第6話:待つための決心
アメリカへの渡米が刻一刻と迫る中、海斗はなんとかして、さくらと会う機会を作ろうと必死だった。
論文の査読通過は確かに大きな喜びだったが、それがさくらとの距離を広げるきっかけになるかもしれないという焦りが、海斗の心を締めつけていた。
このまま、中途半端な関係のまま離れてしまうことだけは避けたかった。
「さくら、忙しい時にごめん。今月末の出発までに、少しでもいいから会えないかな?」
海斗はメッセージを送った。
すぐに返信が来るが、いつものスタンプはそこにはない。
「ありがとう、海斗。でも、もものこともあるし、新しい研究も立て込んでて…週末は山梨にいることが多くなりそう…」
さくらからの返信に、海斗は言葉に詰まった。
彼女がももの看病に尽力しているのは理解できるからこそ、踏み込んだ言葉を切り出せずにいた。
さくら自身も遺伝子治療の創薬研究で多忙を極めていることも理解している。
そして、海斗もまた、腎臓の機能回復の治療法に関する研究を渡米を控えてさらに急ピッチで進めていた。
互いに、大切なもののために時間を割いている。
それが、結果として二人の時間を奪い、物理的な距離だけでなく、心のすれ違いを生み出しているように感じられた。
もちろん深夜の電話での会話は続いていたが、会えない寂しさは募るばかりだった。
さくらの声は、以前よりもどこか無理をしているように聞こえる。
「さくら、無理してないか? ももさんのことは、僕も気にかけてる」
「うん、大丈夫。海斗も、向こうで頑張ってね」
言葉の端々に垣間見える彼女の遠慮と、ももより『先に幸せになってはいけない』という呪縛が、ももの闘病によって以前にも増して、さくらの言葉を封じているように感じられた。
本音を伝えきれないもどかしさが、二人の間に見えない壁のように立ちはだかっていた。
そして、ついに渡米当日がやってきた。
金曜日の夜、羽田空港の国際線ターミナル。
多くの観光客の中、大きな荷物を抱え、チェックインカウンターへ向かう海斗の足取りは重かった。
出発ロビーには、見送りのスミレが来てくれていた。
「吉岡先生、体に気をつけて。研究、期待してますからね」
スミレの言葉に、海斗はぎこちなく頷く。
その視線は、ロビーの入り口を何度も探していた。
もしかしたら、さくらが来てくれるかもしれない。
そんな淡い期待を抱いていた。
だが、搭乗時刻が迫るアナウンスが流れ始める。
「行かなくちゃ、な」
諦めにも似た呟きを漏らしたその時だった。
人混みの向こうから、息を切らして駆け寄る人影があった。
「海斗…!」
そこにいたのは、さくらだった。
職場から慌てて駆けつけてくれたのだろう。
シャツの襟にも汗が滲んでいる。
「さくら…来てくれたんだ!」
海斗の顔に、安堵と喜びの表情が浮かんだ。
さくらは、言葉にならない想いを込めて、海斗の目の前に立つ。
別れの時間が迫っている。
これ以上会えないかもしれないという不安と、募る愛情が、さくらの感情を突き動かした。
「海斗…私…」
さくらの瞳から、大粒の涙が溢れ出した。
彼女は当初、軽いハグをして、笑顔で送り出すつもりでいた。
しかし、もう会えないかもしれないという、募る不安が、さくらの心を覆い尽くすかのように支配していく。
「きっとすぐに戻るから、待っててくれる?」
海斗は、さくらの頬にそっと触れ、優しく囁いた。
その言葉が、さくらの心の奥深くに響く。
堪えていた涙が、堰を切ったように溢れ出した。
そして、さくらは、震える手で、海斗の腕を強く掴んだ。
彼女の唇が、ゆっくりと海斗の唇に近づいていく。
「んっ…!」
海斗の驚きに目を見開く中、さくらは、自分から海斗の唇に深くキスをした。
短く、しかし熱を帯びたキス。
もものこと、わだかまりのこと、そして海斗が海外へ行ってしまうこと。
言葉にできない全ての感情を超えた想いが、そのキスに込められていた。
突然のさくらの行動に海斗は驚きながらも、そのキスをしっかりと受け止めた。
搭乗を促す最終アナウンスが響く。
二人の短い再会は、あっという間に終わりの時を迎えた。
「もう行くね、さくら。待っててほしい」
海斗は名残惜しそうにさくらの手を離し、ゲートへと消えていった。
さくらは、その場に立ち尽くし、涙で霞む視界の中で、海斗の背中が小さくなっていくのを見送った。
海斗はアメリカへ。
さくらは山梨へ向かう電車に乗る。
またしても距離が、二人を引き離していく。
だが、さくらの唇には、海斗とのキスと、彼との温かな日々が、確かに残っていた。
(第6話 終)
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