六畳一間
戦後十年、日本は生活を取り戻してきた。
六畳一間。
それから台所と便所と風呂は共同。
二階の小さな部屋を間借りして住む俺には、良家の娘であるあいつと幸せに暮らす夢なんて、不釣り合いもいいところだった。
やがて、あいつは親の決めた相手と結婚をした。
そうするしか無かった。最初は納得していたつもりでいたが、苦痛は日に日に積もるばかり。あいつは俺に手紙を寄越してきた。
“私と一緒に逃げて”
“つわりが落ち着いて、遠くまで動けるようになったから”
綴られた短い想いと、日時や待ち合わせの場所が書かれている。
迎えに行かない選択なんてどこにもなく。あいつの心の叫びを聞いておいて、心をこれ以上殺すことなんて、できなかった。なによりも、俺はまだあいつとの暮らしをどこか諦めきれずにいた。
約束の日、人目を避けた裏路地で落ち合い、まだお腹の膨らみもわからないあいつを支えて、俺たちは身一つで逃げ出した。
「小さな家でも、私は良いよ」
夜、息を弾ませて駆け出したお前は、そう言って俺の手を握りしめて、星空のように目を輝かせる。
昼、あいつは、なにげなく歩く道でも、自由な子供のように笑っていた。
「ねぇ、見て。蝶よ」
「ねぇ、鳥!」
まるでそれはささやかな暮らしに、ちいさな彩りをのせるように。あいつはいろんなものを気づかせてくれた。
お前との生活のために買った、使い古された安物の家具や逃げた先で仕事も新しくみつけた。
あいつは、生まれた時から女中になんでもやってもらっていたせいか、家事をやらせるとなにもできやしない。不慣れで精一杯。包丁すら触ったことがないんだろう。三角形も作れないぶっ格好のおにぎりに笑ったりもしたけど、俺のために覚えたての料理するお前の姿が愛おしかった。
「……ごめんね」
と、あいつはたびたび感謝と申し訳なさそうな顔を浮かべて言う。
俺はそんなことは、ちっとも気にしてない。あいつの腹にいる子は俺の子ではないけど、それでもいいと思った。
この離れた地では誰も疑うものはいない。逃げ出したあいつと一緒に腹の子もまとめて、俺が今以上に働き、幸せにしてやりたい。そうできると信じていた。
逃げてから三ヶ月ほどたった頃。あいつは歩きづらそうになるのに反比例して、お腹の子は良く動くようになり、そのたびにあいつは俺を呼び微笑んだ。
――それでも、社会は俺たちを許さなかった。
お前と暮らし、こんな幸せが続けば良いと日々を噛み締めた矢先、あいつの家の者と嫁ぎ先の『夫』がこの部屋を探し当て、連れ戻した。
手切れ金だと言い捨て、投げつけられた幣紙が虚しく舞い上がり、はらはらと地面に落ちた。あいつに向けて伸ばした手は、指先を掠め、掴めないまま剥がされる。
あいつは「馬鹿娘!」と罵られ平手打ちを親から喰らい、乾いた音が鳴り響く。
お互いを呼びあった名は、交わったものの、あいつは真新しい自動車に押し込められ俺だけが取り残された。
「……こんなの、なんになるんだ」
金なんて要るものか!
地面をえぐりながら拳を握った。
「誘拐犯として警察に突き出されないだけ、ましと思え!」
あいつの父親に胸ぐらを捕まれ、乱暴に脇腹に拳をくい込ませ吐き捨てる。『夫』はただ一部始終を見届けると、手を染めぬまま、俺を睨みつけたあとあいつの隣の席へ着いた。
自動車は排気ガスの黒い煙を吐き出して消えて行った。
あの日、お前を連れて行ったのは間違っていたのか?
いや、そんなことあるものか。
あの時、俺はお前とお腹の中の子と、何処までも逃げ切れると思った。
どんな罰だって、振り払える気がしてた。
**
残ったのは、仕事だけだった。会えなくなったあの日から、ひたすら意味を待てないまま働いた。
そして。ふと、足を止めてつい空を見上げてしまう。
あっという間に砂の城のように崩れ去った。お前の居ない世界はとても長く感じて、無性に涙が込み上げそうな日もあるけど……。
一つ、季節をまたぎ。
なぁ。もうすぐ、赤ん坊が生まれる頃だろ?
そいつは元気な子で生まれてきたか?
お前とは結局、唇を重ねただけで終わった。結婚が決まっていたあいつに無責任に触れられなかったし、逃げた時も既に身重だったから負担もかけられない。
籍も身体も何一つ繋がりなど最後まで残せなかったけど、良かったと思っている。
あいつと子どもにも、負い目を背負わずに済んだ。貞潔を守れたことだけは、今も胸を張って言える。
――きっと、此処じゃない何処かの世界で、俺とお前と、赤ん坊が小さな部屋で幸せに暮らしてる……。
そんな想像をしたら、楽しくなって笑えて来た。
空想の世界でも何でも良い。
きっと俺たちはそれだけで、これからも幸せでいられるだろう。
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