第11話 名前
庭園に、噴水の水音が静かに響いていた。
アスタはびしょ濡れのまま、泣きやんだ少女を見つめていた。
少女はまだ瞳を潤ませながら、ときどき小さくしゃくり上げている。
しばらくの沈黙が続いた。
噴水のきらめきが、二人の間をゆらゆらと隔てるように揺れていた。
やがて、アスタがぽつりと言った。
「……あのさ。ぼくは、アスタ。アスタリウス・レーヴァンタール。」
少女がぱちりと瞬きをした。
「アスタリウス……レーヴァンタール……?」
アスタは少し照れくさそうに頭をかいた。
「領都から来たんだ。レーヴァンタール公爵家の跡継ぎ、だってさ。
……めんどくさいけど。」
少女の瞳が驚きに見開かれる。
「レーヴァンタール……!!」
アスタは目をぱちくりさせた。
「そんなに驚くこと?」
少女は息を呑むように言った。
「だって……レーヴァンタール公爵家は、王族の次に偉いんだよ。
この国をずっと支えてきた、英雄の家系……。」
アスタは苦笑した。
「英雄とか、よくわかんないし。剣より外で遊んでる方が楽しいんだ。」
少女はしばらくアスタを見つめ、それから小さく息を吐いた。
「……そっか。」
再び、噴水の音だけが二人の間に満ちた。
アスタは、少女の横顔を見つめながら、そっと言った。
「……ねえ。さっき、どうして泣いてたの?」
少女は顔を伏せたまま、少し肩を震わせた。
「いろんなことが……うまくいかないの。」
アスタは眉をひそめた。
「どんなこと?」
少女は噴水の水面を見つめ、それからぽつりと言った。
「お母さまのことも……お城のことも。
わたし、何もできないのに、全部知っていなきゃいけないの。」
アスタはじっと聞き入っていた。
少女は声を震わせながら続けた。
「お母さまがずっと寝込んでるの。
前は笑ってたのに、いまは……目を開けるのもつらそうで。」
アスタは少し息を詰めた。
「……そっか。」
少女は噴水の水面を見つめたまま、小さな声で言った。
「お父さまは強いけど、お城のことばかりで……
わたしが泣いてても、誰も気づかないの。」
アスタは黙ったまま木剣を持ち直した。
「……こわいんだ。」
少女が絞るように言った。
「もし、お母さまがこのまま良くならなかったら……
もし、この国がどこかと戦いになったら……」
アスタは少女を見つめた。
「……ぼくも、ときどき怖くなるよ。」
少女が顔を上げる。
「アスタも?」
「うん。お母さんが寝込んだり、父さんがいなくなるときとか。
夜、暗い部屋でひとりだと、怖いって思うことあるよ。」
少女の紅い瞳が、かすかに揺れた。
「……そうなの?」
「でもさ、外に出て風にあたったり、光を見てると……
少し平気になるんだ。」
少女は、そっとアスタを見つめた。
アスタは少し照れたように笑った。
「……変かな。」
少女はかすかに首を横に振った。
「変じゃないよ。」
短い沈黙が落ちた。
噴水の水しぶきが陽に輝いていた。
やがて、少女が小さな声でつぶやいた。
「……わたしね、物語の英雄が好きなの。」
アスタがきょとんとする。
「英雄?」
少女はうつむきながら、ぽつりと続けた。
「剣を振って、国を守って、みんなを笑顔にしてくれる人。
その人がいるだけで、大丈夫だって思えるの。
……わたし、そういう人が好きなの。」
その声はかすかに震えていたけれど、どこか遠くを見ているようだった。
アスタはその横顔を見つめた。
少女は少し息を整え、噴水の水音を聞きながら、小さく言った。
「……ステラ。ステラ・リュシア・アルトレイン。」
アスタは目を見開いた。
「アルトレイン……!? それって……!」
少女――ステラは、涙を滲ませたまま、かすかに笑みを浮かべた。
「……わたし、王女なの。」
風が、庭園を静かに吹き抜けた。
アスタはびしょ濡れのまま、ただその場に立ち尽くしていた。
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