第3話 眩しくて遠い星
……とは言っても、侑里には絵を描き続けてほしいと望む俺の我儘は今更だけど。
侑里は大きな溜息を吐いた。
「宗佑ってほんとに……超のつくバカだよな。受験生のくせにコンクールに出すってだけで呆れるっていうのに、評価に繋がんないこんなオマケみたいなものまで作って……合格する余裕があるのか?」
「侑里には言われたくないね。俺にとっては全部、必要な制作なんだからいいんだよ」
確かに、第三者からしてみたら理解できない行動だったのかもしれないけれど。
テーマと向き合った時間は、絵筆を握った時間は、絶対に俺を裏切らないから。
「……宗佑のそういうところは、嫌いじゃないかもな」
「鬱陶しいんじゃなかったのか?」
顔を見合わせて、俺たちは笑った。
積み重ねてきた十八年間が、それぞれ違う感情を抱えて生きていた俺たちの時間が今、確実に溶け合って一つになった瞬間だった。
「なあ、侑里」
ずっと聞きたかった。だけど、聞いてしまったら侑里はどこかへ行ってしまうような漠然とした不安のせいで聞けなかったことを、今なら聞けると思った。
侑里に絵を褒められて、少しだけ胸を張れるようになった、今の俺なら。
「なんで侑里は、応募しなかったんだよ」
青い瞳に見据えられる。侑里は口元こそ余裕ぶって微笑んでいたけれど、俺の表情から何かを探ろうとせんばかりの真剣な目をしていた。
そう、柏崎侑里は、アートフェスティバルに応募しなかった。
打倒侑里を掲げて燃えていた俺がそれを知ったとき、最初に抱いた感情は怒りだった。共通テストも迫っていた最中、侑里を問い詰めようとした。
だけどすぐに、怒りは疑問に変わった。
一度「描く」と宣言した侑里が理由もなしに、俺に何も言わずに、逃げるような真似をするだろうか?
いや、しない。俺の知っている侑里なら、こういうときはきっと、何か俺の想像にも及ばない遠いところを見ているのだ。
「……描きたいものが、あったんだよ」
「アートフェスティバルより、優先するほどの?」
「ああ、そうだ」
ぶわっとした喜びが、体中を駆け巡る。
侑里が「描きたい」と思った。そして、描いた。それだけで何もかもを許すことできる。だって、こんな幸せなことってあるか?
「見たい。超見たい。描いたその絵、見せてくれよ」
「はは、めっちゃ必死じゃん。私のファンか?」
「ファンだよ! 一番のファンだ!」
断言すると、侑里は目を瞬かせたあとで俺の頭をくしゃっと撫でた。
「……まあ、今度な。それよりさ、私、卒業したら旅に出ることにしたから」
こんな爆弾発言を食らうことって、人生でもそうそうないんじゃなかろうか。
何を描いたのか気になって仕方のない俺の脳みそから、一旦すべてがフェードアウトしてしまうほどの衝撃だった。
「はあああ⁉ りゅ、留学か⁉」
「いや、ふらっとするだけ。何も考えてないけど、舞森は出る。っつーか、声でかい」
「お、お前……金は? どうやって生きていくんだ?」
「宗佑。お前は私の保護者か? 彼氏か? ……違うだろ? だったら何も言う権利はないから」
言葉を飲み込まざるを得ない一言だった。
俺は侑里にとって、なんだ? 幼馴染で、友達で、クラスメイトで、ライバルで……。
だけど、それだけだ。俺は侑里の人生に、責任を取れる立場にいない。
口を噤む俺を見て、侑里は笑みを浮かべた。
「それに、一生会えないわけじゃないだろ? 宗佑が絵を描き続ける限り、どこかでまた会える」
心臓がどきりと大きな音を鳴らした。
「それって……侑里も絵の世界で生きる、って意味でいいのか?」
「宗佑がそう決めさせたんだろ? 責任取れよな」
「……ああ! わかった!」
こっちの責任なら、俺の人生を懸けてでも絶対に取ってやる。
どうしてやる気になったのだろう。光地絵画大賞展のときも、侑里は何か理由がなければ火が点かないタイプだった。今回は……なんだ? 何がきっかけで、やる気になった?
