第3話:王宮の陽だまり

第一王朝時代、歩(アユム) がスティ・ロンハート王国の初代国王として国を治めていました。

王都シアルドゥンの中心に位置する王宮で、幼いジョニー(5歳)は穏やかで愛情に満ちた日々を過ごしていました。

彼の日常は、両親である長谷川・歩国王(35歳)とスクプター王妃(36歳)の惜しみない愛情、そして親代わりとして深く愛情を注ぐ側近、中川黄身斗(30歳)との揺るぎない絆によって彩られていました。

ジョニーにとって、父・歩は単なる威厳ある国王ではありませんでした。彼は、知と優しさを併せ持つ、最も尊敬する存在でした。

しかし、国王としての職務はあまりに多忙で、ジョニーと一緒に過ごせる時間は限られていました。


「父上! 今日はジョニーと遊んでくれる?」


幼いジョニーが、執務室から出てきた父の服の裾をぎゅっと掴んで見上げました。歩国王は一瞬、顔に疲労の色を浮かべましたが、すぐに優しく微笑み、ジョニーの頭をそっと撫でました。


「ああ、もちろんさ、ジョニー。今日は特別に、お前を世界最大の大図書館アズティルへ連れて行こう。お父さんのお気に入りの場所だ。」


ジョニーの顔はぱっと輝き、喜びの声を上げました。

父が公務の合間を縫ってジョニーをアズティルへ連れて行ってくれる時間は、何よりも特別な宝物でした。

大図書館アズティルでの学びシアルドゥンの王宮大図書館アズティル。

その深く、静かな知識の海で、幼いジョニーは好奇心いっぱいの目を輝かせていました。

彼は、この国、スティ・ロンハートの宝であるアズティルの書物と紋様が大好きでした。壁一面に並ぶ古びた書物の匂い、そして遠くから潮の匂いが混じり合う、不思議な空間。

5歳になったばかりのジョニーは、王妃の膝の上で絵本を読んでもらうのが、何よりも幸せな時間でした。


「おかあさま、このおへや、なんだかとってもいいにおいがするね!」


ジョニーが目をきらきらさせて言うと、王妃は優しく微笑み、彼の小さな頭をそっと撫でました。


「ええ、そうね。たくさんの古い本と、遠い海の風の匂いが混ざり合っているのよ。ここは、この世界中の色々なことが書かれている、とっても素敵な場所なのよ、ジョニー。」


王妃はいつも優しい声で、この世界の物語や、古の時代に存在したというアスノートの紋様の不思議な力を語ってくれました。

ジョニーは、その話を聞くたびに、目を大きく見開いて

「ねぇ、おうひさま、この紋様って、ほんとにお空を飛べるようになるの?」

と尋ねました。

王妃はくすくす笑いながら、彼の小さな頭を撫でてくれました。


「ジョニーの夢は、お母さんがこの紋様よりもずっと高く、叶えてあげるわ」

彼女の指先は優しく、その温もりはジョニーにとって何よりの安心でした。

アズティルは大理石造りの巨大な建物で、中に一歩足を踏み入れると、紙と古びたインクの混じった独特の香りが鼻腔をくすぐりました。

それは、この場所がどれほどの知識を蓄えているかを物語っていました。広大な書架の間には、歩が若い頃、共に知識を貪った親友、アスノート・ソラシスの面影が宿っているようでした。

