがします」
彩は率直に答えた。普段なら、初対面の人にこんなに素直に自分の気持ちを話すことはない。しかし、この夕暮れの空間では、なぜか心の壁が低くなっているようだった。
空の色が刻一刻と変化している。薄紫からラベンダー色へ、そして深い青へと移ろいでいく。一番星が瞬き始め、街の明かりが徐々に目立ってくる。昼と夜の境界線上にあるこの時間は、一日の中で最も美しく、最も静謐な時間だった。
「お仕事は何を?」
隼が控えめに尋ねた。プライベートな質問をすることに少し躊躇している様子が見て取れる。
「広告代理店で営業をしています。大崎さんは?」
「ITの会社でソフトウェアエンジニアをしています」
お互いの職業を知り、少しずつ距離が縮まっていく感覚があった。全く異なる業界だが、どちらもデスクワークで、創造性を要求される仕事だという共通点があった。
隼はラフなビジネスカジュアルが似合う体型で、神経質そうに見えるが、実際に話してみると物腰が柔らかく、聞き上手であることが分かってきた。彩は細身でスタイリッシュな印象だが、話し方には飾り気がなく、自然体でいることを好む性格が表れていた。
「この時間帯だと、夕暮れがとても綺麗ですね」
彩が空を見上げながら言った。オフィスの窓からも夕日は見えるが、この開放的な空間で見る夕焼けは格別だった。
「そうですね。僕は普段、家では映画を見たり、ジャズを聴いたりするのが好きなのですが、ここでの夕暮れも特別な時間です」
隼が珍しく自分の趣味について語った。普段は内向的で、自分のことを積極的に話すタイプではないが、この雰囲気の中では自然と言葉が出てくる。
「映画とジャズですか。素敵な趣味ですね。私は読書が好きで、特にミステリーをよく読みます」
彩の目が少し輝いた。趣味の話になると、仕事で疲れた表情が和らぎ、本来の生き生きとした彩が現れてくる。
「ミステリーですか。いいですね。どんな作家がお好きですか?」
隼も興味深そうに身を乗り出した。
「東野圭吾さんや宮部みゆきさんの作品をよく読みます。最近は海外のミステリーにも手を出し始めて、アガサ・クリスティーの作品を読み返しているところです」
「クリスティーの作品は名作が多いですよね。『そして誰もいなくなった』は映画化も何度もされていますし」
会話が弾み始めた。二人とも内向的な性格だが、共通の話題を見つけることで心の距離が少しずつ縮まっていく。お互いに相手が知的で、感受性豊かな人だということが分かってきた。
「僕はクラシック映画が好きなんです。特にフィルム・ノワール系の作品に惹かれます。『第三の男』や『マルタの鷹』のような」
隼の声に、初めて情熱的な響きが混じった。趣味について話している時の彼は、仕事で疲れ切った表情とは全く違う、生き生きとした表情を見せていた。
「フィルム・ノワール...。私も映画は好きなのですが、あまり詳しくなくて。でも『第三の男』は聞いたことがあります」
彩が興味深そうに答えた。自分の知らない世界について聞くのは楽しい。特に、こんなに情熱的に語る隼の姿を見ていると、その世界を覗いてみたくなる。
「機会があったら、おすすめの作品をお教えします」
隼が微笑みながら言った。普段は視線をそらしがちな彼だが、この瞬間は彩の方をまっすぐ見ている。その瞳には、新しい出会いへの期待と、自分の好きなものを誰かと分かち合いたいという願いが込められていた。
夕日が次第に沈み、空の色がより深い青紫へと変わっていく。屋上庭園の緑も、夕暮れの光に包まれて幻想的な雰囲気を醸し出している。薔薇の花が最後の光を受けて、まるで宝石のように輝いている。風が運んでくる花の香りが、二人の間に漂う空気をより一層心地よいものにしていた。
街の明かりが一つずつ灯り始める。遠くに見える東京タワーのライトアップが始まり、まるで巨大な宝石のように夜空に浮かび上がった。この高さから見下ろす東京の夜景は、昼間の忙しさや騒々しさを忘れさせてくれる美しさがあった。
「そろそろ帰らないと」
彩が時計を見ながら言った。もう7時を回っている。普段なら、こんな時間まで屋上にいることはない。しかし、今日は隼との会話に夢中になって、時間を忘れてしまっていた。
「そうですね。また明日も同じ時間にいらっしゃいますか?」
隼が控えめに尋ねた。その声には、期待と不安が混じっていた。こんなに自然に話せる相手と出会えたのは久しぶりで、明日もまた会えるのかどうか分からないことが不安だった。
「はい、多分。この時間が一日の中で一番落ち着けるので」
彩は素直に答えた。実際、今日隼と話したことで、一日の疲れが不思議と和らいでいるのを感じていた。
「では、また明日お会いしましょう」
隼が安堵の表情を見せながら言った。
二人は立ち上がり、軽く会釈を交わした。彩は振り返ることなく屋上庭園を後にしたが、心の中では明日の夕暮れ時が楽しみになっていた。今日一日の疲れやストレスが、最後の30分の会話によって救われたような気がしていた。
隼も同じように、明日への期待を胸に抱きながら帰路についた。エレベーターに乗りながら、彼は今日の会話を振り返っていた。久しぶりに心を開いて話せる相手に出会えた喜びが、胸の奥に温かい感情として残っていた。偶然隣り合わせたベンチでの出会いが、二人にとって特別な時間の始まりとなることを、この時はまだ知らなかった。
屋上庭園に夜の静寂が訪れ、二人が座っていたベンチだけが、街の明かりに照らされて静かに佇んでいた。明日もまた、この場所で二人の物語が続いていくことを、星空が静かに見守っていた。
夕暮れの屋上庭園に、二人のシルエットが重なった瞬間から、新しい物語が始まったのだった。
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