アルヴィア追葬記 ―白き地に、弔いの灯を―

ざっとうくじら

第1話 名もなき祈り

 世界は、今日も静かに凍っていた。

 雪はすべてを覆い隠し、銀世界となったこの場所は音も、記憶も、誰かの名前さえも飲み込んでいく。

 吹きすさぶ風は、声なき呻きのように吹き抜け、足元に残された足跡すらもすぐに白く塗り潰してしまう。



 ここは”氷墓域グラセディア

 アルヴィアが不要と判断した人々の終着地。

 魂も名も、すべて記録から消し去られ、誰の記憶にも残らないまま、ただ白い大地に埋もれていく。


 氷の大地に広がる白銀の景色は、息をのむほど美しい。けれど、その美しさの裏には冷たい残酷さがある。

 ここには、もう二度と帰らぬ者たちの祈りや嘆きが、薄氷のように降り積もっている。


 そんな土地を、私は今日も一人で歩いていた。

 黒衣に身を包み、雪に埋もれぬようにランタンの柄を杖代わりに突きながら、慎重に足を運ぶ。


 凍える風の中で、息は白く広がる。

 だけど、それさえもやがて風にかき消され、まるで私の存在もこの地に溶かしていくかのようだった。

 

 ふと、手に持ったランタンをそっと揺らす。

 チリーン――――。

 空気を震わせるような鈴の音が、小さく、遠くへ細く響くようになる。

 氷に閉ざされたこの地では、それだけでも十分すぎるほどの音だった。


 ランタンの中心に灯る炎が、ふっと揺れて、小さな灯火を新たに生み出す。

 その灯火はぽつりと前方に離れ、道を示すように白銀の中を漂い案内をする。

 それに続くように、さらにひとつ、またひとつと連鎖するように生まれていく。

 私はその灯火を追いながら”目的の人”の元へ導かれる。


 しばらく進んだ先、木々さえも周りにない真っ白な台地にそれはあった。

 私は足を止め、その場で膝をついた。

 目の前にあるのは、淡い氷の塊――ただそれだけ、と自然の一部として見過ごされてもおかしくはないほど埋もれていた。


 だがそれは違うと、私は知っている。


 氷は薄く、指先をあてればすぐに熱が伝わることから比較的最近できたのだろう。


 氷の中に居るのは人間。不要と判断されたこの人は私が見つけるまで一人、この場に残され殺されたんだろう。

 グッと氷の表面に触れる手に力が入る。早く取り掛からなければ。


――チリン



 一つランタンの音を揺らし、灯をその人に落とす。

 その刹那、炎がふわりと揺れて、足元の雪がわずかに吹き上がった。


 白銀の地の、柔らかな光の輪が広がる。

 まるで氷の上に描かれた魔法陣のように、淡く、神聖に――静かに。



 ランタンの炎が灯したのは、記録から消された魂の存在。

 炎は氷の膜を焦がすように優しく熱を伝え、内に眠る肉体を包み込み始める。


 私はその様子を見て深く息を吸い、静かに詠じる。




「名もなき魂よ。灯のもとに還れ――」


 その言葉に応えるように、氷の割れる音がした。

 ひび割れは瞬く間に広がり、淡い光となり空気と共に空へ舞い上がっていく。


 そこにあった実体は光と共に消えていくが、新たな人影が立ち上がった。

 それは、生前の姿をかろうじて保った少女だった。



 歳は私より一回りほど下。まだ元気に遊び周り、親の愛を受けて育つであろう年頃。

 その表情はあまりにも幼くて、あまりにも静かで、途方もなく悲しかった。


『………ここは、どこ…?』


 声が直接聞こえてくる。

 それを合図に感情の断片。恐れ、戸惑い、そして――願いが流れ込む。



 地面に広がった柔らかな光の環は、魂の元に収束していく。

 そしてランタンの炎もそれに共鳴して、少女の記憶を見せる。


 目の前に広がったのは、白い病室。ひとりの少女がベッドに横たわる目の前で、医者と誰かが何かを話している。

 けれど、その声は少女には届かない。視界もぼんやりとして、耳鳴りも止まないほど彼女は重症だったから。


 ただ、はっきりと聞こえてきた言葉だけが残っていた。


「この子は……もう優先できません。家族の方、同意を」


 他の誰かのために今居るベッドを、今の居場所を明け渡すらしい。

 少女の手は、震えていた。

 点滴も抜かれ、命を繋ぐ機械も止められ体も心も冷たくなっていく。


 恐ろしかった。

 死ぬことも、今の自分が消えて何者でもなくなることへ恐怖。


――待って……私は、まだ……


 口が動いたように自分では思っているが、声が出ないかった。

 誰にも届かず、周囲の人間は少女に目もくれやしない。すでに”不要”として扱っているのだ。


 誰も触れてくれない現実に、ただ静かに涙が伝った。

 


 それでも。それでも少女は、微笑んだ。

 誰かの迷惑にならないために、両親をこれ以上泣かせないために、最後まで”いい子”であろうとして。


  だからこそ――その奥に、わずかに残っていた。

 誰かを恨むのでもなく、ただ「生きたかった」という、願いの灯が。




 私はグッと柄を再度握りなおした。その思いを受け止めるように、もう一度、ランタンをそっと揺らした。


「……あなたは、ここに居た。私が覚えているから」


 灯は青色へと変わり、光の輪もその色に染まり始めて消え始める。


――青い灯は安らぎを得た魂の証だ


 少女の魂は、安らぎの光のなかで微笑んだように見えた。


『ありがとう、おねぇちゃん』


 その言葉とともに、彼女の姿は白い雪と共に光へと還っていった。



 こうして私は、今日もひとつの魂を見送った。

 だれの記憶にも残らない人の、生きた証を――確かに見届けた。







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