この大図書館は、ソラシスの「扉」から得た膨大な知識の一部を基に、歩がその夢を引き継いで築き上げたものでした。

歩の腰に提げられた革製の小さなバッグが、ふとした拍子にそっと揺れます。

その中には、歩が使った思念の鍵によって、ソラシスの最も大切にしていた赤い本にその思念が宿り、歩にのみ知覚できる存在となっていたのです。

ソラシスは、歩にとって単なる友ではなく、最も信頼できる「相棒」でした。

歩は、ジョニーが他の本に夢中になっている隙に、そのバッグにそっと触れ、微かに頷きました。

「…ソラシス、お前もこの景色を見ているか?」 彼の口元には、かすかな笑みが浮かんでいました。

書架の間を歩きながら、父は様々な書物の話をしてくれました。


「ジョニー、この本に描かれているのは、遥か昔の『扉』を探し求めた賢者の物語だよ。世界には、まだ私たちが知らない不思議なことがたくさんあるんだ。」


父の瞳は、知的好奇心に満ちてきらめき、ジョニーはその輝きに吸い込まれるように、父の言葉一つ一つに聞き入りました。

ジョニーが手に取った絵本に描かれた生き物の名前や、遠い国の風習について、父は一つ一つ丁寧に教えてくれました。


「この動物はね、もう今では見られないけれど、昔は森にたくさんいたんだ。どうして今はいなくなったと思う?」


「うーん…みんな、どこか遠くへ行っちゃったのかな?」


ジョニーの小さな問いかけに、父は優しく微笑みました。

父の問いかけは、ただ知識を与えるだけでなく、ジョニー自身に考えさせることを促し、幼い彼の知的好奇心を大きく刺激しました。


■国王の願い


天気の良い日には、王宮の広大な庭園を共に散策しました。

父は、咲き誇る純白の「平和の蕾」を指差し、その花がスティ・ロンハート王国にとってどれほど大切な存在であるかを静かに語り聞かせました。


「ジョニー、この花のように、この国がいつまでも平和でありますように。それがお父さんの願いなんだ。」


「うん! ジョニーも、このお花みたいに、みんなに優しい気持ちを届けたいな!」


ジョニーは小さな手を伸ばし、そっと花びらに触れました。

庭園の隅にある小さな畑で、父は自ら土に触れ、作物が育つ様子をジョニーに見せることもありました。

その時、父はいつもジョニーの小さな手を自分の大きな手で包み込み、優しく語りかけました。


「ほら、ジョニー。小さな種からこんなに大きな芽が出るんだ。命を育むというのは、とても尊いことなんだよ。」


ジョニーは、父の穏やかな話し方と、時折見せる茶目っ気のある笑顔が大好きでした。

父の大きな手と温かい眼差しは、ジョニーの心の奥底に、平和と安心感を深く刻んでいきました。


■王妃の愛情


母・スクプター王妃は、ジョニーにとって、文字通りの「陽だまり」でした。

彼女の無条件の愛情は、ジョニーの幼い心を常に温かく満たしていました。

夜、ジョニーが眠りにつく前には、必ず母がベッドサイドに座り、透き通るように美しい声で子守歌を歌ってくれました。


「お母さん、今日ね、お父さんと新しいお花を見つけたんだよ」

ジョニーが目をきらきらさせながら話すと、王妃は優しく微笑み、彼の髪を撫でました。


「そう、素敵なお花だったでしょうね。さあ、今夜はどんな夢を見たい?」


「静かな夜に、星が輝く。小さなジョニー、夢の中へ。お母さんの歌声が、きみの夢を守るわ…」


その歌声を聞いていると、どんな小さな不安も消え去り、ジョニーは深い安らぎに包まれました。

歌い終わると、母はジョニーを優しく抱きしめました。


「おやすみ、私の可愛いジョニー。いい夢を見てね。」


その温かい腕の中で、彼は安心して夢の世界へと旅立ちました。

その時の、母の胸から伝わる温もりと、甘く優しい花の香りは、ジョニーの心に最も深く刻まれた記憶の一つでした。

ある日、ジョニーが図書館の片隅で、見たことのない絵が描かれた古い書物を見つけていた時のことです。

ページをめくると、見たことのない不思議な模様がたくさん描かれていました。その時、王妃が心配そうな顔で近づいてきました。


「ジョニー、それは触らないでね。とても、とても大切なものだから」


王妃の声は震えていました。

幼いジョニーには、それがどれほど大切なものなのか、なぜ王妃がそんなに悲しそうな顔をするのか、まだ理解できませんでした。

ただ、その書物から、ひんやりとした、少しだけ寂しい匂いがするように感じられました。彼の心に、かすかな違和感が残ったのです。


■国王の孤独な夜


夜が更け、公務を終えた歩国王が、ジョニーの部屋を訪れるのは日課でした。彼は静かにベッドサイドに歩み寄り、幸せそうに眠るジョニーの小さな寝顔を、ただじっと見つめます。

