第7話:街の混乱と国王の「誓い」
――さらにひと月ほどが経った頃。
王都シアルドュンの街も、日に日にその活気を失っていきました。
かつて市場に溢れていた賑わいは消え、人々は恐怖と不安に顔をこわばらせ、その瞳には諦めの色が濃く浮かんでいました。
王都の大通りに面した老舗のパン屋。
その亭主は、いつも早朝から窯に火を入れ、香ばしいパンの匂いを街に満たしていましたが、最近ではその窯の火も小さくなり、彼の顔には以前のような朗らかさがありませんでした。
疲労と絶望が、その豊かな表情を奪い去っていたのです。
「親父さん、本当にパンはないのかい?うちの亭主が、もう三日もまともに食べてないんだ。お腹が空いてぶっ倒ちまったって…」
亭主の奥さんが、藁にもすがる思いでパン屋の戸を叩きました。
亭主は申し訳なさそうに首を振るしかありませんでした。彼の店には、小麦の袋がほとんど残っていなかったのです。
「すまねぇ、お客さん……
最近は小麦の仕入れが滞っててな……
東の道も、西の道も閉鎖されちまった上に、家畜の病も蔓延して、遠くの村からの運搬も難しくなってるらしい。
だから、粉もなかなか手に入らねぇんだ。私らも、もうあと数日分しかないんだ…」
亭主の声は、絶望に打ちひしがれていました。
パン屋の奥から聞こえる、まだ幼い娘の、乾いた咳と寝息が、亭主の心に重くのしかかります。
「このままでは、皆が飢えてしまう…娘も…」
彼の握りしめた拳には、無力感と、怒りのようなものが宿っていたのです。
街を行く人々も、皆うつむき加減で、会話は途切れがちでした。
街角では、痩せ細った子供が親の服の裾を引いて、何かを訴えています。
「ねえ、聞いてる?うちの裏の畑の作物も、この前急に枯れてしまってさ…まるで呪われているみたいに、一晩で黒くなって崩れたんだ。」
「ええ、うちもよ。
この病は一体なんなのかしら……
医者も首を傾げるばかりで、もう手の施しようがないって…」
「王宮の井戸水まで濁ってるって話よ……
もう、神の加護なんて、とっくに無くなったんじゃないのかしらね。
王様は本当に大丈夫なのかしら?何か隠してるんじゃないの?」
子連れの女性が、顔色の悪い子供を抱きかかえながら、ひそひそと会話を交わしていました。
彼女たちの表情には、隠しきれない疲労と絶望が滲んでいたのです。
不安はデマを呼び、デマはさらなる疑心暗鬼を生みました。
「王が何かを隠している」
「神に見捨てられたのだ」
といった根も葉もない噂が、水面に広がる波紋のように街中に広がっていきます。
市場の片隅では、わずかな水の配給を巡って男たちが争いを始め、小競り合いはたちまち暴力へと発展しかけていました。
かつて互いを助け合った人々は、今や互いを疑い、奪い合う存在へと変貌しつつあったのです。
夜には
「王宮から不気味な光が見えた」
「異形の影が、城壁を乗り越えようとしていた」
と流言が飛び交い、夜警の兵士が不審な影を誤認して市民に襲いかかろうとする事件まで発生しました。
王都の北門を守る兵士たちは、もはや夜通し響く不気味な鳴き声に慣れてしまったかのように、無言で槍を構えていました。
夜空は黒煙に覆われ、星の光は届きません。
数日前まで、彼らはこれを「遠吠え」や「風の音」だと笑い飛ばしていましたが、今ではその音が、大地を這いずる何かの「足音」に聞こえるようになっていました。
時折、黒煙の向こうに、不気味に揺らめく影が見える気がしました。
「おい、あの音、どんどん近づいてきてないか?昨夜は、もっと遠くからだったはずだ。まるで、この都を包囲しているかのように…もう、持ち場を離れたい…」
同僚の兵士が震える声で囁きました。
彼の顔は青ざめ、手元の槍を握る手が震えていました。
交易隊の途絶は、単なる遅延ではないことを、彼らは直感的に理解していたのです。
