第12話

「ディクルベルクの主要な建築資材は木材です」


 リリアはいう。


「町の西に密生する針葉樹林は成長が遅くとも巨大で品質も均一、商品としての信頼度も高く、クロッサス川を下って、海に至り、そこから大陸各地に販売されています」


「浄水場兼実験施設にも、その木材を使う、ということだな」

「そういうことです」


 ですので、とリリアは続ける。


「ユウさんにはその切り出しをお願いします」


 というわけで、森の中に来ている。


 見上げるほど高い樹冠からこぼれる蒸気に散乱された光は神殿の柱のように降りそそぎ、分厚い腐葉の上を這いずる小さな昆虫の様子を照らしていたりした。その光は枝葉を踏み締め、腰をかがめるユウの上にも平等に落ちている。


 上体を前に倒し、膝をやや折り、太ももと足裏にある筋肉の張りを認めて、ふくらはぎを軋ませる。さらに前に重心をやって、焦げ茶の腐葉の中に指先を埋めた。軽く身体を支える。


 そばに立つ男が片手を挙げ、


「始めっ!」


 いうと同時に振り下ろした。


 直後、巨体が迫ってきて、顔を傾げたユウの肩に頭をぶつけた。その衝撃に肩関節が痛みとともに外れかけ、足腰が潰されるように圧迫されてゆく。耐えていられるのは鍛え上げた筋肉の反発のおかげだった。


 爪先は腐葉に埋まって、その表面がやや滑る。


 重い。


 頭に血が昇ってゆく。呼吸もままならず、噛んだ歯が砕けないのが不思議だった。


 相手の図体はユウよりも一回りデカい。筋骨も隆々としていて、ほとんど岩石が落下してきたのに衝撃が似ているかもしれない。


 その長い手がユウの腰をつかみ、彼の身体を地面から剥がそうとする。ユウは堪えて腰を落とす。左右に振られそうになってもまだ耐える。逆に、動こうとする相手の挙動に合わせて右に振ってやった。


 相手の足がわずかにたたらを踏んだ。


 おお、と歓声が鳴る。


 しかし、それもつかの間。相手は再び足元を確かにして押し込んできた。ユウも頭を低くして後頭部を相手の胸元のあたりに。両手をさらに奥、腰を覆うズボンを握り、一気に上体を起こした。


「うおおおおおお」


 腰を捻るようにして回すと圧が消え、視界が開けた。ただ、全身に大きな質量だけが乗っている。それを乱暴に振り回す。一緒になって腐葉の上にひっくり返った。


「どうだ、どうだ」と左右がいう。が、ユウは寝返りを打つのが精一杯だった。陽光を浴びて激しく胸が上下するのに任せる。


「勝者、天ノ岐ユウ」


「うおおお」と観衆が声を上げて喝采した。

「すげえ」

「ロックスさんが浮いたぜ」

「ぶん投げやがった」

「おいおい、マジかよ」


 手を取られて起き上がったユウは空いている方の手を観衆に振った。ひゅーひゅーと指笛の音が森林に響く。


「まさか負けるとはな」片手に握った毛皮の帽子を赤毛の頭へ乱暴に被せつつ、相手は爽やかな笑みを浮かべていた。「信じられねえくらい強えじゃねえか。次からはあんたが大将かもしれんぜ」


 白い歯を見せた浅黒い肌は意外に端正なのかもしれない。いまは泥と埃に汚れて、みすぼらしく見え、その年齢も定かではない。おそらくはユウより一回りも上ではないだろう。が、ディクルベルクの製材組織の統括者らしい。


 ユウはまだ肩で息をしつつ、


「ロックスさんも、なかなかの踏ん張りでした。勝てたのは奇跡です」

「ロックスさんだなんて、他人行儀な。呼び捨てでいいぜ」


 背中を叩かれ、息が止まり、おそらく腫れているのも予想できる。


「あんたが勝ったのはあんたの実力だ。奇跡なんかじゃあねえからな」


 組打ちをしている。


 柔道か相撲に近い。極北の森の落ち葉は低温のために、元気の出ない微生物に分解され切れず、数年分も厚く溜まり、天然のマットと化していた。そこから枝を取り除き、こういう勝負をやっている。


