第3話 初めての魔法スイーツ



「笑った! 王子が初めて笑った……って、あれ?」


 朝の光がカフェに差し込む中、わたしは叫びかけて、途中で止まった。


 確かに王子は微笑んでいる。窓の外の青い鳥を見ながら。でも、その笑顔がどこか——歪んでいる?


「おはよう、コトハ」


 王子が振り返った瞬間、表情が普通に戻った。気のせいだったのかな。


「おはよう。調子はどう?」


「うん、いいよ。でも——」


 王子が自分の手を見つめる。


「時々、身体の中で何かが暴れてる感じがする」


 シェルが階段を降りてきた。紫の宝石が、今日は特に激しく脈打っている。


「それは感情が戻り始めている証拠だ。だが、急激に戻りすぎると——」


「分かってる」


 王子が遮った。その声に、苛立ちが混じっている。


 あれ? 昨日まではこんな風じゃなかった。


「今日は何を作るの?」


 話題を変えるように、王子がレシピ本を開く。


「『ふわふわロールケーキ~緊張をゆるめる~』か」


 材料を見ると、『雲の卵白』『風のバニラ』『月光の生クリーム』。


「ロールケーキ!? 難しそう……」


「大丈夫。きっとできる」


 王子の励ましに、勇気が出る。でも——


 作り始めると、なぜか手が震える。


「また殻が……」


 3個目の卵を無駄にしてしまった。


「コトハ、どうしたの?」


 王子が心配そうに寄ってくる。その時、王子の瞳に一瞬、赤い光が走った。


「イライラする?」


 え?


「失敗ばかりで、イライラするでしょ?」


 王子の声が、少し違う。低くて、冷たい。


「王子?」


「あ……ごめん」


 王子が頭を振る。


「なんでこんなこと言ったんだろう」


 やっぱり、何かおかしい。


「感情が不安定なんだ」


 シェルが説明する。


「特に負の感情が先に戻ることがある。気をつけないと」


 深呼吸して、もう一度挑戦。


 雲の卵白を泡立てる。確かに軽い。すぐにふわふわのメレンゲができた。


「きれい」


「本当だね」


 王子が隣に来て、一緒に見つめる。さっきの冷たさは消えて、いつもの優しい王子に戻っている。


 小麦粉を混ぜて、天板に流す。薄く均等に伸ばすのが難しい。


「ここはこうすると——」


 王子が手を添えて教えてくれる。手が触れて、どきっとする。


 でも、王子の手が——熱い?


「王子、大丈夫?」


「ん? 何が?」


 王子は普通に見える。でも、さっきの熱は何だったんだろう。


 オーブンで焼いている間、生クリームを作る。


 月光の生クリームは、本当に美しい。泡立てていると、キッチン全体が柔らかい光に包まれる。


「これ、癒される」


「そうだね」


 王子も穏やかな表情になる。


 でも、その時——


 ガシャン!


 突然、窓ガラスにヒビが入った。


「何!?」


 見ると、王子の周りの空気が歪んでいる。感情の力が、物理的に現れている?


「ごめん、コントロールできなくて」


 王子が慌てて手を握りしめる。


「最近、力が勝手に出ちゃうんだ」


 これも、感情が戻っている証拠。でも、危険でもある。


 焼き上がったスポンジを、急いで巻く。形を覚えさせてから、生クリームを塗って、もう一度巻く。


「できた!」


 少し形はいびつだけど、ちゃんとロールケーキになっている。


 王子が一切れ口に運ぶ。


 瞬間——


 王子の身体から、緊張が抜けていくのが見えた。肩の力が抜けて、表情が柔らかくなる。


「ふわっとする」


 そして、王子が笑った。


 今度は本物の、心からの笑顔。


「おいしい。すごくおいしいよ、コトハ」


「笑った! 王子が初めて笑った……って、あれ?」


 でも、次の瞬間——


 王子の笑顔が、また歪んだ。


「でも、甘すぎるかな」


 え?


