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 この世界の人たちはクラシック音楽というものを知らないが、音を聞き分けるしっかりした感性を持っていた。

 とは言っても、クラシックは異世界の音楽だ。

 終曲のタイミングが分からない彼らには、ちゃんとそれを示さなければならない。それは観客に対するリスペクトだった。

 その辺りはおれも笑里も心得ている。

 サン・サーンスの白鳥が終曲すると、笑里とおれはその場で観客に向かってお辞儀をした。

 そのタイミングで拍手喝采が起った。


「こんなにカラフルな曲は初めてだ!」

「エアリー最高!」

「きれいな音楽ね」

「泣けてきちゃったよ」


 人々の感想がダイレクトに伝わってくる。これがコンサートの醍醐味だ。

「続けていくよ」

 笑里はしたり顔を向けるとピアノの鍵盤に指を下ろした。

 次に演奏するのはラフマニノフの『ヴォカリーズ』だ。

 笑里の優しいピアノの旋律の中で奏でるおれのバイオリンが、夜のとばりの下りた会場に物悲しく響き渡った。

 そしてそのまま、ラベルの『亡き王女のためのパヴァーヌ』の展開へと持ち込むと、美しさの中にも悲しい旋律を奏でるこの曲に、観客たちの中から嗚咽する声が少なからず聞こえて来た。


 三曲目が終わり、会場に集まった観客の吐息があふれる中、次なる曲は、これはおれが望んだものだった。


「笑里さんが前面に出る曲を入れてもらいますよ。おれはセカンドバイオリンで、笑里さんのピアノを盛り上げますから」

 とおれが選曲した曲は――ベートーベンの『月光』だった。

「そうね。雅人君に支えられるのも悪くないかも」

 笑里はおれの意見を素直に受け入れてくれた。


 天空に月の光が輝き始めた頃、笑里は立ち上がり、山陰から顔を覗かせた月を指差した。その後笑里は観客に目を向けた。

「次の曲は『月光』という曲です」

 笑里の説明に、観客たちの視線が彼女に集中した。


「この曲は三つの楽章からなる曲で、 第一楽章は神秘的で静かな月明りを表し、第二楽章では月の光の下で踊るような楽しい曲となっています。そして第三楽章で表現するのは激しい情熱です。――この『月光』は静けさ・楽しさ・激しさの三つの感情を盛り込んだ曲なので、皆様はその違いを噛みしめてお聞きくださいませ」


 そう説明して着席した笑里は、緩やかなアルペジオの中におごそかな旋律を忍ばせ、鍵盤をなぞった。

 第一楽章は静かだが、怖さを感じる寂しい旋律を奏でた。

 笑里の美しいピアノに、おれは邪魔にならない静かなバイオリンを添えた。


 ―― 遠慮し過ぎだよ。


 笑里がクスッと笑う。

 月光に照らし出される笑里の横顔を、おれはとてもきれいだと思った。


 第二楽章に入ると、笑里ピアノが跳ねるように踊り出した。

 楽しそうな笑里のピアノに、観客たちの表情にも明るさが戻り、その場に座ったまま首を上下に振っていた。


 そして真打は第三楽章だ。

 女王・白沢笑里の真骨頂とも言える、跳躍に連弾が炸裂するピアノのアルペジオが見せ場となるのだ。


「すげえ」

「なんであんなに手が動くんだ」

「動けたとしても普通の人間なら、正確に同じ場所を弾くことなんて出来ない」


 この世界の人たちが、異世界の曲である『月光』なんて知るはずもない。

 だけど、どの世界にも音楽に対して見る目がある者は、少なからずいるものだ。いわゆる絶対音感の持ち主だ。

 繰り返すピアノの高速アルペジオを聞く中で、そんな彼らの聴覚は、笑里の鍵盤タッチに寸分の狂いがない事にも気付いただろう。


 笑里の孤高のピアノは視覚と聴覚による完璧なパフォーマンスだった。

 こうなってしまっては、おれのバイオリンなんてオマケでしかなかった。

 だけどおれは、それを悔しいとは思わなかった。

 月明りの下で『月光』を奏でる白沢笑里の姿そのものが、おれの目には神々こうごうしく映っていた。

 美弥子に感じた女王様にも引けを取らない神聖な輝きを、おれは笑里に感じた。

(おれ、この世界でもやって行けるかもしれない――)


 何となく流されてここまで来た。

 だけどおれは――。

 この世界での生き方というものを、ようやく見つけた気がした。

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