第5話『赤い月夜、白い寝台』

この世界の夜は、静かすぎる。


風が音を立てずに吹き抜け、虫も鳥も眠っているように沈黙していて、まるで砂漠そのものが“心音”を止めているかのようだった。


それでも私は、息をしていた。


ただ――

その呼吸が、だんだんと浅くなっている。


なぜならいま、私は“その部屋”の前に立っていたからだ。


扉は開かれていた。


銀と白の布が風に揺れる中、部屋の奥には大きな寝台がひとつ。月光が差し込み、白いシーツの上を淡く照らしている。


そこは、ルディアの寝室だった。



「今夜は、あなたに“義務”を果たしてもらうわ。」


ルディアはそう言った。


「義務……?」


「ええ。“契約者”として、最初の一夜を過ごすこと。それがこの宮殿の決まりなの。」


「……何それ……」


意味がわからなかった。でも、それ以上に――嫌な予感が、背筋を這い上がった。


ルディアの表情は変わらなかった。笑っているような、嘲っているような、見下しているような。


でも、はっきりわかっていたのは――

その目に、私だけが映っていたということだった。


「さ、入って」


ルディアが手招くように首を傾けた。

髪がさらりと揺れて、細い鎖骨にかかる。


逃げられない。いや、逃げようとも思っていない。

私は、もう選んだのだ。

この世界で、“奪う覚悟”を。


だったらこの部屋の中も、その“覚悟の一部”なんだ。


私は無言で部屋に足を踏み入れた。



ルディアの寝室は、白い布と香の香りに包まれていた。


甘いのに冷たい。舌先で触れたら痛むような、鋭くて繊細な香り。


砂糖と灰を混ぜたような――香炉から立ち上る煙が、赤い月光の中でゆらゆらと揺れていた。


「腰を下ろして」


ルディアが私の手を取って、寝台の端に座らせる。


私はうなずくしかできなかった。


だって、近すぎたから。

肌と肌が、布越しでも触れそうな距離。

ルディアの髪が私の肩にかかって、香りが鼻腔をくすぐって、目を閉じれば、あの日の血の匂いと混ざって胸の奥を掻き回した。


「あなたの身体にはもう、“砂の呪印”が刻まれている」


ルディアが、私の首筋に指を添える。


ひ、と小さな声が漏れた。

その指先は氷のように冷たかったけれど、触れられた場所から、火がついたように熱が広がった。


「それは、あなたの欲望のかたち。契約の証でもあり、あなたが“愛を奪う”ための器でもある」


「欲望……」


「ええ。愛されたいと叫ぶあなたの魂が、肉体を通して刻まれた紋様。今夜、それを目覚めさせる」


「目覚め……?」


私は首をすくめ、視線を逸らした。


だけど、体は反応していた。


ルディアの指が滑るたび、腕に、肩に、胸元に、赤い熱が走る。


「動悸がしているわね」


ルディアがくすりと笑う。


「これが呪印の疼きよ。契約を交わした者は、最初の一夜を超えなければ“力”を持てない」


「……痛いの?」


「それはあなた次第」


その言葉が、ぞくりと背中を走った。



「あなたは、愛されたいのでしょう?」


ルディアが私の顎をそっと持ち上げる。

目と目が合った。


私は、逃げられなかった。

だって、その瞳の奥に――私の弱さが、全部映っていたから。


「なら、甘えなさい。泣きなさい。叫びなさい。あなただけの感情を、この部屋で晒しなさい」


「……!」


「それが、あなたの呪印を完成させる“儀式”なの」


私は、たまらず言葉を吐き出した。


「……私、何をされるの……?」


「愛を教えるわ。奪われてきたあなたに。私の“ぬくもり”で」


その瞬間、私は――


逃げようとした。


でも、体が動かなかった。


ルディアが私の背中に回って、耳元で囁いた。


「怖い?」


「……怖い」


「いいわ。怖がって。怯えて。震えて」


「……っ」


「でも、絶対に忘れないで」


ルディアが、私の肩に顔を寄せる。


「あなたがこの夜を超えれば、もう誰にも奪われなくなる」


その言葉は、毒だった。


甘くて、危険で、でも私の奥底を貫いた。



ベッドに倒れたとき、私は何も言えなかった。


布の柔らかさより、ルディアの指先の動きより、もっと鋭く疼いていたのは――体の奥で光る呪印だった。


まるで、心臓がそこに移動したみたいに、ずっと、ずっと、脈打っていた。


「欲しい?」


ルディアが言った。


「愛されたいって、叫びたい?」


その瞬間、私は涙が溢れてきた。


「ああ……」


止まらなかった。


「欲しいよ……わかってるよ……」


声が、出てしまった。


「私、ずっと……誰かに、抱きしめられたくて……でも誰にも触ってもらえなくて……!」


嗚咽が、喉をふさいだ。


ルディアがそっと、私の胸に触れた。


「そう。それが、あなたの本音」


「……!」


「あなたは、愛を奪いたい。でも本当は、奪われたいほど、愛されたい」


「っ……!」


「それでいいの。何も恥じることなんてないわ」


その声に、私はとうとう崩れた。


ルディアに抱きしめられて、シーツの中で泣き続けた。


その胸元から香る、灰のような香と、肌の温度。


血で契られた“契約”よりも、ずっと熱くて、優しかった。



気づけば、月が沈みかけていた。


赤い空に、白い布が揺れている。


私はルディアの腕の中で、震える指先を握っていた。


「どう?」


ルディアが囁く。


「呪印は、疼いている?」


私はそっと自分の手を見る。


赤い紋様が、ゆっくりと広がっていた。


それはまるで、私の“欲”そのものが、体を覆い始めているようだった。


「……うん」


「それでいいの。あなたは今夜、愛の器になった」


「……器……」


「欲しがって。奪って。愛されて。壊れるまで求めなさい」


ルディアのその声に、私は――


静かに、頷いた。


「わたし……もう、戻らない」


「ええ。戻れないのよ」


その声は、砂のように乾いて、でもどこかであたたかかった。



赤い月が沈んで、夜が明ける。


その寝台の上で、私はもう“前の私”じゃなかった。


あの部屋の床で、血に染まっていた女は、いま――

ここで、赤い紋様を抱いて、生まれ変わった。


私が欲しかったのは、ただひとつ。


「……愛だけだよ」


その言葉が、まだ温もりの残る白い寝台に、静かに残された。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る