「もっと上手に作れるはずでしょ?」


 また、あの冷たい声。


「王子、それは——」


「あ、ごめん! また変なこと言った」


 王子が両手で顔を覆う。


「最近、自分が自分じゃないみたいで」


 心配になって、王子の手を取る。


「大丈夫。感情が戻ってるんだから、当然だよ」


「でも、怖い」


 王子の声が震えている。


「もし、嫌な感情ばかり戻ったら。もし、誰かを傷つけたら」


 その言葉が、胸に刺さる。


 確かに、感情には良いものも悪いものもある。全部戻ったら、王子はどうなるんだろう。


 でも——


「それでも、消えるよりはいいよ」


 わたしの言葉に、王子が顔を上げる。


「一緒に乗り越えよう。わたしがついてるから」


 王子の瞳に、涙が浮かんだ。


「コトハ……」


 身体の透明度は、15%から10%に。もうほとんど普通の人と変わらない。


 でも、同時に、制御できない力も強くなっている。


 午後、庭を散歩していると、感情の花がたくさん浮いていた。


「あの赤い花は?」


「怒りの花だよ」


 王子が説明する。


「最近、増えてきた」


 確かに、黄色い喜びの花より、赤い花の方が多い。中には黒っぽい花も混じっている。


「黒い花は?」


「……憎しみ」


 王子の声が沈む。


「僕の中に、こんなにも負の感情があったなんて」


 記憶の池の前を通りかかった。王子が立ち止まる。


「覗いてみる?」


「うん」


 二人で池を覗き込むと——


 映ったのは、怒っている王子の姿。誰かに向かって叫んでいる。


「これは……」


 王子が青ざめる。


「思い出した。父上と喧嘩したんだ。料理を禁じられた時」


 映像の中の王子は、すごく怒っている。物を投げて、泣き叫んで。


「こんな自分、見たくない」


 王子が目をそらす。でも、映像は続く。


 そして——


 誰かが王子を抱きしめた。顔は見えないけど、女の子みたい。


「大丈夫だよ」


 優しい声が聞こえる。


「怒ってもいいんだよ。でも、一人じゃないから」


 映像が消えた。


「今の子、誰だろう」


 王子が考え込む。


「大切な人だった気がする」


 夕方、カフェに戻ると、シェルが深刻な顔をしていた。


「良くない知らせがある」


「何?」


「王子の感情回復が早すぎる。このままでは——」


 その時、王子が突然うずくまった。


「うっ!」


 身体から、赤と黒の光があふれ出す。


「苦しい……憎い……全部……全部憎い!」


 王子の叫び声と共に、カフェ中の食器が震え始めた。


「これは——感情の暴走!」


 シェルが叫ぶ。


「まだ早い! 第6話で起きるはずが——」


 え? 第6話?


 でも、考える暇はなかった。


 王子の力で、棚から物が落ちてくる。窓ガラスが次々と割れていく。


「王子! しっかりして!」


 わたしは王子に駆け寄った。でも——


「来るな!」


 王子の手から、見えない力が放たれる。わたしは吹き飛ばされそうになった。


 でも、負けない。


「王子、わたしだよ! コトハだよ!」


 必死に近づく。王子の瞳は真っ赤に染まっている。


「消えろ……全部消えろ……」


 このままじゃ、王子が壊れちゃう。


 どうしよう。どうしたら——


 そうだ!


 ポケットから、昨日もらった青い石のペンダントを取り出す。


「王子、これ見て! お母さんの形見でしょ?」


 ペンダントが、柔らかく光り始めた。


 王子の動きが、一瞬止まる。


「母様……?」


 赤い光が弱まっていく。


「そうだよ。お母さんを思い出して。優しい歌を歌ってくれたんでしょ?」


 少しずつ、王子の瞳に正気が戻ってくる。


「コト……ハ?」


「うん、ここにいるよ」


 王子の手を握る。熱いけど、離さない。


 やがて、赤い光は完全に消えた。


 王子が崩れるように座り込む。


「ごめん……ごめん……」


「大丈夫だよ」


 わたしは王子を抱きしめた。


「怖かったよね。でも、もう大丈夫」


 シェルが近づいてくる。


「これは予想以上だ。感情の制御を、もっと慎重にしなければ」


 王子の身体を見ると、透明度が少し戻っていた。10%から12%くらいに。


「感情が暴走すると、また透明になるの?」


「そうだ。感情は諸刃の剣。上手く扱えなければ、逆に存在を脅かす」


 王子が震えている。


「もう、感情なんていらない」


「そんなこと言わないで」


 わたしは王子の顔を両手で包む。


「確かに怖いけど、それも君の一部だから」


「でも、君を傷つけるところだった」


「傷つけなかったでしょ?」


 王子の瞳から、涙がこぼれる。


「怖い。自分が怖い」


 その涙は、本物の感情から生まれたもの。


 恐怖も、大切な感情の一つ。


 夜、王子の部屋の前を通ると、中から物音がした。


 ガシャン——何かが割れる音。


「王子?」


 ノックしても、返事がない。


 心配だけど、今は一人にしてあげた方がいいのかも。


 自分の部屋に戻って、ベッドに入る。


 今日は、怖かった。


 王子の感情が暴走して、あんなことになるなんて。


 でも、同時に分かった。


 王子の中には、たくさんの感情が押し込められている。


 それを全部解放したら、どうなるんだろう。


 不安だけど——


 それでも、わたしは王子を助けたい。


 感情があるからこそ、人は人なんだから。


 明日は、もっと慎重に。


 でも、絶対に諦めない。


 窓の外で、また黒い影が動いた。


 今度は、はっきりと見えた。


 人の形をしている。長い髪。女の人?


 でも、すぐに消えてしまった。


 あれは、誰なんだろう。


 王子の感情を狙っているって、シェルは言ってた。


 もしかして、呪いをかけた人?


 分からないことばかり。


 でも、一つだけ確かなこと。


 わたしは、王子を守る。


 どんなことがあっても。


「笑った! 王子が初めて笑った……って、あれ?」

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