『星海(せいかい)をめざして』

トモさん

プロローグ「星降る山の記憶」

鳴滝山(なるたきやま)。標高八百四十メートルのその山は、地元の人々に「星降り山」と呼ばれている。

 夜になると空がぽっかりと開け、地上のすべてが静けさに包まれる。眼下に広がる町の灯りは控えめで、空気は澄み、頭上には数えきれない星々が降るように広がっていた。


 小さなころ、環(たまき)はその山がこの世でもっとも特別な場所だと信じていた。

 真夜中、家の玄関がそっと開く音がして、祖父の大きな手に引かれて庭へ出ると、四つの足で抱えた黒いケースが玄関先に置かれていた。中には、祖父が大切にしていた望遠鏡。まるで魔法の道具のように見えたそれは、何度も分解しては組み立て直され、手入れを受けて、いつもピカピカと輝いていた。


「行くか、星降り山へ」


 祖父の声はいつも静かで、耳元でささやくようだった。夜の冷え込みも、虫の声も、街灯のない山道の闇も、その言葉だけで胸が躍り、怖さなど忘れた。


 真っ暗な山道を懐中電灯ひとつで登る。道の脇から聞こえる鹿の気配。風が草を揺らす音。すべてが夜の帳のなかで静かに息をしていた。


 やがて開けた頂上に着くと、祖父は望遠鏡を設置しはじめた。環も覚えた手順で三脚を固定し、筒を立て、レンズの位置を合わせる。祖父が昔手作りした天体観測ノートを広げると、その日見える星座や惑星の記録が几帳面に書き込まれていた。


「今日は木星が見えるぞ。ガリレオ衛星も運がよければな」


 望遠鏡を覗いたときの、あの衝撃。

 星は点ではなかった。円くて、色があって、時には縞模様が浮かび、周囲には小さな点が並んでいた。それが月だった。


「これは、宇宙だよ。タマちゃんの目の前にある宇宙」


 その言葉が、環の心に深く刻まれた。

 小学三年生の冬。月明かりが白く山を照らしていた夜のことだった。


***


 十年が経った。

 向井環は十七歳、高校二年生。進路希望の時期に差しかかっていた。

 あの頃の祖父は、もういない。三年前、心臓の病気で亡くなった。

 祖父が残した観測ノートと、部屋の隅に置かれた望遠鏡だけが、今も環のそばにある。


 天文学者になりたい。

 その思いは、小学生のときから変わっていない。星を研究し、宇宙をもっと知りたいと願ってきた。

 けれど、ある日読んだ本の一節が、彼女の運命を少し変えた。


『星の海に浮かぶ地球。それを、外から見た者だけが語れる景色がある』


 それは、ある宇宙飛行士のエッセイだった。

 無重力のなかで地球を見下ろし、夜の大気圏の先に広がる星海(せいかい)を、「夢よりも美しい」と形容していた。


 星の海。

 それをこの目で見てみたい――


 環の中で、ひとつの思いが明確になった。

 「天文学者になりたい」では足りない。私は、宇宙に行きたい。あの星の海を、自分の目で見たいのだと。


 その夢を口にしたとき、母は驚いた顔をした。

 教師の父は「簡単ではない」と静かに言った。

 だが、否定はされなかった。


 「おじいちゃんが生きていたら、きっと喜んだわね」


 母はそう言って、祖父の遺影に手を合わせた。

 そのとき、環は心の中で誓ったのだ。

 必ず、あの星降る山から見上げた空の先へ行く。星の海へ。


***


 翌週の土曜。環はリュックに祖父の観測ノートと望遠鏡の接眼レンズを詰め、久しぶりに鳴滝山へ登った。


 頂上からの夜景は変わらない。夜の風が頬をなで、空には今も変わらず星が輝いていた。

 祖父が教えてくれた星座たち――カシオペア、オリオン、白鳥座――どれも幼いころと同じ位置にあった。


 「おじいちゃん、聞こえてる?」


 小さく呟く。答えはない。でも、心は静かに満たされていく。


 環は空を見上げた。

 かつてあのとき望遠鏡で覗いた木星。あの星の先に、どれだけの世界が広がっているのだろう。


 冷たい地面に座り込み、ノートを開く。新しいページの上に、力強く書き記した。


 「私の目標:宇宙飛行士になること」


 それは、星降り山の頂で交わされた、自分自身との約束だった。

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