七月十五日(火):終バス

 夜の蒸し暑さがじっとりと街を覆い、アスファルトの熱気がまだ残っていた。ねとつくような湿気が肌に不快に絡みつき、遠くで救急車のサイレンが微かに、しかし耳障りに響いていた。

 三上理央(29)は、残業を終えて駅に着いたとき、時計の針はすでに午後11時を過ぎていた。タクシー乗り場の長い列を見て、諦めてバス停へ向かう。まだ終バスには間に合うはずだ、と自分に言い聞かせた。

 駅前ロータリーの端にあるバス停には、数人の人影がまばらに並んでいた。理央の前には、疲れた様子のスーツ姿のサラリーマン、俯きがちな学生、そして大きな荷物を持った主婦の三人。それぞれがただ、じっとバスの到着を待っていた。

 蒸し暑い空気の中、理央はイヤホンを耳に差し、スマホを眺めながらその列に加わった。ふと、違和感が脳裏をよぎる。

(…今日は、やけに人が少ないな…)

 いつもなら終バスの時間ともなれば、もっと多くの人がいるはずなのに。しかし、疲労からか、その微かな疑問はすぐに意識の隅へと追いやられてしまった。

 異様に明るいヘッドライトを煌めかせながら、終バスが不自然なほど無音で、ロータリーに入ってくる。まるで、路面を滑る幽霊船のようだった。


━━━━━━━刻━━━━━━━

 

「終点、○○車庫まで」

 低く、しかし確かな声で告げる運転手の姿に、理央は張り詰めていた気を緩め、安堵の息をつきかけた。乗客たちが一人ずつ乗り込み、理央もカードをかざしてバスに乗った。

 冷房の効いた車内に身を置くと、張り詰めていた身体から、ようやく安堵の息が漏れた。理央は、真ん中あたりの空席に、疲れた体を沈めた。その瞬間、シートの冷たさが肌に張り付くような感覚に襲われた。

 バスは滑り出すように走り出し、街の明かりが少しずつ遠ざかる。外の景色は、まるで一枚の絵のように、急速に現実感を失っていく。

 最初の停留所でサラリーマンが、疲れた背中を丸めて降りていった。彼の背中には、まるで何かに急かされているかのような焦燥感が漂っていた。次に主婦が、慣れた様子で足早に姿を消す。彼女の足音は、なぜか異常に軽く、地面に吸い込まれるようだった。そして、学生もまた、ヘッドホンをつけたままするりと降りていった。彼の顔は、まるで感情が抜け落ちたかのように無表情だった。誰もが、当たり前のように自分の目的地へ向かう。しかし、その当たり前の光景が、理央の目にはどこか遠いもののように映り始めていた。まるで、自分だけが置き去りにされたかのように。

 気がつくと、車内に残されたのは、理央ただ一人だった。シンと静まり返った空間に、自分の呼吸音だけがやけに大きく響く。肌を撫でる冷房の風が、いつの間にか、背筋を凍らせるような底冷えする冷気に変わっていた。全身の産毛が逆立つほどの悪寒が、理央の身体を貫く。


━━━━━━━刻━━━━━━━

 

 窓の外はすっかり暗く、見覚えのない道を走っている。街灯はまばらになり、左右には黒い木々が生い茂る。それらは、闇の中でうごめく巨大な影のようだった。バスはまるで山道のような坂を、ゆっくりと、まるで獲物を追い詰めるかのように、しかし着実に上っていく。タイヤの軋む音が、理央の鼓膜を不気味に震わせた。

(……こんな道、あったか……? いや、ない……絶対に……)

 ふと、前方を見やった理央の視界に飛び込んできたのは、無人の運転席だった。まさか、そんな馬鹿な。心臓が激しく跳ね上がり、呼吸が止まる。冷や汗が背中を伝い、服にまとわりつく。なのに、バスは、意志を持ったかのように加速していく。ハンドルは誰にも触れられず、だが、まるで生きているかのように滑らかに動いていた。

 アクセルの鈍い唸りも、微かなブレーキの振動も、まるで生きた人間が操作しているかのように、異常なほど正確だった。その精度の高さが、かえって得体の知れない恐怖を掻き立てる。理央は座席に爪を立てるほどしがみつき、冷たい汗が背中を伝うのを、もう止める術もなかった。身体の震えが止まらない。

 外の景色はさらに深い闇に沈み込み、街灯の届かない木々の間から、得体の知れない『何か』が、理央の乗るバスと並走するように、蠢いているのが見えた。それは、人影のようでもあり、しかし、人の形を歪ませたような、おぞましい幻のようにも思えた。その『何か』は、理央の視線を確かに捉え、闇の中から無数の瞳でこちらを覗いているかのようだった。

 車内の空気が、急激に冷え込んだ。その冷たさは、外の闇が直接流れ込んできたかのようだ。いつしか理央の瞼は鉛のように重く垂れ下がり、抗いがたい眠気が、脳の奥深くから、じわじわと意識を蝕んでいく。それは、ただの睡魔ではなかった。全身の力が抜け落ち、意識が暗闇の底へと、ゆっくりと、しかし確実に沈んでいくのを感じた。抗おうにも、指一本動かすこともできない。ただ、その冷たい暗闇に身を委ねるしかなかった。

 ——バスは、それでも走り続けていた。闇を切り裂くように、誰もいない運転席を晒したまま。どこへ向かうのか、理央には、そして誰にも、知る由はなかった。バスの唸り声だけが、虚空に響いていた。


━━━━━━━刻━━━━━━━

  

 翌朝、山中の林道で、一台のバスが発見された。車内に乗客の姿はなく、運転席には、まるでバスの一部と化したかのように、虚ろな目をした理央が、ハンドルを握りしめたまま座っていたという。その表情は、感情を一切失ったかのように、ただ、無であった。彼の瞳には、深い闇の淵が広がっているようだった。

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