北門の外では、森の樹々が不自然にざわめき、その奥から異様な気配が押し寄せてくるのを感じます。
不穏な空気は、もはや漠然とした不安ではなく、具体的な恐怖としてシアルドュンを蝕んでいたのです。
人々は家の中に閉じこもり、ひそひそと噂話を交わします。
「王宮が何もしてくれない」
「神の加護は、もうないのか」
「異形の影が、ついにこの都まで来たというのか」
そんな不満や絶望の声が、街のあちこちから聞こえてくるのです。
王都に住む人々は、これまで経験したことのない恐怖と混乱に打ちひしがれ、かつての希望に満ちた都の姿は、見る影もありませんでした。
夜になると、街は死んだように静まり返り、聞こえるのは風の音と、遠くで響く不気味な咆哮だけでした。
■突如として訪れる悲劇
――そして、不気味な静けさが王都を覆った、その深夜。
これまで遠くから聞こえていた咆哮と地鳴りが、突然、すぐそこから響き渡るようになりました。
それは、大地を揺るがし、空気を震わせるほどの轟音でした。
王宮の窓が激しく揺れ、城壁の石が軋む音が聞こえます。
遠くで、悲鳴のような声が聞こえました。それは、王都の最北端に位置する兵士たちの、恐怖に引きつった断末魔の叫びでした。
「来たか……!」
歩国王は書斎の窓から夜空を見上げました。
黒い煙が、かつてない速さで王都の空を覆い尽くしていきます。
その煙の向こうには、数えきれないほどの異形の影が蠢いているのが見えました。
王都の城壁が、まるで紙切れのように崩れ落ちるのが、彼の目にはっきりと映りました。
それは、長きにわたる平和の終わりを告げる、絶望の序曲だったのです。
王都シアルドュンの朝は、いつもと変わらぬ穏やかな光で始まったはずでした。
鳥のさえずりが聞こえ、東の空は僅かに白み始めていました。
しかし、その静寂は、突如として、そして容赦なく破られたのです。
最初に聞こえたのは、地底深くから響き渡るような、鈍く重い唸り声でした。
それは王宮の石造りの床を伝い、ジョニ―の足の裏に不気味な振動として伝わりました。
まだ寝ぼけ眼のジョニ―は、何が起こったのか理解できず、寝台の上で身を固めました。
次に聞こえたのは、遥か北方の山脈の方角で、何かが大規模に崩壊する轟音。
それは瞬時に大きくなり、王宮全体を根元から揺るがすほどの激しい震動へと変わっていったのです。
壁に飾られた絵画が傾き、燭台が倒れて床に散らばります。
ジョニ―は寝台から転がり落ち、その激しい揺れに体が浮き上がるようでした。
窓の外を見ると、北方の山脈の向こうから、恐ろしいほど急速に黒煙が立ち上り、瞬時に朝の澄んだ空を覆い尽くしていきます。
その黒煙は、まるで巨大な怪物が口から吐き出す瘴気のように、シアルドュンの上空へと広がり、太陽の光を奪い去り、世界を漆黒の闇へと変えていきました。
「ジョニ―!どこだ!無事か!」
普段はどんな時も冷静で、穏やかな父・歩国王の声が、焦燥と怒り、そして聞いたことのない切迫感をはらんで響きました。
その声には、王としての毅然とした響きの中に、愛する息子を案じる父親の必死さがにじみ出ていました。
ジョニ―は身の安全も顧みず、父の声を追って部屋を飛び出しました。
王宮の中は、既に混乱の坩堝と化していました。
「生命の護り手」である騎士団の兵士たちが慌ただしく剣を抜き、鎧の擦れる音と、怒号が飛び交った。
メイドたちは悲鳴を上げ、幼い侍女たちは泣き叫び、行き場を失ったように廊下を右往左往していました。
畑 愛美もまた、顔を青ざめさせながら、王妃を探して廊下を走っていました。
壁に飾られたタペストリ―が激しく揺れ、高価な花瓶が床に落ちて砕ける音が響き渡ります。
廊下でジョニ―を待ち受けていたのは、顔色をなくした母・スクプタ―王妃でした。
彼女はジョニ―の姿を見つけると、血相を変えて駆け寄り、彼を強く、強く抱きしめました。
その腕は小刻みに震え、震える声で言いました。