いや……理由なんていいか。侑里の口からその宣言を聞けただけで、十分だ。
「宗佑」
名前を呼ばれて、俺より少しだけ背の低い侑里を見る。
侑里は挑発的な上目遣いで口元をニヤリとさせて、言った。
「私から目を逸らすなよ。私を超えるんだろ?」
――なんて眩しくて、遠い星なのだろう。
俺は胸の中から込み上げてくる感情を、あるいはずっとそこにあった感情をどうすればいいのかわからず、なんだか目頭が熱くなってきてしまった。
「まーた泣いた。泣き虫すぎるだろ」
「う、うるせー! 泣いてねえよ!」
「そんなに私がいなくなるのが寂しいか」
「……寂しいに決まってるだろ! どうしてお前はいつもそう、自分勝手なんだよ……!」
思わず零れてしまった本音を聞いた侑里は、茶化すように笑った。
「自分勝手か。百万回以上は言われてきた言葉だな」
そう、ずっと。俺は自分勝手で我儘で傍若無人なこいつに、振り回されてきた。
それなのに、いなくなるのが寂しくてたまらない。絵を描いてくれるのは死ぬほどうれしいのに、俺の目の届かないところに行くのだと思うと辛くて仕方がない。
ただそれは、それこそ俺自身の“自分勝手”な感情だ。
表に出して侑里を困らせたり、からかわれたりするリスクを考えたら取らないほうがいいのに、思考する余裕すらなかった。
普段の俺だったら脳みそのほうが先に働いて、絶対に取らない行動だった。
気がつけば侑里に近づいていた俺は、手を伸ばして――思わず、抱き締めていた。
真正面から思い切り包み込んだから、侑里の顔は見えない。
ただ、天才少女は腕の中に収められるとこんなにも華奢で、こんなにも温かいことを知った。十八年間も側にいたのに。
俺の腕の中で、侑里は問いかける。
「側にいろって意味か?」
「……違う。俺の寂しさをなんとかしたい身勝手と、侑里の未来に向けての激励だ」
「宗佑ならそうだろうな」
侑里は耳元で小さく息を吐いた。
「お前のハグが私への激励になると思っているなら、思い上がりじゃないか?」
「……うるさい。少し黙ってろ」
侑里は何も言わなかった。だけど、俺の背中に手を回してきた。
俺たちの間に、今までに経験したことのないような沈黙が流れる。
ロマンティックでもなく、気まずくもない。俺と侑里がずっと一緒にいたことで作り上げてきた空気感が生み出す、独特の心地よい空気だ。
だけど、俺も、侑里も。この空気から脱出して、これからは別々の道を歩いていく。
それはとても勇気と覚悟がいる行動だけど、違う世界で息を吸うことでしか見られない世界があるのなら。
俺は柏崎侑里を、笑顔で見送るしかないのだ。
幼馴染として、ライバルとして。そして……こいつの絵に惚れ込んでいるひとりのファンとして。
「宗佑」
ゆっくりと侑里の手が俺の体から離れた。後ろ髪を引かれる想いで俺も手を離すと、そのまま両手で頬をぎゅっと挟まれた。
「その目で見てろ。私の姿を、しっかりとな」
「……ああ、わかった」
侑里は俺が今までに何千回以上も見てきた不敵な笑みで、俺の目を見据えた。
「挑戦状だ。宗佑の手の届かないところに行こうとする私を、またこうやって抱き締められるくらいの距離まで近づいてきてみろよ」
こいつが俺なら“追いついてくる”と評価していることが、心の底からうれしい。俺の頬を掴む侑里の手を、その上から握った。
「侑里! 俺……ぐえっ⁉」
顎に頭突きされた俺の首がおかしなほうに曲がった。
「なにすんだよ⁉」
「調子に乗るなよ? っていう意味を込めて躾だ」
「乗ってねーよ! はあ……でもこれだけは言っておく。俺はこれからもお前をひとりにはしないからな」
手を離して痛む顎を擦っていると、侑里は思いっきり顔を背けていた。
「どうした?」
「うるさい。動くな。今私の顔を見たら殺す」
なんて横暴なんだ。だけどまあ、いつものことか……そう思った俺は、侑里の耳が赤くなっているのを見て、痛めたばかりの首を少し傾げた。
俺、そんなに恥ずかしいことを言っただろうか?
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