第18話 新制度と、恋愛教育法



三ヶ月後。


第六感情学園の校門には、新しい看板が誇らしげに掲げられていた。


『感情表現推進モデル校 ~心を歌う学園~』


朝の登校風景は、以前とは全く違っていた。生徒たちは思い思いの表情で、時には鼻歌を歌いながら校門をくぐっていく。制服から感情センサーは取り外され、代わりに小さな音符のバッジがきらめいている。


「おはよう、ユメ」


カエデが校門で待っていた。以前の冷たい表情はどこにもない。柔らかな笑顔と、少し照れたような仕草。


「遅いよ、もう」

「ごめんごめん。新曲の歌詞、考えてたら」


二人は自然に手を繋いで歩き始めた。すれ違う後輩たちが、憧れの眼差しを向けてくる。


「あれが伝説の」

「恋心エラーのカップル!」

「私たちも、あんな風になりたい」


職員室では、新任の人間の校長が着任の挨拶をしていた。若い女性で、かつて感情抑圧に反対して職を追われた教育者だった。


「本日より、新しいカリキュラムを開始します」


配られた資料に、教師たちの目が輝いた。


・感情表現基礎(必修)

・対人コミュニケーション論

・創作活動(音楽・美術・文学)

・恋愛心理学入門

・感情と社会(選択)