彼女の目には、既に涙が溢れていました。
「ジョニ―、大丈夫よ。私が必ず守るから。どんなことがあっても、あなただけは…」
私の言葉が終わるか終わらないかのうちに、王宮の分厚い城壁が、耳をつんざくような轟音と共に崩れ落ちました。
巨大な岩が、粉塵を巻き上げながら砕け散り、兵士たちの悲鳴が轟音に飲まれました。
まるで紙細工のように、王国の礎であった堅牢な城壁が、次々と押しつぶされていくのです。
砂煙が舞い上がり、粉塵が視界を遮ります。
その煙の向こうから、異形の者たちが、濁った赤い目を血走らせ、禍々しい光を放つ得物を手に、まるで堰を切った濁流のように王宮の中へとなだれ込んできました。
彼らの姿は、あまりにも悍ましく、スティ・ロンハ―ト王国の民が決して目にしたことのない、悪夢のような光景でした。
彼らは、人間を模してはいますが、皮膚は灰色がかり、表面には不気味な光沢を帯びていました。
指先は鋭い鉤爪と化し、その口元からは粘液が滴り、そこから覗く牙は獲物を切り裂くために鋭く研ぎ澄まされていました。
彼らの足音は重く、壁を砕くたびに、王宮全体が震えるようでした。
彼らの間からは、さらに巨大な、人の形をしていない異形も姿を現し、王宮の柱をへし折っていたのです。
彼ら異形を操る存在は、まるで王宮の崩壊を見届けるかのように、高く、高く、虚空に浮かび上がっていました。
身体中に紫色の紋様が浮かび上がり、それは禍々しい輝きを放ち、異形たちの動きを統率しているように見えました。
その存在こそが、イシュルド。アスノ―ト・ソラシスが「扉」の奥で得た知識が、彼の肉体と精神にあまりに膨大で異質な情報が流れ込んだ結果、耐えきれず変質し、新たな存在へと再構築されたものでした。
イシュルドは、虚空に浮かびながら、その冷たい視線を王宮の奥、アスノ―ト・ソラシスの思念が宿る歩国王の元へと向けていました。
彼の目的は、ソラシスの「欠けた思念」を取り戻し、自身の存在を完全なものにすることでした。
それは、肉体が心を求める、彼にとって当然の悲願だったのです。
ソラシスの「赤い本」を取り戻し、自身を完全な存在とするため、イシュルドは異形たちを解き放っていたのです。
「スクプタ―!ジョニ―を頼む!早くここから…!」
歩国王の叫び声が聞こえました。
歩国王は、最前線で異形の者たちと対峙していました。
彼の右腕は、異様な光を放っていました。かつて「扉」の奥で受けた呪いの証が、彼の皮膚に黒い線となって走り、瞬時に複雑な紋様を形成し、禍々しい青白い光を放ち始めていたのです。
その光は、王宮の闇を切り裂き、異形の者たちを怯ませるかのように閃きます。
歩は紋様の力を振るい、異形たちを次々と薙ぎ倒していきます。
剣を振るうたびに、彼の体からは血が滲み、精神を蝕む苦痛が伴っていましたが、彼はそれを微塵も感じさせません。
その剣捌きは、もはや人間の域を超えていました。
彼の背中からは、今まで見たことのない、圧倒的な威厳と悲壮感が漂っていました。
しかし、敵の数はあまりにも多く、まるで無限に湧いてくるかのように次々と王宮の奥へと侵入してきます。
騎士団の兵士たちが次々と倒れていきます。
黄身斗の姿も、必死に戦う騎士たちの列の中にありましたが、その顔には絶望の色が浮かんでいました。
彼の周りでは、憲兵隊の仲間たちが次々と異形の鉤爪に引き裂かれ、血飛沫が舞い、絶叫が響き渡ります。
「行きなさい、ジョニ―!早く!」
スクプタ―王妃は、ジョニ―の小さな肩を強く押し、彼の背中を叩きました。
その目には、悲しみと、そして揺るぎない決意が入り混じった涙が浮かんでいました。
彼女はジョニ―の胸に、かつて父がジョニ―に贈った小さな木彫りの鳥の飾りを握らせました。それは、ジョニ―がまだ幼い頃に、父が自ら彫ってくれた、大切な思い出の品でした。ひんやりとした木彫りの感触が、ジョニ―の手に伝わります。
