第4話 魂祓いの井戸

──建長五年、神無月二十日。

夜は重く、空には月すら浮かばなかった。


山の寺。

裏庭の奥、竹の影に佇む少年──蒼志丸の前には、小さな木箱が置かれていた。


その中に納められているのは、かつて「貞弥」と呼ばれた少年の、魂の欠片。


掌に乗るほどの青白い光は、風もないのに揺れ、何かを訴えるように脈打っていた。


蒼志丸はただ、それを見つめていた。

三日ものあいだ、彼は言葉をほとんど発していない。


その夜も、師・仁阿弥がそっと傍に立った。


「……志丸。あの子の魂は、今も道に迷っている。明夜、井戸にて祓いを行う」


「……俺が、やるのか」


「お前の右の眼が、あの子を還す道しるべとなる。開ききるか否か──それは、己が定めによる」


蒼志丸は、ゆっくりと拳を握った。

青い光がその拳に映え、指先まで染めていた。


 



 


夜更け、星も眠る刻。


寺の裏手、封じられた井戸──「青蓮の淵」にて、祓いの儀が始まった。


白布に囲まれたその地は、かつて神と人との境を結ぶ結びの場であり、陰陽師すら足を踏み入れるのをためらったという。


この地に立ったのは三人。


ひとりは、蒼志丸。

ひとりは、仁阿弥。


そしてもうひとり──


墨染の衣に身を包み、長く白い髭を垂らした老僧が、井戸の前に座していた。


名を真澄(しんちょう)。

かつて陰陽寮の奥深くに籍を置き、「神を斬る者」の傍らに仕えたと言われる、忘れられた隠者。


「……目を持つ者の目覚めに立ち会うとは、久しい」


真澄の声は、風に溶けるように小さかった。


 


仁阿弥が香を焚き、井戸の縁に白石を並べる。


蒼志丸はその中心へと進み、木箱を地に置いた。

蓋を開けると、青白い魂の欠片が、夜の闇に淡く浮かび上がった。


「心を乱すな。見えるものは幻ではない。だが、それに囚われるな」


仁阿弥の声が響いた直後──


井戸の水が逆巻くように震えた。


風もないのに、周囲の結界布がばたばたと揺れる。


そして、井戸の淵から現れたのは──


黒い影。


「……貞弥……?」


思わず声が漏れた。


影は応えない。ただ、蒼志丸の右眼をまっすぐに見つめてくる。

その視線が、胸を裂いた。


「お前は……まだ進めぬのか」


幻のような声が、確かに聞こえた気がした。


──その瞬間、右眼が灼けるように熱を帯びる。


立ち現れるのは、過ぎ去りし日々。

並んで木刀を振った朝、寺の裏で笑い合った時間、

何度も交わした、拙くも確かな言葉。


だが──最後の記憶だけは、血と影に塗れていた。


「……許せない……」


怒りとも悲しみともつかぬ熱が、胸の奥で弾けた。


「斬らねば、進めぬ……!」


小太刀を握り、一歩前へ。


眼が燃え、結界の香が爆ぜる。

刃が走り、黒き影を斬り裂いたその瞬間──


胸に走ったのは、痛みではなく、温もりだった。


すれ違った手のひら。交わしたことのない、けれど確かに届いていた願い。


影は、ひと雫の水のように崩れ、地へと還っていった。


 



 


祓いが終わり、蒼志丸はしばし立ち尽くしていた。


風が静かに吹き、竹の葉が音もなく揺れている。


仁阿弥がその肩に手を置いた。


「よく、斬ったな」


「……あれは、貞弥だったのか」


「否。あれは貞弥に似たものだ。お前の眼が呼び出した影。だが、そうまでして残ったのは、お前の迷いだ」


蒼志丸は何も言わず、ただ空を見上げた。


 


真澄がゆっくりと歩み寄り、初めて彼に言葉をかける。


「お前の右の眼は、いずれ天の座を映す。……そのとき、お前は名を継ぐことになる」


「……名?」


「蒼志命(そうし・のみこと)──神に近づき、神を斬る者の名だ」


その名は、かつて父が口にした最後の言葉でもあった。


 



 


その頃──


鶴岡八幡宮の裏参道にて。

霧の中、白蓮はひとり佇んでいた。


「……開きはじめたのね、右の眼」


赤い瞳に月を映し、彼女は扉のような影を背負って笑う。


「次に彼が奪うのは、願い。その先に、神が生まれる」


月のない夜、白蓮の影が、静かに伸びていた。

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