第5話 関門トンネル 下関側

『いっつも思うんだけど、それだけで足りる?』


 いつものように彼の自転車に乗せてもらい、近くのコンビニで買ったおにぎりを頬張る。


『足りる。むしろ食べなくても平気なくらい』


『いやいや、マミちゃんは細すぎるからしっかり食べて』


 セイはもともと下関出身らしいけど、両親の転勤に伴ってひとりでこっちに残ったのだという。海を挟んで見える先の門司港レトロ地区に祖父母の家があって、そこに滞在しているらしい。


 普段は電車で通っているセイの所属する陸上部は木曜日がお休みということもあって、トレーニングがてら木曜日は自転車で通っているのだとか。


 その際は門司港からみもすそ川公園前(下関市)までつながる海底トンネルを通って高校に向かっている。


 感情をぶちまけてしまった初対面のあの日を境に少しずつ話すようになり、だいたい木曜日の夕方になるとセイが姿を見せるため、今では木曜日の夕方にはふらっと外へ出て、彼がやってくるのを待ち、他愛もない話をして夜になって解散する……というのが新しい生活のひとつになった。


 そんな生活が、冬を越し、春を越えた。


 自分でも不思議だったけど、セイの隣にいると、ゆっくり息が吸える気がした。


 セイはあまり自分の話をしない……というよりも、会うたびに一週間分ため込んだわたしの言いたいことをばかりを聞かせてしまうせいで彼の話を聞き損ねてしまった……とあとから反省する日は多かった。


 あれが言いたいこれが言いたいと、普段人と接することがない分、小さな発見から何から何までセイに話したくてしかたがなくなっていた。


 彼は本当に聞き上手だった。


 本名も知らなければ、高校名だってあいまいだ。


 着ている制服から、多分あそこかな?とは予測をしているものの、改めて聞いたことはない。それに、わたしだっていつも私服で彼と会っているわけだから、彼もわたしの高校を知らない。


 気にはなったけど、途中からこれ以上踏み込むのが怖くなってしまった。


 今の関係がちょうどいい。


 お互いのことをすべて知っているわけではないからこそ本音を言いやすいし、普段にはないありのままの自分でいられた。


 だからこそ、あえて彼について追及することはしなくなった。


『おいしい?』


 いつも飽きることなくドライカレーのおにぎりを食べるわたしにセイは聞いてくる。


『……ぶ、ぶちうまい』


『おお! それいね~』


『え? それ、どういうこと?』


 セイは下関ここで使われる言葉を使わない。


 母親が関東出身というまさに我が家と逆のパターンだったらしく、標準語のアクセントでも話すことができるらしい。


 初対面の日にこの街が嫌いだの、言っている言葉の意味がわからないだの散々失礼なことを言ってしまったからだろう。


 セイはわたしの前で自分の言葉を使わなくなった。


 生まれ育って培った大切な言葉だ。


 今ではひどいことを言ってしまったことに対してとっても反省をしていて、撤回したいくらいだった。


 それでもあの日の弱音を吐いた自分についてもう一度口にする勇気は今のわたしにはなくて、そのかわりに時々学校で耳にした言葉を口にするようになった。


 同じ日本語なのに、何を言っているのか一瞬考えることはあっても、毎日聞いていたらだんだんわかってくるものだ。


 わたしがこっそり教室で聞いた言葉を使うたび、セイは嬉しそうに笑った。


 きっとセイも普段はこの言葉を使っているんだろうなと思うと申し訳なくなった。


『本当にここは星がきれいに見えるね』


『真っ暗だからな』


 唐突に告げると、苦笑しながらセイも空を見上げる。


 みもすそ川公園は、夜になると何も見えないくらい真っ暗になってしまう。


『七夕とか、きれいに見えそうだね』


『今年は雨予報らしいけど』


『え、そうなの?』


 こっちで初めて過ごす夏で唯一楽しみにしていたというのに。


『でも雲の上は雨降らないから大丈夫。織姫も彦星も会えるよ』


『いやいや、それはさすがに夢がなさすぎるでしょ』


 大丈夫が口癖のセイの大丈夫もこればかりは笑えない。


 一年間も会っていなくて突然再会するなんて、価値観とか変わっていないのかなと思ってしまう自分も相当ひねくれていて嫌になってしまうけど。


『晴れるといいのに。あ、明るいといえば門司港も明るいでしょ?』


 オフィスビルがたくさんあるわけではなさそうだけど、いつも暖色の優しい明かりが遠目ながらに見えている。


『来たことなかったっけ?』


『ない』


『そうだった?』


『そう』


 本当に目の先にあるのに、県外には出てはいけないと言われ続けていて、特に行く意味もないため海の向こうの景色を見に行ったことがない。


 東京では中学生になったころから電車に乗って好き勝手移動していたというのに、あの日々がまるで嘘のようだ。


 今では学校と家の往復しかしていない。


『日付が変わる頃に消えるし、こっちから見えるほど明るいってわけでもないよ……って、わっ! やべっ!』


 話し終わる間もなく、慌ててセイが立ち上がる。


 スマホを見ると、時間が二十一時四十分になっていた。


『ごめん。行かないと』


『いそいで!』


 下関市と北九州市をつなぐ海底トンネル『関門トンネル』は二十二時までである。


 しかも、トンネル内は自転車に乗ってはいけないため、手で押していく必要がある。


 七百八十メートルと想像以上に近い距離は徒歩だとだいたい十五分ほどで渡りきれるのだという。


 閉所恐怖症のわたしはトンネルに入ると鼓動が大きくなるため、一度見に行ったきり入ったことはないのだけど、今からセイはそこを自転車を押した状態で通ることになる。


『マミちゃん、暗いから気を付けて』


『うん、大丈夫』


 早く行って、と手を振ると彼も同じように左手を上げ、トンネルに続く地下へのエレベーターに乗り込んでいく。


 扉が閉まるまでじっとその姿を見守り、わたしは海の向こう側に続く街を見つめる。


 彼は今から、あの街に帰っていく。


 わたしが知らない、あたたかな色をした街に、だ。


 知らないことが多い。


 でも、それを望んだのは自分だ。


 近づきすぎるのが怖い。


 近づきすぎて、この関係がなくなってしまうのが怖い。


 あの海の向こうは、天の川よりもずっと遠い。 


 柄にもなくそんなことを思い、ぐっとセイからもらった人形を握りしめる。


 なんだかんだで、嬉しかった。


 鞄につけていく勇気はないけど、こっそり忍ばせていくことくらいはできるだろう。


 そこではっとして、慌てて駆け出す。


 母の仕事が終わるまで、あと十五分。


 終わり次第、車の中から電話がかかってくるだろう。


 それまでにわたしも家に戻らなくてはならない。


 こうしていつものように全力で家に向かって足を進めることとなった。

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