その瞳には、日中の激務で疲れた様子とは裏腹に、深い愛情と、一抹の寂しさが浮かんでいました。


「おやすみ、ジョニー。いつまでも、おまえがこんな穏やかな顔で眠れるように。それが、父の務めだ。」


歩国王は、決してジョニーを起こさぬよう、そっとその額に口付けを落とし、静かに部屋を後にします。

この短い時間が、彼にとって唯一、純粋な父としての愛情を確かめ、明日への活力を得る瞬間でした。

ジョニーの部屋を出た歩は、そのまま自らの書斎へと向かいました。

机の上には、何冊もの古びた書物と、詳細な地図が広げられています。

彼は椅子に深く腰掛け、手に取った分厚い調査記録を読み始めました。

それは、アスノート・ソラシスの「扉」の先で得た膨大な知識の断片、そして歩自身がソラシスの痕跡を追って集めた記録でした。

夜の静寂の中、ページをめくる音だけが響き、歩の眉間には深い皺が刻まれていきます。

彼の目は、疲労でかすかに赤みを帯びていましたが、その奥には、知への飽くなき探求心と、ある種の焦燥が宿っているようでした。


「…ソラシス、この記録が、あの『扉』の真実を語っているといいのだが…」


歩国王は、読み進める手が止まり、静かに呟きました。

彼の視線は、地図の一点に固定されていました。

しばらくして、コンコンと控えめなノックの音がしました。

顔を上げると、スクプター王妃が、湯気の立つカップを二つ載せた盆を手に、穏やかな笑みを浮かべて立っていました。


「貴方、まだお仕事を?」


王妃はそっとカップの一つを歩の前に置きました。

温かいコーヒーの香りが、書斎に漂う古書の匂いと混じり合います。


「ええ、少しだけね。どうしても気になって…」


歩は小さく息を吐き、コーヒーを一口啜りました。温かさが喉を通り、ほんのわずかですが体が弛緩するのを感じます。


「貴方、お疲れでしょうから、たまには息抜きしてね。無理は禁物ですよ。」


王妃は歩の肩にそっと手を置き、労わるような眼差しで見つめました。

彼女の指先から伝わる温もりが、歩の緊張を少しだけ解きほぐします。


「ありがとう、スクプター。きみの心遣いが、何よりの薬だよ。」


歩は王妃の手を優しく握り返し、再び書物のページに目を落としました。まだ眠たい目を擦りながらも、彼は「扉」の謎を解き明かすべく、黙々と読み漁り続けました。

王妃はそんな夫の姿を、理解と愛情のこもった眼差しで見守り、静かに書斎を後にしました。

残された歩は、その孤独な探求の夜を、ひたすら書物と共に過ごすのでした。

王妃は、ジョニーの最高の遊び相手でもありました。

彼女が自らデザインした木の人形や、積み木で遊ぶのが、ジョニーは何よりも好きでした。

王妃は、ジョニーがどんなに稚拙な質問をしても、決して笑ったりせず、真剣に耳を傾け、彼の純粋な好奇心を大切にしました。


「お母さん、この積み木、どうやったらもっと高く積めるの?」


「あら、ジョニー。これはね、バランスが大切なのよ。そっと、そっと置いてごらんなさい?」


時には、王妃の故郷の伝統的な遊びを教えてくれ、ジョニーは異国の文化に触れる喜びを知りました。

母との時間は、ジョニーにとって、何よりも大切な宝物であり、彼の心の基盤となっていたのです。


■黄身斗との冒険


中川黄身斗(30歳)は、ジョニーの護衛であり、遊び相手であり、そしてまさに親代わりとして、常に彼のそばにいました。

彼は歩国王がアスノート・ソラシスと旅した後、王国を築く際に共に尽力した人物であり、人類で初めて世界一周を成した旅人として、その冒険譚はアズティルに詳細に記録されています。

黄身斗は、その広大な世界の知識と経験を活かし、王都シアルドゥン内にある王宮の裏庭に隠された秘密の抜け道や、誰も知らない小川のほとりなど、ジョニーを連れて様々な「冒険」に繰り出しました。

この秘密の抜け道は、王様のために作られた緊急脱出の通路でしたが、幼いジョニーにその真の目的を告げる必要はありませんでした。


「ぼっちゃん、今日はとっておきの秘密基地を見せてやろう。誰にも言っちゃいけないぞ?」


「うん! 黄身斗おじちゃん、早く行こうよ!」


二人は、黄身斗が指差す、王宮の裏庭の片隅にひっそりと隠された小さな扉へと向かいました。ギィ…と低い音を立てて開いたその先は、ひんやりとした空気が漂う、真っ暗な地下の抜け道でした。

