キューピット標本室 ~恋が禁止された学園で、あなたに出会った~
ソコニ
第1話 ようこそ、恋心禁止学園へ
四月の朝、私は震えていた。
胸に装着された感情センサーが、緑色にゆらゆらと光る。正常範囲。でも、本当は心臓がバクバクしていて、今にも黄色に変わりそうだった。
「第六感情学園へようこそ」
校門の電光掲示板が無機質な声で私を迎えた。転校生の朝倉ユメ、十三歳。この学園では、恋愛は重罪。好きになった瞬間、人生が終わる——そんな噂を聞いていた。
教室に入ると、生徒たちの視線が一斉に突き刺さった。みんなの制服の胸元で、感情センサーが規則正しく緑に点滅している。まるでロボットみたい。
「転校生の朝倉さんね。席はあそこよ」
担任の先生が指さした窓際の席。隣には誰もいなかった。
最初の授業は「感情解剖学」。理科室を改装した特別教室に移動すると、正面のモニターに巨大な心臓の3D映像が映し出された。
「今日は恋愛感情の解剖を行います」
白衣を着た教師が淡々と説明を始める。
「恋愛感情が発生すると、脳内でドーパミンが過剰分泌されます。これは一種の中毒症状であり、正常な判断力を奪う危険な状態です」
モニターの心臓が、どくん、どくんと脈打つ。赤く染まっていく血管。生徒たちは無表情にノートを取っている。
私だけが、息苦しかった。
「感情は、ウイルスです」
教師の言葉に、教室がざわついた。いや、ざわついたのは私の心だけかもしれない。
「特に恋愛感情は感染力が強く、集団の秩序を乱します。だからこそ、我々は感情を管理し、制御しなければならないのです」
その時、教室のドアが開いた。
入ってきたのは、見たことのない男子生徒だった。
整った顔立ち。でも表情は氷のように冷たい。生徒会の腕章をつけている。
「副会長のカエデです。新入生の感情チェックに来ました」
声まで無機質だった。彼の感情センサーは、揺らぎひとつない完璧な緑。まるで心が死んでいるみたい。
カエデと呼ばれた彼は、生徒一人一人の前を通り過ぎていく。私の番が来た。
「朝倉ユメ」
名前を呼ばれて、びくっとした。その瞬間、私の感情センサーが黄色く光った。
注意信号。
教室中の視線が私に集まる。カエデの瞳だけが、何も映していなかった。
「初日から注意信号か。お前みたいな感情ダダ漏れは、すぐに排除される」
冷たい言葉。でも、なぜだろう。彼の瞳の奥に、一瞬だけ何かが揺れた気がした。
「次の授業までに落ち着かせろ。でないと——」
言いかけて、彼は口を閉じた。そして私の顔を見つめたまま、小さくつぶやいた。
「ここでは、誰かを好きになった瞬間、人生が終わるの」
まるで自分に言い聞かせるような声だった。
カエデが教室を出て行った後も、私の心臓は鳴り止まなかった。感情センサーは黄色から緑に戻ったけれど、胸の奥で何かがくすぶっている。
これが、恋なの?
違う。そんなはずない。私は首を振った。
午後の授業は「感情抑制訓練」。体育館に集められた生徒たちは、ペアを組んで向かい合った。
「相手の目を見つめ、何も感じないように訓練します。心拍数が上昇した者は失格です」
私のペアは、クラスの女子だった。彼女の瞳は虚ろで、まるで人形みたい。
三分間、見つめ合う。
一分経過。問題ない。
二分経過。少し息苦しい。
三分——
ピピピッ!
誰かの感情センサーが赤く光った。失格者が出た。体育館の隅に連れて行かれる生徒。顔は見えなかったけど、肩が震えていた。
「感情は制御できます。訓練次第で、誰でも」
教師の声が響く。でも、本当にそうなの? 好きになる気持ちを、止められるの?
放課後、私は一人で教室に残っていた。窓の外では、他の生徒たちが無表情に下校していく。まるで感情を持たない人形の行進みたい。
「まだいたのか」
振り返ると、カエデが立っていた。
「あの……午前中はすみませんでした」
「謝る必要はない。お前が感情的なのは、まだこの学園に慣れていないからだ」
そう言いながら、彼は窓際まで歩いてきた。夕日が彼の横顔を照らす。
「でも、気をつけろ。ここは普通の学園じゃない」
「どういう意味ですか?」
カエデは振り返らずに答えた。
「旧校舎の地下に、標本室がある。退学になった生徒の恋心が、瓶詰めにされて保管されているという噂だ」
背筋がゾクッとした。
「それって、都市伝説ですよね?」
「さあな。でも、退学になった生徒が二度と戻ってこないのは事実だ」
カエデの声は相変わらず無感情だったけど、なぜか悲しそうに聞こえた。
「なぜ、そんな話を私に?」
やっと彼が振り返った。夕日を背にした彼の表情は、逆光で見えない。
「お前の感情センサー、さっきから黄色と緑を行ったり来たりしている」
えっ、と胸元を見る。本当だった。
「それは……」
「危険信号だ。お前はこの学園に向いていない」
冷たい宣告。でも、次の瞬間、彼は小さな声で付け加えた。
「だから、気をつけろ」
それだけ言って、カエデは教室を出て行った。
一人になった教室で、私は自分の感情センサーを見つめた。緑、黄、緑、黄。まるで私の心の揺れを表しているみたい。
窓の外を見ると、旧校舎が夕闇に沈んでいた。あそこに本当に標本室があるの? 退学になった生徒の恋心が、瓶詰めにされているの?
ゾッとすると同時に、不思議な好奇心が湧いてきた。
見てみたい。
その瓶の中に、どんな恋が閉じ込められているのか。
帰り道、私はずっと考えていた。この学園で、恋をしたらどうなるんだろう。感情センサーが赤く光って、みんなの前で晒し者にされて、そして——
退学。
でも、恋って止められるものなの? 訓練で制御できるものなの?
家に着いても、答えは出なかった。
夕食を終えて自室に戻ると、制服を脱いだ。感情センサーは制服と一体化していて、外すことはできない。お風呂に入る時も、寝る時も、ずっと私を監視している。
ベッドに横になって、天井を見つめた。
転校初日。いろんなことがありすぎて、頭がぐちゃぐちゃだ。
感情解剖学。感情抑制訓練。標本室の噂。
そして、カエデ。
彼の言葉が頭の中でリフレインする。
「お前みたいな感情ダダ漏れは、すぐに排除される」
「ここでは、誰かを好きになった瞬間、人生が終わるの」
「だから、気をつけろ」
冷たいようで、どこか優しい響き。彼は本当に感情を持たない人なの? それとも、持っているけど隠しているの?
考えれば考えるほど、胸がざわざわする。
これが恋だとしたら、私はもう手遅れなのかもしれない。
でも、まだ大丈夫。感情センサーは緑色に落ち着いている。まだ、恋じゃない。きっと、ただの好奇心。
そう自分に言い聞かせて、目を閉じた。
明日も学園に行かなきゃ。感情を制御する訓練を受けなきゃ。普通の生徒のふりをしなきゃ。
でも、本当にそれでいいの?
感情を殺して、心を凍らせて、人形みたいに生きることが、正しいことなの?
答えの出ない問いが、頭の中をぐるぐる回る。
いつの間にか、私は眠りに落ちていた。
夢の中で、誰かが歌っていた。
瓶の中に閉じ込められた、恋の歌を。
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