「これは、あなたを守るお守りよ。いい?決して、振り返ってはいけないわ。どんなことがあっても、走るのよ!あなたが、この国の…希望なのだから…」
私の言葉と同時に、王宮の奥深くへと続く隠し通路の扉が、軋んだ音を立てて開きました。
その通路は、アスノ―ト・ソラシスの守護を固めた大図書館アズティルの最下層にある「禁止区域」へ続く秘密の道でもありました。
通路の先には、大図書館アズティルへ続く地下道へと繋がる、わずかな光が見えました。
私はジョニ―をその中に押し込むと、躊躇なく扉を閉めようとしました。
ジョニ―は、最後に見たお母さんの姿を、生涯忘れることはありませんでした。
涙で滲んだその顔は、まるで燃え盛る炎のように美しく、そして覚悟に満ちていました。
その瞳は、ジョニーの未来だけを、ただひたすらに見つめていたのです。その一瞬、私の脳裏に、夫・歩の顔がよぎりました。
共に歩んだ日々、交わした誓い、そして何よりも、この愛する国と民を守ろうとした彼の苦悩。
「ああ、歩……もう、二度と会えないのですね。
私の愛しいジョニ―、まだ幼いあなたには、私のこの決断の重さも、これが永遠の別れとなることも理解できないでしょう。
それが、せめてもの救いだと、今はそう思うしかありません……
この国を、そしてあなたを…
守りきれなかった私を、どうか許して…どうか、生き延びて…」
私の最後の言葉は、王宮の崩壊音にかき消されそうになりました。
「お母さん!」
ジョニ―が絶叫した瞬間、背後から轟音と、お母さんの短く、しかし魂を削り取るような絶叫が聞こえました。
それは、王宮の崩壊と、スクプタ―王妃の命が尽きたことを告げる、あまりにも残酷な音でした。
ジョニ―の心臓は、まるで引き裂かれるかのように激しく脈打ちました。頭の中が真っ白になり、足が竦みます。
振り返りたかった。
お母さんの元へ駆け寄りたかった。
黄身斗おじちゃんはどこに?父は?皆は無事なのか?頭の中を様々な疑問と恐怖が駆け巡りました。
背後からは、異形たちの咆哮と、金属が砕けるような、肉を引き裂くようなおぞましい音が追いかけてきます。
王宮全体が崩壊し、重い土煙と黒い瘴気が通路の奥まで流れ込んできました。
息をするのも苦しい。
しかし、お母さんの言葉が脳裏をよぎります。
「決して、振り返ってはいけないわ」
彼は、その言葉に縛られるように、そして突き動かされるように、暗闇の通路を、ただひたすらに走り続けました。
小さな木彫りの鳥を握りしめる手に、汗が滲み、力が入りすぎてもはや痛みすら感じませんでした。
逃げ惑うジョニ―の耳には、兵士たちの断末魔、メイドたちの悲鳴、そして王宮の石が砕け散る轟音が、地獄のBGMのように響き続けました。
彼は、転びそうになりながらも、決して止まりませんでした。
背後で何かが崩れ落ちるたびに、冷たい恐怖が背筋を這い上がったのです。
その夜明けに、シアルドュンの王宮は完全に炎に包まれました。
スティ・ロンハ―ト王国の栄華は、一瞬にして瓦礫と化し、美しかった庭園の「平和の蕾」は、血の色に染まった灰の中に埋もれました。
ジョニ―は、闇の中をただひたすらに走り続けました。
地下道の冷たい空気が、彼の熱くなった頬を撫でます。彼の頬には、熱い涙が流れ落ちていました。
その涙は、単なる悲しみではなく、父とお母さんへの限りない愛情であり、そして、自分だけが生き残ってしまったことへの、幼いながらの絶望でした。
彼の幼い心に、この日、決して消えることのない深い傷と、故郷を、家族を奪われた者だけが抱く、漠然とした復讐の念が刻まれたのです。
彼は、生き残らなければならない。
この悲劇の真実を、いつか必ず暴き出すために。そして、この世界に、再び平和を取り戻すために。
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