『砂の宮殿で愛は泣く――浮気相手にめった刺しにされて死んだ私が愛を奪う覚悟を試される異世界転生物語』

常陸之介寛浩◆本能寺から始める信長との天

『砂の宮殿で愛は泣く――浮気相手にめった刺しにされて死んだ私が愛を奪う覚悟を試される異世界転生物語』

「愛されたいだけだったのに」


それが、私がこの世で残した最後の言葉だった。



彼の誕生日だった。二十六歳の私にとって、三年付き合った彼は結婚を意識する唯一の相手で、彼も「そろそろ考えようか」なんて照れくさそうに言ってくれた。だから私は、その日を特別な日にしたくて、小さなケーキと彼の好きな辛口の白ワインを持って、合鍵で彼の部屋へ入った。


部屋はほんのりと柔軟剤と彼の香水の匂いが混じっていて、まるで「おかえり」と迎え入れてくれているようだった。冷蔵庫にケーキをしまい、スマホを確認すると「今日は残業で遅くなるかも」というメッセージが届いていたけれど、そんなの全然気にならなかった。彼が頑張って働いていることが嬉しかったし、帰ってきたら「お疲れ様」と抱きしめてあげるんだと、部屋で座って待つ私の胸は幸せでいっぱいだった。


でもその幸せは、あまりにも呆気なく砕け散った。


深夜になって開いたドアからは、彼ともう一人の女が笑いながら入ってきた。


「やだー、ここ、あんたの部屋? 狭くて可愛いじゃん」


若い女の声がした。高く、甘ったるくて耳に障る声だった。女は彼のジャケットにしがみつきながら笑っていた。私は玄関脇の死角から見つからないように固まっていたが、女の笑い声で全身が震えていた。


「大丈夫だって、すぐ帰るから」


彼の声。私の知っている優しい声だったはずなのに、私に向けられることはなく、女を安心させるためだけの音だった。


「ねぇ、早く、キスして」


女が背伸びをして彼に口付けを迫るのが見えた。私の視界がぐらりと揺れ、頭の奥で何かが割れる音がした。


バカみたいだ。私はこの部屋で、あなたを待っていたのに。


次の瞬間、私の立てた物音で二人の視線がこちらを向いた。


女が目を見開き、彼が息を呑んだ。


「……は?」


女の目が私を射抜いた瞬間、その表情が醜く歪んだ。


「誰よ、こいつ」


彼が口をパクパクと動かしたが、言葉は出なかった。私の視線が彼にぶつかると、彼は私を見ずに視線を逸らした。


「なんで、なんであんたがいるのよ! あんたがいるから、この人が私を選んでくれないんじゃない!」


女の声が部屋に響いた。私の胸の奥で何かが潰れ、崩れていった。


「選んでくれないのは、あんたがいるからなんだよ!」


女が台所へ走り、包丁を引き抜く様子がスローモーションで見えた。私は体を動かせなかった。頭が真っ白で、涙も出なかった。


彼は「やめろ!」と叫んだが、その声は小さく震えていた。


「邪魔なんだよ!」


女が振り上げた包丁が私の腹に突き刺さった。焼けるような痛みが走り、呼吸ができなくなった。


「この人は、私のものなの!」


包丁が引き抜かれ、再び振り下ろされるたびに血が飛び散った。私はその場に崩れ落ち、赤く染まった床の上で視界が暗くなっていくのを感じていた。


彼の泣き顔がぼやけて見えた。その瞳には私ではなく、泣き叫ぶ女の姿だけが映っていた。


私の体は冷えていった。


「愛されたいだけだったのに」


その言葉を口にした瞬間、私の意識は闇の中へと沈んだ。



どれくらいの時間が経ったのかわからない。


目を開けると、赤い空と砂の匂いが私を包んでいた。


体を起こすと、血は流れていなかった。傷も痛みもなく、ただ赤い砂が私の肌にまとわりついていた。


「どこ……ここは……?」


声を出した途端、喉が焼けるように乾いていることに気づいた。


私は歩き出した。遠くに見える瓦礫の塔が、赤い空に突き刺さるようにそびえていた。


砂の上を歩くたび、砂が音を立てて崩れていく。私の足跡を、赤い風がすぐに消し去った。


歩き続けるうちに、瓦礫の塔にたどり着いた。扉は半分壊れており、内部には青白い光が漏れていた。


恐る恐る中へ入ると、奥に一人の女が座っていた。


長い銀髪が光を反射し、深い青の瞳が私を見つめた。


「ようこそ、砂の宮殿へ」


その声は冷たく、それでいて甘い響きを持っていた。


「あなた、愛されたいのでしょう?」


私はその言葉に目を見開いた。


「愛されたいのなら、奪う覚悟を持ちなさい」


女が立ち上がり、私の目の前に歩み寄ってくる。


「私の名はルディア。この砂の宮殿の主よ」


彼女が私の頬に手を当てた瞬間、胸の奥で何かが熱くなった。


「あなたは私に選ばれた。愛を奪う者になるために」


ルディアの指先から熱が流れ込み、私の体に赤い紋様が刻まれていくのが見えた。


「愛されたいのなら、あなた自身が誰かの愛を奪う覚悟をしなさい。この世界では、奪わなければ生きられない」


私は声を出せなかった。けれど、その言葉が胸の奥に焼き付いた。


愛されたい。


でも、愛されるためには、奪わなければならない。


血で染まったあの日、私は奪われた側だった。


次は、私が奪う番だ。


ルディアの瞳の奥で、赤い炎が揺れていた。


「私が教えてあげるわ。愛されるための方法を」


その微笑みは冷酷で、それでいて美しかった。


赤い砂が私の周囲で渦を巻き、私の足を包んでいく。


「ようこそ、新たな人生へ」


ルディアの声が赤い風に溶けて消えた瞬間、私は目を閉じ、砂の風の中へと身を投じた。


奪われるだけの人生は、もう終わりだ。


今度は私が、愛を奪いに行く。


この砂の宮殿で、愛が泣く音を聞くために。

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