七月二十四日(木):処方薬
これは大学病院の薬剤部に勤める三宅優子が体験した話だ。彼女は、周囲から仕事熱心で評判の薬剤師だ。三十歳を目前に控える彼女は、患者に寄り添い、どんなに多忙な日でも決して不機嫌な顔を見せない、まさに職人気質といった女性だった。その日も、彼女は夜間の当番で、深夜零時近くまで調剤室に詰めていた。
━━━━━━━刻━━━━━━━
「やれやれ、これで最後か……」
深夜に舞い込んだ入院患者からの急な処方箋。抗生剤を調剤し終えようとした、その時だった。
――カタン。
背後、薬棚の方で、乾いた音がした。薬瓶が一つ、転がったような音だ。
調剤室には、優子のほかに誰もいない。薬局の職員はみな退勤し、病院内には当直医と、一部の看護師が病棟に詰めているだけだ。
「……風、かな」
優子はそう呟き、気のせいだと自分に言い聞かせ、再び作業に没頭した。だが、それから間もなく、また——
――カタ…カタカタカタ…ッ。
今度は別の棚で、何本もの薬瓶が、がたがたと震えるように揺れた。優子は思わず振り向いた。だが、もちろん、そこには誰の姿もない。
(……地震?)
そう思ったものの、足元の床も、周囲の壁も、不自然なほど静寂を保っていた。念のためスマホで地震速報を確認するが、何の情報もない。
言いようのない不安に胸騒ぎを覚えながらも、優子は抗生剤を届けに病棟へ向かおうとした。その時、薬棚の一番上の引き出しが——
ガタッ……!
と、音を立てて勝手に開いたのだ。
引き出しの奥には、古びた茶色い小瓶が一つ、ひっそりと転がっていた。黄ばんだラベルの文字はほとんどかすれて読み取れず、辛うじて手書きの「服用注意」という四文字だけが、墨で書かれたように黒く浮かび上がっていた。
(なんだ、これ……?こんな薬、うちの薬剤リストにあっただろうか……)
不思議に思い、その小瓶を指先でそっと持ち上げた、その瞬間だった。優子のすぐ耳元で、冷たい女の声が響いた。
『それは、わたしの薬。返して』
心臓が凍りつきそうになり、優子は慌ててその小瓶を元に戻そうとした。だが、どこが元の場所なのか分からない。とりあえず、開いたままの引き出しに乱暴に押し込んだ。
その夜は気味が悪くて仕方なかったが、優子は努めて何事もなかったかのように振る舞い、当直を終えた。
━━━━━━━刻━━━━━━━
だが、翌朝。出勤すると、病院全体が、昨夜とは異なる、異様な空気に包まれているのを感じた。エレベーターの前で顔を合わせた看護師が、憔悴しきった顔で、小声で言った。
「……三宅さん、知ってる?昨夜、〇号室の患者さんが急変して……亡くなったのよ」
〇号室の患者は、優子が昨夜最後に調剤した抗生剤を届ける予定だった、まだ三十代の男性だった。
(私が届けたのは、抗生剤だけのはずだ。関係あるはずがない……!)
優子は自分に言い聞かせた。しかし、どうしても胸騒ぎが止まらない。
念のため、昨夜の調剤記録を確認しようと、処方記録システムを開いた。だが、そこに表示された内容に、優子は思わず目を疑った。
『服用注意薬 投与』
見覚えのない、あの茶色い小瓶の薬が、患者に投与されたことになっているのだ。
優子は、愕然とした。そんな薬、私は調剤していない。いや、調剤したはずがない……!
優子は、半ばパニック状態で調剤室の奥にある薬品倉庫へ急ぎ、昨夜の棚を確認した。――あの茶色い小瓶は、跡形もなく消えていた。
━━━━━━━刻━━━━━━━
そして、先ほど小瓶を押し込んだ、棚の引き出しの裏に、一枚の古びたメモが貼り付けられているのを見つけたのだ。
『この薬を人に渡した者は、次に服用する番となる』
優子の全身の血の気が引き、背筋が凍りついた。
まるで、優子がそのメモを読んだのを見計らったかのように、再びあの冷たい声が、すぐ耳元で響いた。
『次は、あなた』
優子は、恐怖に震えながら思わず振り返った。薄暗い調剤室の隅に、人影があった。白衣姿の女だ。顔は黒く長い髪で隠され、表情は伺えない。しかし、ただこちらを、じっと見据えているような、底知れぬ気配だけが伝わってきた。
「……だ、誰なの……!?」
女は何も答えない。ただゆっくりと、骨張った白い手を伸ばした。その冷たい指先が、優子の胸元に触れた、その瞬間、ズシリ、と、喉元に重く、硬い異物感が走った。
ゴホッ……ゴホッ……!
優子の口から、乾いた音と共に、小さな茶色い錠剤がいくつも転がり落ちた。それは、間違いなく、あの茶色い小瓶に入っていた薬と、まったく同じものだったのだ。
優子は、そのまま意識を失い、冷たい床に倒れ込んだ。
━━━━━━━刻━━━━━━━
後日、病院の上層部は、優子が調剤室で倒れた件を「過労による失神」と説明した。
しかし、病院内には、ある奇妙な噂が広まったという。
優子が搬送された後、例の茶色い小瓶が、調剤室の引き出しの中から、再び見つかったというのだ。
そして、その小瓶のラベルには、以前とは異なる文字が、まるで意思を持つかのように、はっきりと書き換えられていたという。
『次の服用者を待つ』
今もあの病院の薬棚のどこかで、その小瓶は、ひっそりと誰かの手に取られるのを、じっと待っているという。
その薬を渡してしまえば、自分が次の服用者となる運命を背負うとも知らずに……。
あなたも、もし病院で薬を受け取ることがあれば、そのラベルを、くれぐれもよく確認したほうがいい。
もし「服用注意」とだけ書かれた茶色い小瓶が、あなたの手元にあったなら、それは……
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