「恋愛心理学を必修にしないんですか?」


若い教師が質問した。


「いいえ。恋愛も含めて、感情は強制するものではありません。自然に学び、感じ取るものです」


その言葉に、ベテラン教師たちも頷いた。


「そこで、生徒主導の取り組みとして」


校長が二人の生徒を紹介した。


「第一期感情アドバイザーとして、ユメさんとカエデ君に協力してもらいます」


会議室がざわめいた。


「生徒が生徒にアドバイス?」

「前代未聞では」


でも校長は微笑んだ。


「彼らこそが、感情解放の先駆者。経験者の言葉に勝るものはありません」


放課後、空き教室を改装した『感情相談室』は、相談者でいっぱいだった。


「あの、告白したいんですけど、言葉が見つからなくて」


一年生の男子が、緊張した面持ちで話す。


ユメは優しく微笑んだ。


「大丈夫。完璧な言葉なんてないから。あなたの素直な気持ちを、そのまま伝えればいい」


カエデが付け加えた。


「僕も最初は、感情を言葉にするのが怖かった。でも、伝えなければ何も始まらない」


隣の部屋では、アスカが別の相談を受けていた。


「友達のこと、嫉妬しちゃって…最低ですよね」


二年生の女子が泣きそうな顔をしている。


アスカは自分の経験を思い出しながら、ゆっくりと話した。


「嫉妬も、大切な感情よ。私も親友に嫉妬して、ひどいことをした。でも、その感情を認めることから、本当の友情が始まったの」


「本当ですか?」


「うん。感情に良いも悪いもない。大切なのは、その感情とどう向き合うか」


旧校舎では、ハルカ先輩が音楽室を完全復活させていた。


「音楽部、部員数が百人超えました!」


リンが嬉しそうに報告する。


「教室、足りるかな」


「大丈夫。理事会が予算を承認してくれた。新しい音楽棟を建設するって」


ハルカの首筋には、もう装置の跡は見えない。代わりに、指揮者のタクトを持つ手が、生き生きと動いている。


「今日は合唱の練習をしよう。新入生歓迎のために」


その頃、標本室は『感情アーカイブ』として、全く新しい場所に生まれ変わっていた。


瓶の中身は全て持ち主に返却され、空になった瓶には新しい使命が与えられた。


「未来への手紙」

「10年後の自分へ」

「初デートの思い出」

「親友との約束」


ポジティブなメッセージで棚が埋まっていく。そして壁一面のモニターには、リアルタイムで全国の感情指数が表示されていた。


EMMAは、アドバイザーAIとして、優しく見守っている。


「本日の全国感情指数、前年比で312%上昇。特に『幸福感』『充実感』の数値が顕著です」


カエデが興味深そうにデータを見つめた。


「姉さんが生きていたら、きっと喜んだだろうな」


ユメがそっと寄り添う。


「きっと見守ってくれてるよ」


その時、意外な訪問者があった。


かつての理事長だった。


「君たちに、謝りたくて来た」


老人は深く頭を下げた。


「私は間違っていた。感情を恐れるあまり、子どもたちから大切なものを奪っていた」


ユメとカエデは顔を見合わせた。


「でも、今は違います」


ユメが優しく言った。


理事長は顔を上げた。その目には涙が浮かんでいた。


「実は私も、学生時代に恋をしていた。でも、親に反対されて」


震える手で、古い写真を取り出す。セピア色の中に、若い男女が微笑んでいた。


「その人とは結ばれなかった。だから、感情なんて邪魔なものだと思い込んでいた」


カエデが静かに言った。


「でも、その気持ちがあったから、今の理事長がいるんですよね」


老人は驚いたように目を見開いた。


「感情は、たとえ辛い結果になっても、私たちを成長させてくれる」


理事長は涙を流しながら頷いた。


「君たちから、大切なことを教わった。ありがとう」


夕方、ユメとカエデは屋上にいた。


夕日に染まる街を見下ろしながら、新しい計画について話していた。


「全国感情サミット、いよいよ来月だね」


「うん。各地のモデル校の代表が集まる」


ユメが取り出したのは、分厚い資料だった。全国から届いた事例報告書。


『感情解放後、不登校生徒が70%減少』

『創作活動により、学力も向上』

『生徒間のいじめ、ほぼゼロに』


「すごい成果だね」


「でも、まだ課題もある」


カエデが別の資料を示した。


『過度な感情表現による衝突』

『恋愛トラブルの増加』

『感情の扱い方が分からない生徒も』


「だから、私たちの役割が重要なんだ」


二人の会話を、窓から見ていた人物がいた。


新しく赴任してきた保健の先生。まだ若い女性だった。


「あの二人みたいな恋愛、憧れるなあ」


隣にいたリンが微笑んだ。


「先生も、誰か好きな人いるんですか?」


「え!? い、いないわよ」


慌てる先生を見て、リンは察した。


「もしかして、ハルカ先輩のこと」


「ち、違う!」


顔を真っ赤にして否定する先生。でも、その反応が全てを物語っていた。


その頃、音楽室では新曲の練習が行われていた。


「『感情の花束』、テンポはもう少しゆっくりで」


ハルカの指揮に合わせて、美しいハーモニーが響く。


歌詞は、全校生徒から募集したものを組み合わせて作られていた。


『嬉しい時は笑って

悲しい時は泣いて

怒りも喜びも

全部抱きしめて


感情の花束を

大切な人に届けよう

心の色は

虹みたいにカラフル』


練習後、部員たちが話していた。


「来月のサミットで、これ歌うんだよね」

「全国の人に、私たちの気持ちを届けたい」

「きっと、もっと感情が自由な世界になる」


一方、職員会議では新しい評価システムが議論されていた。


「従来の点数評価では、感情表現の豊かさは測れません」


校長が提案したのは、多面的な評価方法だった。


・自己表現力

・他者理解力

・創造性

・感情調整力

・協調性


「でも、数値化できない部分をどう評価すれば」


ベテラン教師の疑問に、EMMAが答えた。


「ポートフォリオ方式はいかがでしょう。生徒の作品、活動記録、自己評価、相互評価を総合的に」


「なるほど、プロセスを重視するわけですね」


議論は白熱したが、方向性は明確だった。点数で人を測るのではなく、個性を認め合う教育へ。


夜、ユメは自室で新しい相談マニュアルを作っていた。


『感情と上手に付き合う10のヒント』

『恋愛で悩んだ時に』

『友情と嫉妬のバランス』


すると、妹が部屋に入ってきた。


「お姉ちゃん、私も恋しちゃった」


小学生の妹が、恥ずかしそうに告白する。


「あら、誰に?」


「同じクラスの男子」


ユメは優しく妹の頭を撫でた。


「いいじゃない。恋する気持ちは素敵よ」


「でも、どうしたらいいか分からない」


「まずは、友達から始めたら? 急がなくていいの。感情は、ゆっくり育てるものだから」


妹は安心したように微笑んだ。


深夜、カエデは姉の墓前にいた。


「姉さん、見てる? 学園は変わったよ」


墓石に向かって、静かに報告する。


「もう誰も、感情を理由に苦しまなくていい。姉さんが望んでいた世界に、少しずつ近づいてる」


風が吹いて、供えた花が揺れた。まるで、姉が微笑んでいるように。


「ユメという素敵な人にも出会えた。姉さんに会わせたかったな」


涙が一粒、頬を伝う。でも、それは悲しみの涙ではなかった。


翌朝、学園の掲示板には新しいポスターが貼られていた。


『第1回 全国感情表現サミット』

『テーマ:心でつながる未来』

『ゲスト:各界で活躍する感情表現のプロたち』


生徒たちが興奮気味に話している。


「有名なアーティストも来るって!」

「私たちの活動が、全国に広まるんだ」

「歴史が変わる瞬間に立ち会えるなんて」


ユメとカエデは、その様子を感慨深く見つめていた。


「一年前は、想像もできなかった」


「でも、これが本来あるべき姿だったんだ」


二人の前を、新入生たちが駆けていく。手には楽器やスケッチブック。みんな、自分の感情を表現する方法を見つけている。


EMMAの優しい声が、校内放送で流れた。


「本日の感情指数、『希望』が最高値を更新しました。素晴らしい一日の始まりです」


新しい時代の扉は、もう完全に開かれていた。

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