第11話 繋がった点と線
九月に入っても、真夏がその居場所を譲る気配はなかった。アスファルトの照り返しが揺らめき、ぎらついた太陽が容赦なく肌を焼く。そんな季節に取り残されたように、相田晶、結城雪菜、健太、莉奈、美玲の五人は、ある部屋の扉の前に立っていた。
詩織の部屋だ。アパートの二階、一番奥まった角部屋。錆び付いた鉄製の階段を上るたびに、ギシ、ギシ、と不安を煽るような音がした。呼び鈴を押すのをためらうように、誰もが黙り込んでいる。扉の向こう側には、自分たちの知らないデジタルの深淵が広がっている。そのことを、皆が予感していた。
「……入るぞ」
沈黙を破ったのは健太だった。彼が重い扉をノックすると、中から「……どうぞ」と、か細い声が聞こえた。
部屋に足を踏み入れた瞬間、むわりとした空気が五人を包んだ。カーテンが閉め切られ、昼間だというのに薄暗い。空気清浄機が低く唸る音と、数台のデスクトップパソコンから発せられるファンの音だけが響いている。埃と、電子機器が発する独特のオゾンの匂い。その中で、部屋の主である詩織は、一番大きなモニターの前に、背中を丸めて座っていた。
「詩織……。何か、わかったのか?」
晶が静かに問いかける。詩織はゆっくりと振り返った。長い前髪の間から覗く瞳は、この数日間、ほとんど眠っていないことを物語っていた。彼女は何も言わず、ただ、椅子を引いてモニターの前のスペースを空ける。
「見て」
モニターに映し出されていたのは、一見すると何の変哲もないウェブサイトだった。 『こころのオアシス』という、ありふれた名前のカウンセリングサイト。柔らかなパステルカラーでデザインされ、「ひとりで悩まないで。あなたの声を聞かせてください」という優しい言葉が浮かんでいる。
「このサイト……?」
莉奈が眉をひそめる。詩織は、キーボードをいくつか叩いた。画面が切り替わり、IDとパスワードで保護された管理領域のようなページが表示される。
「真央ちゃんと、和也くん。二人のPCの閲覧履歴、消された通信ログ、SNSのキャッシュ……全部、復元できる限り復元した。 二人とも、亡くなる直前に、このサイトの特定のカウンセラーと、匿名でチャットしてた」
詩織の指が、エンターキーを押す。画面に、チャットログが映し出された。 最初は、真央のものだった。
カウンセラー: 真央さん、こんばんは。今夜はどんなお話をしましょうか。
Mao: こんばんは……。もう、どうしたらいいのか、わからなくて。
カウンセラー: 大丈夫。ゆっくりでいいですよ。何があなたをそんなに苦しめているのですか?
Mao: 私が……私がいるだけで、みんなが不幸になるんです。家族も、友達も……。私が、いなくなれば……。
カウンセラー: そうですか。あなたがそう感じるのですね。でも、それは本当に「不幸」なのでしょうか。物事には、絶対的な「善」も「悪」もありません。すべては、誰の立場で、どう解釈するかに依存するのです。
その一文を見た瞬間、晶の背筋に冷たいものが走った。雪菜が息を飲む。
「これ……」
雪菜は震える手で、カバンから大切に保管していた真央の日記を取り出した。晶が受け取り、指定されたページを開く。そこには、真央の丸い字で、同じ言葉が書き写されていた。
「『絶対的な善も悪もない。すべては立場と解釈次第』……」
晶が呟くと、健太が「どういうことだよ……」と唸る。詩織は無言でスクロールを続けた。チャットログは、さらに核心へと続いていた。
カウンセラー: 例えば、ある国では英雄と呼ばれる兵士も、敵国から見れば侵略者です。 あなたが存在することで、誰かが苦しむ。その一方で、あなたがいなくなることで、誰かが安らぎを得る。どちらが「正義」だと思いますか?
