反省零の業人譚

@zunpe

第1話 おとうさん

 どす、どす、どす……。

 古びた一軒家の床が大きく軋む音を階下に認め、順佑は慌ててドアから離れ衣服を正した。

 散らかった小さな部屋を見回し、目的の物を見つけると乱暴に拾い上げた。それは何ヶ月も前に年金暮らしの父親から渡された求人情報誌だった。

「オイ、順佑! 平日の昼間から部屋に引きこもって何をゴソゴソやっとるんじゃ!」

 ドスの効いた声が狭い部屋に響いた。順佑はこれ見よがしに求人情報誌を捲りながらボソボソと何事かを呟いた。

 老いた父親は大きな目をぎょろりと動かして順佑を睨み、腕を組んだ。

 順佑は続けてもごもごと、当人以外には聞き取れないような小さな声を出し続けていたが、遂に黙った。

 沈黙の中、黄ばんだ窓から差し込む夏の光が肌を熱する。遠くで蝉が喧しく鳴いている。順佑はそれが何かと鬱陶しい父親を退けるまじないであるかのように、頁を捲り続けた。

「仕事、探しとるんか」

 不意に問われ、順佑は今にも消え入りそうなか細い声で「そそそ……」と答えた。

「それ何時のじゃ」

 予想外の質問に、順佑は何も答えられなかった。

 じゅっ、じゅっ……。湿った奇妙な音が響く。それは順佑が上唇を吸う音だった。彼には緊張や不安に苛まれると唇を吸う癖があった。何十年もそうして来たが為に、唇の一部はぶっくりと膨れていた。

「聞こえなかったのか。それ、何時のじゃって聴いとるんじゃ」

 順佑は父親の姿を視界から外す為に、眼鏡が触れる程に情報誌へ顔を寄せた。

 どうしてオラばかりこんな目に遭わないといけないんだ。腹の内で己の不運を嘆きつつ、順佑は嵐が去るのをじっと待つと決めた。

 父親は追及しようとしないが、立ち去ろうともしない。

 本当のオラはクリエイティブな才能に溢れていて、多くの人に愛される笑顔の持ち主だと言うのに。こいつのせいで……こいつらのせいで……。順佑の内で膨らんでいく憎悪は、いつしか本人にすら意図せぬ形で噴出した。

「ヴー……」

 順佑の口から鳴き声のような音が漏れた。

「何時のかって聴いてとるんやろ!」

 父親の怒鳴り声を受け、順佑は反射的に表紙を確認した。

「サンガツ……」

 恐怖のあまり滑らかに喋ることが出来なかった。

「今頃そんなもん見ても、どうにもならんじゃろ!」

「ハ、ハロワ……見る……そそそ……」

「見るだけなら猿でも出来るわ! 馬鹿タレ!!」

「さが、探す……ちゃんと……」

 そう口にしている間も、順佑の胸中は変わらない。どうしてオラだけ。オラは悪くないのに。

「もう十年以上そう言って、何もしとらんじゃろ!」

 握り締めた拳をぷるぷると震わせながら、父親は順佑を睨む。

 何もしてくれないのはそっちだろっ!

 声に出さずして不満を爆発させた順佑は唇を尖らせた。これもまた、彼の悪癖の一つであり、事あるごとに唇を尖らせている為に、今では口元が嘴のように突き出ており、鼻と同じ高さにまで至っている。

 誰かなんとかしやがれ! 順佑は一層唇を尖らせ、むっつりと黙り込む。

「都合が悪くなると喋らんくなる」

 父親が吐き捨てた。

 早くなんとかしやがれ! 誰かなんとかしやがれ! オラは被害者だで! オラは悪くない! だから、なんとかしやがれ!

 声に出さず叫び続ける順佑の顔が赤く染まっていく。

 カシャン、と小さな音が玄関の方から届く。順佑は「にしし」とほくそ笑んだ。

 父親が足音を響かせながら部屋を出て行く。

 どうして、あの父親はオラを愛していないんだろう。オラには働けない理由があるのに。どうして? オラは悪くないよ? 開け放たれたままのドアを見つめながら、順佑は己の不遇を嘆いた。

 父親があんな風でなければオラは今頃、KYOMUKINよりも有名なヴーチューバーになっていたのに。

 順佑がそんなことを思っていると、父親が戻って来た。先よりも大きな音を立てながらだった。

 部屋へ入るなり、父親は手にしていた数枚の葉書を床に叩き付けた。

 散らばった葉書を一瞥し、順佑は思考を止めた。オラは悪くない、オラは悪くない、オラは悪くない……。

 順佑自身がネットにアップロードした順佑の素顔に、吹き出しが追加された写真が印刷されている。にやけた顔の横に「ガチ恋女子(未成年)ガン突きだで~」と記されている。

 別の葉書には、遺影から切り取った祖母の顔に、AV女優の体がコラージュされた画像が印刷されていた。

「どうせハローワークも見るだけじゃろ! もう何もすんな! それ寄越せ! 順佑!」

 父親が額に血管を浮かせながら怒鳴った。

 順佑はスマホを抱き締め、後ずさる。

「いやっ……いや、いや……いやっ……!」

 黄ばんだ窓を隔てた向こうに広がる明るい世界では蝉が「ミーン、ミーン」と鳴いている。

「馬鹿タレ! 馬鹿タレが! 悔しくないのか! 順佑!」

 順佑はスマホを取り上げられる可能性を少しでも減らそうと、父親の目を盗んでポケットへ隠した。

 それから、唇を尖らせる。

 オラだって、オラだって悔しいよ、お父さん! でもオラは信じてるんだっ! 白馬に乗ったガチ恋女子がきっと来てくれるから! その子と一緒に見返すんだ!

「もうええわ……。一応言っとくとな、お前が逃げ出した作業所から、また来ないかって打診があった。考えておくんやぞ」

 父親が立ち去って数秒、順佑は何事もなかったかのような顔でスマホを覗き込んだ。

 ニュートーキョーゲーム。ファンから「ニトゲ」の愛称で呼ばれる地下アイドル。そのメンバーの一人である「にゃあやしゃ」のSNSアカウント開く。

 にゃあしゃん、きゃわわ。そう書き込み、ニヤニヤと笑みを浮かべる。

 作業所? あんなところにはもう絶対に行かない。行く必要がない。オラは悪くない。こんなに不幸なのだから、今度は幸せがやって来る。そう、にゃあしゃんのような女神がオラを救ってくれる。

 壁が薄く、冷房も取り付けられていない為に、蒸し風呂のようになっている散らかった小さな部屋の中で、順佑は近い内に訪れるであろう幸福を夢見て笑う。

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