会えないキミを想うウタ

真久部 脩

第1話:心の振り子


『いつか、僕も君に胸を張って会えるように…』


あの時の決意が、時折、吉岡海斗かいとを奮い立たせていた。

アフリカでの医療研修から帰国して一年。

彼は都下にある、実家の吉岡病院で内科医として多忙な日々を送っていた。


まずは目の前の患者の命を救う。

そして目標にしてきた治療法の確立を目指して研鑽を重ねる。

それが自分の使命だと信じ、脇目も振らずに仕事に没頭する毎日だった。


だが、不意に訪れる静かな瞬間に、数年前に海外へと旅立った柏木さくらの顔が、いつまでも消えない残像のように浮かび上がる。

そして、彼女との間に残る、互いの父親が同じかもしれないという、消えないわだかまりの影が、いまだに棘のように心の奥底に抜けずに残っていた。


ある日の午後、医局で医学雑誌をパラパラと見ていた海斗の指が、ふと止まった。

次の学会の案内ページ。

そこに載っていたのは、見慣れた、しかし同時に驚くべき名前だった。


柏木さくら。


彼女が海外の研究機関に所属していることは、彼女からの連絡や共通の知人から耳にはしていた。

だが、国内の学会でその名前を見るのは新鮮な驚きだ。


期待と、微かな緊張が海斗の胸に広がる。


「え、さくら、日本に戻ってくるのか…学会に出るなんて、知らなかったな」


思わず口に出た言葉に、隣のデスクでカルテを書いていた同僚の青山スミレが顔を上げた。

スミレは海斗が共同執筆者として名を連ねる腎臓病の論文の、重要な共同研究者でもある。


「どうしました、吉岡先生? 珍しく口元が緩んでますよ」


スミレがくすっと笑う。


「いや、なんでも。ちょっと知り合いの名前を見つけて。まさか学会で会うとは思いませんでした」


海斗は少し照れくさそうに視線を学会案内に戻す。


その頃、東京。

柏木さくらは、学会発表のために一時帰国し、その準備に追われていた。

膨大な資料の山を前に、コーヒーを片手に唸っていると、スマホが震えた。


画面には「桜井りょうさん」の文字。


大学時代にアルバイトしていた広告代理店の先輩で、今は妹のももの上司でもある恩人だ。


「もしもし、亮さん。どうしました?」


「さくらちゃん、今、大丈夫? もものことなんだけど、ちょっと心配なことがあってさ」


亮の声は、いつもより少し沈んでいた。

妹のももは、以前さくらへの腎臓移植のドナーになってくれており、定期的な検査は欠かせない。


「ももがどうかしたんですか? また体調崩したとか…?」


さくらの声に、焦りがにじむ。


「いや、検査の結果は特に問題ないんだけど、最近、無理してるみたいなんだ。僕と同じ広告代理店で働いてるんだけど、君も知ってる通り、仕事が不規則な上、接待も多いから。先週も随分帰り遅かったって言ってたし、ちょっと顔色も悪い日があってね…」


亮の言葉に、さくらの胸にチクリと痛みが走る。

ももに腎臓を移植してもらって以来、さくらの中には『私が先に幸せになってはいけない』という、一種の呪縛のようなものが常にあった。


ももの体調不良を聞くたびに、その呪縛が強くなるのを感じる。


「…そう、ですか。亮さん、いつももものこと気にかけてくれてありがとうございます。今度、山梨の実家に帰る時に、ももの様子を見に行きます」


「せっかく日本に帰ってきたばかりなのにごめんね。お詫びと言ってはなんだけど、学会の日、仕事で都内にいるからちょっと会って話せるかな?」


亮は移植後のさくらの様子も気にかけているのだ。


「もちろん!ももの最近の様子も色々教えてください。では当日よろしくお願いします」


そう言って電話を切ったさくらは、大きく息をついた。

自分の身を削るようにして研究に没頭するのも、ももの命を少しでも長く、健康に保つための治療法を見つけるためだ。

それは、海斗が腎臓の機能回復の治療法を研究しているのと同じ、暗黙の共通認識だった。


学会当日。

会場のロビーは、白衣を纏った医師や研究者でごった返していた。海斗は青山スミレと、発表内容について最終確認をしていた。


「吉岡先生の解説、いつも分かりやすいって評判ですよ。今回もきっと反響がありますね」


スミレが海斗に顔を近づけ、にこやかに問う。


「いえ、青山先生のデータがあってこそですよ」


海斗も笑顔で応じ、二人が談笑し、時折視線を交わす。

その表情は、互いへの信頼と、研究に対する深い親しみに満ちているように見えた。


その時、ロビーの反対側から、スラリとした女性が歩いてくるのが見えた。

その隣には、親しげに笑う男性の姿も。


柏木さくらと、桜井亮だ。

さくらは亮と楽しそうに話している。


「さくらちゃんの英語、あの頃も素晴らしかったけど、もう完全にネイティブだね!頑張ったんだね!」


亮の顔には親愛の情が浮かんでおり、さくらもそれに笑顔で応えている。


「亮先輩、相変わらず気遣いが細やかで素敵です!」


その様子に海斗は思わず目を細めた。

さくらもまた、ちらりと海斗の方を見た。


一瞬、目が合う。


時間が止まったかのように感じたが、すぐにさくらは視線を逸らし、亮との会話に戻ってしまった。


その瞬間、海斗の心に微かな「ゆらぎ」が生まれた。

胸の奥に、説明できないざわめきが広がる。


滞在先のホテルに戻ったさくらは、学会の余韻に浸る間もなく、シャワーを浴びてベッドに倒れ込んだ。

しかし、疲れているはずなのに、なかなか寝付けない。


脳裏に焼き付いているのは、ロビーで見た海斗と青山スミレの姿だ。

海斗があんなに楽しそうに笑っているのを、自分はしばらく見ていない気がする。


海外で離れてから、メールでのやり取りは細々と続いていたが、表情までは分からない。

スミレの顔が、自分の顔と重なるように見えてくる。


「なんであの人にあんな顔するのっ!」


さくらは、枕に顔を埋めて、ベッドの上でジタバタと悔しがった。

頭の中では、海斗の優しい笑顔と、スミレとの楽しげな会話がループする。


悔しさと、少しの嫉妬。そして、海斗への抑えきれない恋心。

彼に会えた喜びよりも、見慣れない女性と親しげにしている姿への動揺の方が大きかった。


「はぁ…私、バカみたい…」


ももへの罪悪感から、自分の気持ちに蓋をしてきたはずなのに。

海斗が他の女性と親しげにしているのを見るだけで、こんなにも心がざわつくなんて。


さくらは、まだ見ぬ明日への不安と、海斗への複雑な想いを抱えながら、静かに目を閉じた。


(第1話 終)


次回:「準備中の想い」

学会でのすれ違いを経て、さくらと海斗は再会する。

お互いの誤解が解けるのだろうか?

そして二人の新たな愛の始まりは訪れるのか?


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