ジョニーは一歩足を踏み入れた途端、背筋を這い上がるような暗闇に思わず身をすくめました。

王宮の明るい部屋とはまるで違う、墨を流したような漆黒の空間に、幼い胸は不安でいっぱいになります。


「き…黄身斗おじちゃん、ここ、まっくらで、こわいよ…」


ジョニーは黄身斗の服の裾をぎゅっと掴みました。小さな声が、暗闇の中に吸い込まれていくようでした。

黄身斗はすぐにジョニーの変化に気づきました。彼は立ち止まり、かがんでジョニーの小さな手を優しく握りしめました。

その手は、少し震えています。


「大丈夫です、ぼっちゃん。怖がることはありませんよ。」


黄身斗はそう言うと、懐から手のひらほどの小さなランプを取り出しました。

カチリ、と音がして、ランプの小さな炎がゆらりと揺らめき、瞬く間に周囲を温かな橙色の光で満たしました。

闇が少しだけ後退し、ジョニーの顔に安堵の色が浮かびます。


「この道はな、昔、王様のために作った秘密の通路なんです。どんなに暗くても、この光があれば怖くはない。それに、私がぼっちゃんのすぐそばにいますからな。」


「もしかして、黄身斗おじちゃんは、暗闇に住むまほう使いなの?」


ジョニーの無邪気な質問に、黄身斗は少しだけ目を見開いてから、にこやかに笑いました。


「はは、どうでしょうな。でも、ぼっちゃんのそばにいる間は、どんな闇も怖くありませんよ。」


黄身斗の大きく温かい手が、ジョニーの小さな手を包み込みます。

ランプの光が、黄身斗の穏やかな笑顔を照らし出し、その瞳には、ジョニーへの深い愛情が宿っていました。


「さあ、もう少し歩けば、とびきりの場所に辿り着けますよ。ほら、もうすぐ、外の光が見えてくる。」


黄身斗の言葉に、ジョニーは顔を上げました。

確かに、道の先にわずかな光が見える気がしました。

黄身斗の手の温かさと、頼もしい声に包まれ、ジョニーの心から恐怖は消え去っていきました。

その時、ジョニーの心には、暗闇を照らす黄身斗の優しい光が、かけがえのない温かい記憶として深く刻まれたのです。

そして二人は、木々の生い茂る小道をさらに進み、黄身斗が「ここだ」と指差した先には、苔むした岩が隠れ家のように積み重なり、木漏れ日が差し込む、穏やかな空間が広がっていました。

小川のせせらぎが心地よく響き、ジョニーは目を輝かせながら中へと駆け込みました。


「わあ、ここ、本当に秘密基地だね! 誰にも見つからない?」


黄身斗はにこやかに頷きました。


「もちろんです、ぼっちゃん。ここは私とぼっちゃんだけの秘密の場所ですからな。」


黄身斗は持参した小さな籠から、ジョニーが好きそうな甘い焼き菓子をいくつか取り出しました。


「ほら、ぼっちゃん。秘密基地の特製おやつだ。さあ、熱いうちに食べなさい。」


ジョニーは目を輝かせながら菓子を受け取り、一口食べると、満面の笑みを浮かべました。


「おいしい! 黄身斗おじちゃん、これ、おじちゃんが作ったの?」


黄身斗は照れたように笑いました。


「はは、残念ながら私じゃない。だが、ぼっちゃんが喜んでくれるなら、いつでも用意して差し上げますよ。」


二人は並んで座り、焼き菓子を頬張りながら、小川のせせらぎに耳を傾けました。


「黄身斗おじちゃん、おじちゃんは昔、どんな子供だった?」


ジョニーの突然の問いに、黄身斗は少し考えてから、遠くを見るような目で語り始めました。


「そうですね…ぼっちゃんみたいに、毎日新しい発見に目を輝かせているような、そんな子供でしたかな。私も小さい頃は、よくこんな風に森の中で秘密の場所を探し回ったもんです。ここよりも、もっと広い場所で、いろんなものを見たもんです。」


「へえ! どんなもの? どんな場所だったの?」


ジョニーは身を乗り出して尋ねました。


「ふふ、それはまた今度、もっとたくさんの秘密の場所を見つけてからお話ししましょうね。だがな、ぼっちゃん。この世界は、ぼっちゃんが想像するよりも、ずっと広くて、たくさんの不思議に満ちているんだ。」


黄身斗はそう言って、遠くの空を指差しました。


「いつか、この空の向こうには、もっと広い世界が広がっている。ぼっちゃんが大きくなったら、一緒に見に行きましょうな。」


その言葉は、ジョニーの幼い胸に、未来への希望と、黄身斗との揺るぎない絆を深く刻みました。

黄身斗は、やんちゃなジョニーを叱ることもありましたが、その眼差しには常に温かい愛情と、彼を守ろうとする強い意志が宿っていたのです。

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