Mao: そんな……。でも、私が死んだら、雪菜が……親友が、悲しみます。
カウンセラー: もちろん、悲しむでしょう。それは一つの側面です。しかし、より大きな視点で考えてみましょう。あなたの苦しみ、そしてあなたの存在によって苦しんでいるかもしれない他の人々の心の平穏。全体の幸福や悲しみの総量を考えたとき、どちらがより大きな損失を世界にもたらすでしょうか。
「なんだよ、これ……」
健太の拳が、ぎり、と強く握り締められる。莉奈は顔を青くして、唇を噛んでいた。美玲は、その内容の異様さに、ただ呆然と画面を見つめている。
雪菜の肩が、小さく震え始めた。止めろ、と晶は思ったが、言葉にならなかった。これは、見なければならない真実だった。詩織は、次に和也のログを映し出す。内容は、細部こそ違えど、驚くほど似通っていた。いじめに苦しんでいた和也に対し、「カウンセラー」は同じ論理を囁いていた。
カウンセラー: 君をいじめる彼らにも、彼らなりの正義があるのかもしれない。あるいは、ただの娯楽かもしれない。どちらにせよ、君がそこに存在することが、その状況を引き起こしている。
Kazuya: 僕が……悪いんですか?
カウンセラー: 善悪の話ではありません。これは、原因と結果の話です。君がいなくなれば、その原因は消滅する。そうは考えられませんか?君は、自分の存在によって、他者に「いじめる」という悪をなさしめている、とも言えるのですよ。
「ふざけるな……」
健太が低い声で言った。部屋の空気が、凍りつく。それは、単なる自殺ではなかった。明確な意図を持った、言葉による殺人だ。五人は、ディスプレイの冷たい光に照らされながら、デジタルの深淵に潜む、名前も顔も知らない悪意の正体を、まざまざと見せつけられていた。
窓の外では、あれほど強かった陽射しがいつの間にか和らぎ、空が茜色に染まり始めていた。夕暮れの光が、カーテンの隙間から細く、長く、部屋の中に差し込んでいる。それはまるで、現場に残された一筋の血の痕のようだった。
「……真央は」
嗚咽をこらえていた雪菜が、絞り出すように言った。
「真央は……優しい子だったから……。人の痛みが、わかる子だったから……。だから、こんな……こんな馬鹿げた理屈を……信じちゃったんだ……」
その言葉が引き金になった。雪菜の瞳から、大粒の涙が次々とこぼれ落ちる。それは、最初に真央の死を知った時のような、自分を責める涙ではなかった。親友の優しさを利用され、死へと追い詰められたことへの、どうしようもない悔しさと、犯人に対する激しい怒りが入り混じった涙だった。
「ごめん……ごめんね、真央……気づいてあげられなくて……!」
床に崩れ落ち、泣きじゃくる雪菜の背中を、莉奈が黙ってさすっている。健太は壁を殴りつけたい衝動を必死にこらえ、窓の外に広がる夕焼けを睨みつけていた。その目は、赤く充血していた。美玲は、自分の無力さに打ちひしがれるように、俯いて唇を震わせている。
詩織は、静かに自分の膝の上で拳を握りしめていた。彼女の瞳にも、うっすらと涙の膜が張っている。不登校の自分を守るために築いたデジタルの壁。その同じ世界で、二つの命が弄ばれ、消されていった。
晶は、泣き叫ぶ雪菜と、怒りに震える仲間たち、そしてモニターに映る冷酷な文字を、ただ交互に見つめていた。点と点が、繋がり、一本の線になった。 真央の日記の言葉。二人の、あまりにも似すぎた死。そして、このチャットログ。
犯人は一人だ。
そして、その犯人は、哲学と論理を凶器として使う、冷酷な知能犯だ。
「……そいつは」
晶が、静かだが、鋼のような硬質さを帯びた声で言った。皆の視線が、彼に集まる。
「そいつは、僕らのすぐ近くにいる」
茜色の光が、晶の横顔を鋭く照らし出していた。彼の瞳の奥で、静かだが、決して消えることのない炎が燃え上がっていた。それは、悲しみであり、怒りであり、そして、見えざる敵に対する、決然とした闘志だった。
物語は、まだ終わらない。いや、今、始まったのだ。絶対的な正義など存在しない世界で、自分たちの「正義」を証明するための、長く、苦しい戦いが。
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