七月二十六日(土):幽霊の日

 これは、今から数年前、田代美紀が実際に体験した、忘れられない出来事です。彼女が舞台制作会社で働き始めてすぐの頃の話……。あの、背筋が凍るような記憶は、今でも美紀の脳裏に焼き付いて離れません。

 今年の夏、美紀が任された仕事は、これまでのどんな仕事よりも、ずっしりと、重くのしかかるようなものでした。

「今年の新作はね、あの『四谷怪談』の現代版。しかも、よりによって七月二十六日、初演日に合わせるんだ」

 上司からそう告げられたとき、美紀は正直、血の気が引く思いでしたよ。


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 七月二十六日

 この日が『幽霊の日』だなんてことは、私たち舞台の人間なら、誰もが知っている忌まわしい日です。そして、迷信深い役者さんたちほど、この日を心底から嫌います。なんでも、歴史上初めて『四谷怪談』が初演された日がこの日だそうで、以来「その日には必ず“客席に出る”」と、古参の役者さんたちは真っ青な顔で口を揃えて言うんです。

 でも、上司はそんなこと、まるで気にも留めていない様子で、嘲笑うかのように言いました。

「宣伝になるだろ? 幽霊の日に『四谷怪談』なんて、これ以上ない最高の話題性じゃないか!」

「……そうかもしれませんが……」

「もし本当に幽霊が出るなら、それはむしろ最高の演出さ。最高の見世物になるだろうね」

 美紀は背筋に冷たいものが這い上がるような、言いようのない嫌な予感に襲われましたが、彼女に選択肢はありませんでした。ひたすら稽古を進め、舞台を仕上げ、来るべき七月二十六日を迎えるしかなかったのです。まるで、定められた運命に引きずり込まれるように……。


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 稽古が続く中、舞台裏では本当に、奇妙なことが立て続けに起こり始めました。

 衣裳係が「いつもはちゃんと畳んでしまう反物が、なぜかびしょ濡れになっていた」と顔を青くしたり、舞台監督が「暗い袖に、ふと白い影が立っているのが見えた」と震える声で訴えたり。

 そして、主演を務める沙耶さんは、休憩のたびに客席の奥をじっと見つめ、何度も深く、深くため息をついていたんです。

「どうしたの?」と美紀が声をかけると、沙耶さんは、まるで恐ろしい秘密を打ち明けるかのように、美紀にしか聞こえないほどの小さな声で答えました。

「……もう、いるのよ」

「……え?」

「客席の中央、二列目。ずっと、そこに座ってるの」

美紀が慌てて振り返っても、暗いホールの中央に人影など、どこにも見えません。もちろん、稽古中に客席に誰かいるはずもありませんから。

 ですが、沙耶さんは、まるでそこにいるのが当然だと言わんばかりに、その視線を一点に固定したまま続けました。

「白い着物の女。こっちを見ながら、薄気味悪く、笑ってる」

 ゾクリ、と。美紀の背筋が冷たくなり、総毛立つような感覚に襲われました。それでも美紀は「気のせいだ」と、なんとか自分に言い聞かせようとしました。その場から逃げ出したくなる衝動を必死で抑えながら。


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 そして、いよいよ七月二十六日、初演の夜。

 会場は、観客の期待がむっとした熱気となって漂い、すでに満席です。舞台裏は、いつもとは違う張り詰めた、異様な静けさに包まれ、誰もが言葉少なに、ただ己の出番を待っていました。

 幕が開くと、舞台は順調に進みました。沙耶さんが演じるお岩の表情は、回を追うごとに凄みを増し、客席からは観客が息を呑む、その生々しい音が聞こえるほどでした。


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 お岩が積年の恨みをぶちまけ、長く乱れた黒髪を振り乱して舞台中央に立つ、まさにその場面。沙耶さんが、声を震わせながらセリフを放ちます。

「……この恨み、晴らさずにおくものか!」

 その、まさにその瞬間でした。

 客席の奥から、誰もいないはずの場所から、かすかに、しかしはっきりと、奇妙な笑い声が聞こえたのです。

誰のものでもない、冷たく、そしてどこか湿った、女の、ぞっとするような笑い声。

 舞台の上の沙耶さんも、その声のする方向を向いて、ぴたりと動きを止めました。

 客席の中央、二列目。

 そこに、白い着物を着て黒髪を垂らした女が、確かに、座っていたのです。頭を少し傾けて、口元には薄い笑みを浮かべて……。

 沙耶さんは、その視線に耐えきれなかったのでしょう。次の瞬間、糸が切れたかのように、バタリと舞台に崩れ落ちました。

 舞台は中断され、客席は騒然となりました。美紀が沙耶さんに駆け寄ると、彼女は青ざめた顔で震えながら、美紀の耳元に、ほとんど息も絶え絶えにささやきました。

「……見たでしょ……客席に……あそこに……」

 美紀は思わず、沙耶さんの視線の先を追うように振り返りました。


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 客席の中央、二列目――。

 そこには、白い着物の女がまだ、そこに座っていました。顔を上げ、こちらをじっと見つめながら、ゆっくりと手を膝の上に置いたかと思うと、にこりと笑い、そのまま首をコクン、と、まるで人形のように傾けたのです。

 その仕草に、美紀はどこか奇妙な既視感を覚えました。何かが、頭の奥で繋がろうとしているような不穏な感覚。ですが、その瞬間、場内の照明が一斉に、ぶつりと落ちました。真っ暗な中、観客たちのざわめきだけが、不気味なほど大きく響き渡ります。

 スタッフが必死で復旧作業にあたり、ほんの数十秒後に明かりが戻った時――。

 客席の中央二列目に座っていたはずの女は、どこにもいませんでした。

 しかし、そこに座っていた観客の男性が、首を傾けたまま、すでに絶命していたのです。

そして、その男性の膝の上には、白い反物のようなものが、そっと、まるで最初からそこにあったかのように置かれていました。


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 終演後、劇場の掃除をしていた清掃員が、美紀に声をかけてきました。

「あの席、いつも不気味なんですよ。特に、七月二十六日の夜だけはね」

「え?」

「中央二列目は幽霊の日の夜だけ、誰が座っても、必ず首を傾けて動かなくなるんです。まるで、何かに取り憑かれたようにね」

 美紀は、呆然と立ち尽くしました。頭の中が真っ白になりながらも、ある確信が芽生え始めていました。

 ふと、暗い客席を見上げると、中央二列目には、まだ濡れたように光る白い着物の女が座っているのが見えました。じっとこちらを見て、にこりと笑い、首をかしげています。

 あの笑いが何を意味するのか、美紀にはまだ、はっきりとは分かりません。

 ですが、一つだけ、美紀が確信していることがあります。

 七月二十六日の夜、この劇場で、あの席が空席になることは、決して、ないのだと。

 そして、来年もまた、あの席は用意されるでしょう。

誰かが座り、あの女が、その誰かを、不気味な笑みで迎えるために。

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