第6話 泡心
朝起きて最初に見たのは、天井じゃなくて、机の上に伏せてあったスマホの背中だった。
昨日の夕暮れ、手紙を渡したあとの自分の言葉や仕草が、断片的に頭に浮かぶ。情けなかった。よく分からない笑い方をしたし、帰ってから読んでって言うだけで、内容については一言も触れられなかった。
あのあと、大和は読んだだろうか。読んで、どう思っただろう。
体を起こして、スマホを手に取る。ロックを外す指が少しだけ震えた。
通知は、なかった。
LINEの画面を開いて、昨日のやり取りを見返す。最後に「帰ってから読むよ」と送ってきたあの一文。そこから、連絡はない。
まだ読んでないのかもしれないし、読んだけど、なんて返したらいいか分からないのかもしれない。
それとも――気持ち悪いって、思われたのかもしれない。
その言葉が頭に浮かんだ瞬間、喉がひゅっと詰まるような感覚が走った。
誰にも言えなかった気持ちだった。ずっと、胸の奥に沈めていた。それを、とうとう言葉にしてしまった。
いや、直接言ったわけじゃない。ただ手紙を渡しただけだ。もしかしたら、冗談だと思ってるかもしれないし、意味が分からなかっただけかもしれない。
それでも、もう、渡してしまった。
僕は、気持ちを――大和に、見せてしまった。
背中に汗がにじんでくる。エアコンのリモコンに手を伸ばして、設定温度を下げた。ひとつ、深呼吸をする。
時間がいつもより遅く進んでいる気がした。朝の光はカーテン越しにやわらかく部屋を照らしていて、蝉の声が遠くで鳴いている。
何も変わらない日常の中で、自分だけが浮き上がっているみたいだった。
もう一度、スマホを見た。LINEの画面を開いて、閉じて、また開いた。
それを繰り返すうちに、僕の胸の奥に、小さな泡みたいなものがふわっと浮かび上がっては、音もなく弾けて消えていくのを感じた。
期待じゃない。多分、ただの希望。いや、違う。たぶん――未練、だ。
僕はスマホを伏せて、顔を枕に埋めた。
もう一度、時間が戻ればいいのに。手紙を渡す前の夕方に。
でも、それじゃだめなんだ。戻っても、僕はまた、渡してしまう。
きっと、そうするしかなかったんだと思う。
昼になっても、通知はなかった。
何か食べようと思って冷蔵庫を開けたけど、何も手が伸びなかった。食欲がないというより、口に入れる意味が分からない気がした。
僕は何度もスマホを手に取って、ロックを解除しては画面を閉じた。LINEの画面に通知がきていないことを、何度も確認してしまう。
ずっと読んでないなんて、ありえるのか。昨日は忙しくて読んでいないとか。
それとも、読んだうえで無視しているのかもしれない。いや、大和はそんなやつじゃない。でも――。
あれは気持ち悪かったんじゃないか。重かったんじゃないか。
だいたい男の僕からの手紙なんて、普通考えたらおかしいよな。気持ち悪いよな。
手紙を渡したあと、僕はどんな顔をしてた? ちゃんと笑えてた? どもってなかった? 変じゃなかった?
考えれば考えるほど、わけがわからなくなってくる。
ふと、机の上の文庫本に目がいった。読みかけのまましおりを挟んだページは、まったく進む気配がない。
部屋にいても落ち着かなくて、僕はサンダルをつっかけて外に出た。
蝉の声が、耳を焼くように響く。空は嫌になるほど青くて、雲はゆっくりと流れている。
歩道の端を歩きながら、ふとスマホを取り出して、またLINEを確認してしまう。
まだ、何もなかった。
わかってたはずなのに、胸の奥が小さく沈む。泡が弾けるような感覚じゃなくて、今度は、沈む。
もう、読んでくれないのかもしれない。読んだとしても、返事はないのかもしれない。
それなら、いっそ「読んだよ」とだけでも、返してくれたらよかったのに。
それすら、届かないなら。
僕はなんのために、あの手紙を渡したんだろう。
伝えたくて、伝えることに意味があると信じたから。でも、そのあとに何もないなら、それはただの独りよがりなんじゃないか。
立ち止まって、僕は額の汗をぬぐった。これってホントに汗か。風が吹いて、遠くで風鈴の音がかすかに鳴った気がした。
歩き出す足が重い。
まるで自分だけが夏に取り残されてしまったような、そんな午後だった。
日が傾いてきたころ、僕はふらふらと公園へ向かった。あの丘の上の、静かな場所。
日差しはまだ暑かったけど、ベンチに座って空を見上げると、いくらか心が落ち着いた。けれど、その落ち着きすらも偽物のように感じる。
風が吹く。風が吹くだけで、誰かの気配を探してしまうのは、期待してる証拠だ。
期待なんてしないって決めたのに。
ポケットの中でスマホが振動する――気がして、反射的に取り出す。でも何もなかった。いつからだろう、幻まで感じるようになったのは。
それでも僕は、大和が読むかもしれない手紙のことを、考えずにはいられなかった。
もしかしたら、まだ読んでる途中なのかもしれない。読み終えて、どう返せばいいのか迷ってるのかもしれない。
そう考えることで、自分を納得させようとしてるのかもしれない。
大和に嫌われたかもしれないって考えると、息ができなくなる。それだけは、怖い。
渡したことは、間違ってなかったと思いたい。でも、渡さなければこんな苦しさを知らずにすんだとも思う。
何かを変えたくて、自分から動いたくせに、変わることの重さに耐えられない。
「尚……」
名前を呼ぶ声が聞こえた気がして、思わず顔を上げた。でも、そこに大和はいなかった。
ただの空耳だった。風が強くなってきたせいか、木々のざわめきが耳をくすぐる。
もうすぐ日が沈む。
僕の中で、なにかが静かに沈んでいくのが分かった。
きっとこのまま、何も起きないんだろう。そう思いかけて、でもやっぱり、と僕はもう一度スマホを見た。
通知は、なかった。
それでも――それでも、どこかでまだ、大和の名前を、誰よりも待ってしまう自分がいた。
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