空いたうつわは溺れない

小土 カエリ

第1話 プロローグ

 薄っすらと積もった雪を踏みしめながら男は歩く。


 降る粉雪はまばらで、街灯に照らされるとぼやけて見えるほどだ。


 大通りでは、酒を飲んで酔っ払ってる住民たちの笑い声が、あちこちから聞こえてくる。


 所狭しと並ぶ棟は和風の装飾が施され、入り口には行燈あんどんが置かれている。


 二階の宴会場からは、音楽に合わせて足を踏み鳴らす男たちの影が、障子の奥で揺れていた。


 みんな楽しそうだ。


 抱えた紙袋の中には、たくさんの食材が入っている。袋の口には、雪が入らないように布がかけられていた。


 年季の入った茶色のコートの中には、一丁の銃が腰から下げられている。


「もし。そこのおにーさん」


 後ろから声がかかり、男の足が止まる。


 男が沈んだ目を動かして振り返ると、そこには一人の少女がいた。


 黒いシャツと白いショートパンツに、上から赤い法被を羽織っている。


 法被の柄は市松模様がベースになっており、祭りというより仕事着という感じだった。


 そして、顔には口元が開いた狐のお面をつけていた。


「おにーさんも皆さんと一緒に飲みませんか?」


 少女の表情はわからないが、声のトーンは高く、口元は笑っている。


 彼女が手招きする先は、さっきの宴会場がある棟だった。


「…せっかくの誘いで悪いが、連れを待たせてる。またの機会にさせてくれ」


 男が断ると、少女の口角が下がる。


「そうなんですね…なら、次は来てくださいね。待ってますから」


 少女はそれだけ言うと一礼して、棟の中に走っていった。法被の背中には盃の紋章があしらわれているのが目についた。


 男は再び歩き出す。


 大通りから逸れて路地に入ると、一気に灯りが少なくなる。


 さっきとは打って変わって、人もほとんどいない。


 男はもう一度曲がり、大通りから一本中の道に入る。


 そして、寂れた棟の前で止まった。


 そこの扉の前だけ雪かきがされており、中に入りやすくなっている。


 まるで、誰かが来ることを待っているかのような雰囲気だった。


 扉にはかすれた文字で「帳外屋」と書かれている。


 男はその扉を開ける。


 中にはいくつかの部屋があるが、どの部屋も灯りはついていなかった。


 男は靴を脱ぐと、一番奥の扉を開ける。


 そこはキッチン付きのリビングだ。


 大きなテレビとテーブル、ソファが中央に置かれており、その他は段ボールなどが無造作に放置されている。


 男が壁のスイッチを押すと、照明の電球が柔らかく光った。


「眩しいわよ…」


 ソファからけだるげな女の声がした。


 2メートルはある大きな身長。大きな胸と尻は、その細いくびれで更に強調されている。


 太い太ももをもぞもぞ動かしながら女は起き上がる。


 その白髪は長く、前髪は雑に切りそろえられていた。


 その長い前髪の隙間から深紅の瞳が男を射抜く。


 すると眠そうだった顔が瞬時に歪んだ笑顔に変わる。


「帰ってきたんだ。あんたの煙草全部吸っちゃったからさ、ちょうど追加が欲しかったのよね~」


 女が立ち上がる。


 下は下着一枚で、上は生地が薄い無地のシャツを着ている。電球に照らされて、体のラインが薄っすら見えている。


 女はそんなことは気にもしないで紙袋の中から煙草を探し当てる。


 ソファに戻るとマッチを手に取り、慣れた手つきで煙草に火をつける。


「はぁ~。おかえり。なんかあった?」


 女は一服してからついでのように「おかえり」を言う。


 顔は相変わらず歪んだ笑顔のままだ。


「別に何もない。俺は事務所にいる」


 男はコートを椅子に掛けると、扉から出ていった。


 女はそのコートを手に取ると、顔に近づけてにおいを嗅ぐ。


「注ぎ手のにおいが一人…女」


(客引きにでもあったか。まあ、どうでもいいな)


 女は雑に椅子にコートを掛けなおす。


 一人になったというのに、女の顔は歪んだ笑顔のままだった。

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