第5話『赤い月夜、白い寝台』
この世界の夜は、静かすぎる。
風が音を立てずに吹き抜け、虫も鳥も眠っているように沈黙していて、まるで砂漠そのものが“心音”を止めているかのようだった。
それでも私は、息をしていた。
ただ――
その呼吸が、だんだんと浅くなっている。
なぜならいま、私は“その部屋”の前に立っていたからだ。
扉は開かれていた。
銀と白の布が風に揺れる中、部屋の奥には大きな寝台がひとつ。月光が差し込み、白いシーツの上を淡く照らしている。
そこは、ルディアの寝室だった。
◇
「今夜は、あなたに“義務”を果たしてもらうわ。」
ルディアはそう言った。
「義務……?」
「ええ。“契約者”として、最初の一夜を過ごすこと。それがこの宮殿の決まりなの。」
「……何それ……」
意味がわからなかった。でも、それ以上に――嫌な予感が、背筋を這い上がった。
ルディアの表情は変わらなかった。笑っているような、嘲っているような、見下しているような。
でも、はっきりわかっていたのは――
その目に、私だけが映っていたということだった。
「さ、入って」
ルディアが手招くように首を傾けた。
髪がさらりと揺れて、細い鎖骨にかかる。
逃げられない。いや、逃げようとも思っていない。
私は、もう選んだのだ。
この世界で、“奪う覚悟”を。
だったらこの部屋の中も、その“覚悟の一部”なんだ。
私は無言で部屋に足を踏み入れた。
◇
ルディアの寝室は、白い布と香の香りに包まれていた。
甘いのに冷たい。舌先で触れたら痛むような、鋭くて繊細な香り。
砂糖と灰を混ぜたような――香炉から立ち上る煙が、赤い月光の中でゆらゆらと揺れていた。
「腰を下ろして」
ルディアが私の手を取って、寝台の端に座らせる。
私はうなずくしかできなかった。
だって、近すぎたから。
肌と肌が、布越しでも触れそうな距離。
ルディアの髪が私の肩にかかって、香りが鼻腔をくすぐって、目を閉じれば、あの日の血の匂いと混ざって胸の奥を掻き回した。
「あなたの身体にはもう、“砂の呪印”が刻まれている」
ルディアが、私の首筋に指を添える。
ひ、と小さな声が漏れた。
その指先は氷のように冷たかったけれど、触れられた場所から、火がついたように熱が広がった。
「それは、あなたの欲望のかたち。契約の証でもあり、あなたが“愛を奪う”ための器でもある」
「欲望……」
「ええ。愛されたいと叫ぶあなたの魂が、肉体を通して刻まれた紋様。今夜、それを目覚めさせる」
「目覚め……?」
私は首をすくめ、視線を逸らした。
だけど、体は反応していた。
ルディアの指が滑るたび、腕に、肩に、胸元に、赤い熱が走る。
「動悸がしているわね」
ルディアがくすりと笑う。
「これが呪印の疼きよ。契約を交わした者は、最初の一夜を超えなければ“力”を持てない」
「……痛いの?」
「それはあなた次第」
その言葉が、ぞくりと背中を走った。
◇
「あなたは、愛されたいのでしょう?」
ルディアが私の顎をそっと持ち上げる。
目と目が合った。
私は、逃げられなかった。
だって、その瞳の奥に――私の弱さが、全部映っていたから。
「なら、甘えなさい。泣きなさい。叫びなさい。あなただけの感情を、この部屋で晒しなさい」
「……!」
「それが、あなたの呪印を完成させる“儀式”なの」
私は、たまらず言葉を吐き出した。
「……私、何をされるの……?」
「愛を教えるわ。奪われてきたあなたに。私の“ぬくもり”で」
その瞬間、私は――
逃げようとした。
でも、体が動かなかった。
ルディアが私の背中に回って、耳元で囁いた。
「怖い?」
「……怖い」
「いいわ。怖がって。怯えて。震えて」
「……っ」
「でも、絶対に忘れないで」
ルディアが、私の肩に顔を寄せる。
「あなたがこの夜を超えれば、もう誰にも奪われなくなる」
その言葉は、毒だった。
甘くて、危険で、でも私の奥底を貫いた。
◇
ベッドに倒れたとき、私は何も言えなかった。
布の柔らかさより、ルディアの指先の動きより、もっと鋭く疼いていたのは――体の奥で光る呪印だった。
まるで、心臓がそこに移動したみたいに、ずっと、ずっと、脈打っていた。
「欲しい?」
ルディアが言った。
「愛されたいって、叫びたい?」
その瞬間、私は涙が溢れてきた。
「ああ……」
止まらなかった。
「欲しいよ……わかってるよ……」
声が、出てしまった。
「私、ずっと……誰かに、抱きしめられたくて……でも誰にも触ってもらえなくて……!」
嗚咽が、喉をふさいだ。
ルディアがそっと、私の胸に触れた。
「そう。それが、あなたの本音」
「……!」
「あなたは、愛を奪いたい。でも本当は、奪われたいほど、愛されたい」
「っ……!」
「それでいいの。何も恥じることなんてないわ」
その声に、私はとうとう崩れた。
ルディアに抱きしめられて、シーツの中で泣き続けた。
その胸元から香る、灰のような香と、肌の温度。
血で契られた“契約”よりも、ずっと熱くて、優しかった。
◇
気づけば、月が沈みかけていた。
赤い空に、白い布が揺れている。
私はルディアの腕の中で、震える指先を握っていた。
「どう?」
ルディアが囁く。
「呪印は、疼いている?」
私はそっと自分の手を見る。
赤い紋様が、ゆっくりと広がっていた。
それはまるで、私の“欲”そのものが、体を覆い始めているようだった。
「……うん」
「それでいいの。あなたは今夜、愛の器になった」
「……器……」
「欲しがって。奪って。愛されて。壊れるまで求めなさい」
ルディアのその声に、私は――
静かに、頷いた。
「わたし……もう、戻らない」
「ええ。戻れないのよ」
その声は、砂のように乾いて、でもどこかであたたかかった。
◇
赤い月が沈んで、夜が明ける。
その寝台の上で、私はもう“前の私”じゃなかった。
あの部屋の床で、血に染まっていた女は、いま――
ここで、赤い紋様を抱いて、生まれ変わった。
私が欲しかったのは、ただひとつ。
「……愛だけだよ」
その言葉が、まだ温もりの残る白い寝台に、静かに残された。
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