私の生きる意味は君だった

(1)




「映、映……っ」


 がらんとした美術室。

 倒れた映を抱き起こし、私はぐったりと力を失ったその体を抱きしめていた。 

 そしてだらりと落ちている映の手を握りしめ、映の名前を呼び続ける。


 生気を失った映は白い人形のようで、まるでもう帰ってきてくれないんじゃないかと、そんな漠然とした不安に駆られる。


「映、お願い。目を覚ましてよ……」


 涙にびしょびしょに濡れた声で請うた時。私の声に答えるように長い睫毛が静かに揺れ、瞼の下から色素の薄い瞳が現れた。


「映っ……」


 おぼろげな瞳に私を映し、目を覚ました映は、自分の手を握りしめていた私の手をそっと解いた。


「ごめん……でも俺に触るな」


 やんわりとした、けれどたしかな拒絶。私は小さく息を呑み、躊躇いながらも映の右手を握っていた手を床に下ろす。

 抱き起こしている手からも逃れたいようだったけれど、自分の力で起き上がる力はまだ映にはなかった。


 私の腕の中、映はわずかに眉を寄せ、切ない色を表情に浮かべた。


「俺、日依に謝らなきゃいけないことがあるんだ……」

「なに……?」


 できる限り苦しい表情はしないようにしているようだけれど、呼吸の音が今にも途切れてしまいそうなほど微かだ。

 私はただただ、空気に溶けてしまいそうなその声をこぼしてしまわないよう、必死に耳を傾ける。

 映は、ほんの少しの躊躇いの間ののち、意を決したように薄く唇を開けた。


「……日依の余命を奪ってたのは、俺だったんだ」

「え……?」


 いったい、なんて……?


 映の言葉を理解できない。

 そんな私の動揺を当たり前のもののように受け取り、映は微かな声で続ける。


「俺は、この手で触れた人間の余命を食べてしまう……。だから日依の命も食べてたんだ。日依の命を、自分の栄養にして生きてた」

「急に、なに言って……」

「俺には死神の血が混じってるらしい……」


 映の口から語られた話はあまりに荒唐無稽で、言葉の外郭を捉えるのに時間がかかる。


 ようやく言葉の外郭を捉え、そして本質を理解しようとして──けれど立ち止まってしまう。

 信じられない。信じられるようなことではない。嘘だと否定する方がよっぽど簡単だろう。

 でも無下にすることはできなかった。だって映の言葉だから。映が命を懸けて紡いでいる言葉だから。


 やがて映の告白は、じわじわと心の中で現実としての形を帯びていく。

 そうする中で胸に湧いた疑問を、からからに乾いた唇で映にぶつけていた。


「じゃあ、もし人の命を食べなかったら、映はどうなるの……?」

「死ぬだけだ」


 氷の上に文字を滑らせるように、つかえもせず、映はひと息で告げた。


「え……?」

「ごめんな。全部俺のせいだった。俺が日依の未来を奪った……。どんなに謝っても償いきれない……」


 映が苦痛を表情に滲ませる。胸を切るような映の後悔が痛いほどに伝わってくる。


「……やっぱり俺は生まれてこなきゃよかった……」


 私の宝物を真っ向から否定するその言葉は、心に深い傷を刻んだ。

 鼻の奥がじんと痛む。

 悔しくてやるせなくて許せなくて、気づけば私は涙声を張り上げていた。


「ばか! そんなこと言わないで……!」


 突然の大声に、映が虚をつかれたような目を見張る。


「ひ、よ……」

「映がいてくれなきゃ私の人生意味なかったっ。映が私に生きる意味をくれたんだよ……っ」


 映。私はね、映以外が満ち足りた世界よりも、映がいる暗闇の方がいい。

 どんなに苦しくたって怖くたって、映の存在がすべてを包み込んでしまうの。だって映の存在は、私の心を照らす陽だまりだから。


 私は縋るように映の手をとり、自分の心臓の辺りに押し当てた。

 映の手にわずかな力がこもり、映の動揺を手のひらを通じて感じとる。


「や、めろ。俺に触ると日依の命が……」

「やだ! 生きててほしいの……! お願い……っ、私の命食べてよ……」


 私の大声は、次第に映に縋りつくよれよれの泣き声に変わっていった。


 映の心情を映し出すように、瞳のさざ波が音もなく揺らぐ。

 だけど映はその口を噤もうとはしなかった。


「……ごめん」


 なにかを決意したように息を吐き出し、柔らかく、でもたしかな声で囁く。


「最後のわがままだ。俺は、もうなんの命も奪いたくない」

「……っ」

「自分の命をまっとうする、ただの人間に戻りたいんだ」


 切実に吐き出された映の思いは、私の思いもなにもかもを封じ込めた。


 ……ずるいよ、映。

 そんなふうに言われたら、私がなにも言えなくなるのを知って、言ってるんでしょう。


 映はもう決めたんだね。決めてしまったんだね。

 それならば私にはもう、その意思を曲げることはできないのだ。

 だって映のために今の私にできるのは、きっと映の意思を受け止めることだけ。いつだって自分のことよりまわりを慮る映が、他人の命を奪って自分が生き永らえたら、それは多分彼を苦しめ続けることになると、幼なじみの私には痛いほどわかってしまうから。

 きっと彼は今でさえ、きっと死ぬほど自分を恨んで苦しんでいる。それは多分映の望まない人生だし、これ以上映の尊厳を奪うなんて酷なこと、したくなかった。


 それでも──。

 映のことも映の思いもすべてを大切にしたいのに、どうしてうまくいかないのだろう。


「うう……」


 なす術を奪われた私は、もがくように映の体を抱きしめた。

 映の手はだらんと床に落ちたまま。それでも抱きしめ返せない代わりに、私の顔に頬をすり寄せてきた。そして。


「日依、ありがとう……」


 じんわり噛み締めるように、温度のある声で囁いた。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る