「久しぶりに興奮したぜ」


 観衆は木こりの仕事を思い出し、斧を片手に散ってゆく。ユウはロックスと二人、山のように集めた腐葉の上に腰を下した。


 雪解けの匂い、その水を吸って潤う樹木、細い葉から発散される蒸気に太陽の輝きが淡く散らされ、肌に触れるときにはずいぶんと柔らかい。


「いい森です」


 腐葉の合間に小さな花が咲き、丸々と肥えた樹木の裏表には苔と地衣が繁茂して、その間を小さな虫が飛び回る。


「なにか手を加えているものですか?」

「別に、加えちゃいねえよ」


 ロックスはそばに落ちていた木の実を拾って、木性の色合いに輝くそれを指の間で転がしていた。


「定期的に落ちた枝葉はこうして集めて持ち帰るだろ。特にこの時期はな、多めに持ち出す。少し植樹はするか。あとは完熟たい肥を撒いてるが、まあ必要なことじゃねえな。あんまり撒くと変な臭いもしてくるし。ディクルベルクだけじゃ消費できなくて置き場に困るから、この辺りに広く薄く撒いてるって、ただそれだけだ」


「間伐や倒木の撤去は手を加えるうちに入りませんか?」

「入らないね」


 ロックスはうしろに手を突いて大きくのけ反った。はるか頭上の樹冠を眺めている。


「森の中に無駄な木なんてないぜ。いくら人間が頭を捻って森の整理をしようとしても森の均衡を崩すだけで一切無意味だ。倒木にしたって、いずれ朽ちて森の養分になるし、それ以前にも森の中の生き物たちの住処になっている。森には手出しをしないのが一番だ」


「しかし、それでは……」

「おれたちの商売が成り立たねえってか」


 声を立てて笑い、


「そりゃ、おれたちも生きて町を作らなきゃならねえからな。多少のおこぼれはもらっていくが、もらい過ぎちゃいけねえよ。あくまで、森の中じゃ人間なんて部外者だ。一切手をつけないに越したことはねえよ」


 あちこちから木の幹を叩く音がこだまして、勢いよく倒れてゆく姿もある。


「おれはねえ」

 とロックスはいい、

「ああいうのを見ると、寂しくなっちまう」


「寂しい、ですか」


「おう」とロックスは唸り、「しかし、やらねえわけにはいかねえんだよ、商売だから」


 まだ木こりたちの、幹を叩く音が続いている。


「いまのディクルベルクは枯れ切っちまってる」


 というロックスの瞳は遠いところを見つめていた。


「食いもんなんてどんどん減っちまって、街中の奴らを養うだけで精いっぱい、金となるともっと少ねえ。いままでは麦の輸出で成り立ってたからな。しかし、そいつがなくなっちまって、どうにもならん。だから、おれたちがやらねえと、ディクルベルクはホントにおしまいさ」


「だから木を切り倒すのもしょうがない?」


「ああ」とロックスは頷く。「けどよ」と呟いた声には強さがよみがえっていた。


「リリア嬢とアントワーヌの一族はこのディクルベルクを思って、いや、ディクルベルクだけじゃなく、この星全体のことを思って、すべてを賭けて、世の中を良くしようとしてくださってる。大将よ、あの用水路、見たか?」


「ええ」


「あれはおれたちが掘った。それを依頼してきたのはアントワーヌだが、交渉に来たのはリリア嬢だ。普通はあり得ん。おれたち平民の土木業者に貴族連中が仕事を依頼するときは下っ端の官史がやって来て、居丈高に紙っ切れを読み上げて金を放るだけだ。それを、リリア嬢はわざわざやって来て、おれたちになにを語ったと思う?」


「それは……」なんとなくわかる。ユウ自身、幾度となく聞いていることだろう。


「ディクルベルクの未来だよ」とロックスは笑った。「町に緑を回復させて、人を呼び、ひいては帝国の飢えを癒し、星を覆う暗雲を晴らす。そういうことを長々というんだ。おれは……」


 帽子を引いて顔を隠し、目元を拭っているようだった。


「あのとき決めたね、おれはあの人のために命を賭けるって」


 朗らかにいった。いままでの気鬱をため息とともに吐き出して、森の中に身体を預けるように、


「男なんてのはね、女のために骨を砕いて死ぬくらいのことしかできねえ生物なのさ」


 ユウは応えず、丸太を解体する木こりたちの声と姿に意識をやった。


「いっち、に、いっち、に」


 のこぎりを引いて角材にし、それを肩に担って荷車に積む。荷車に繋がれたのはアルパカに似た毛の深い生き物だった。その図体は牛よりデカいかもしれない。足もとの腐植を美味しくもなさそうに咀嚼していた。


 誰にでも等しく木漏れ日が降り注いでいる。

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