夜を歩く男(The Man Who Walks at Night)

S.HAYA

プロローグ:最初の殺人

 あれは、冬のはじめだった。

 月がやけに大きくて、低かったのを覚えている。

 街は息を殺していた。

 霧がゆっくりと沈殿し、ビルの谷間で冷気が淀んでいた。


 俺は歩いていた。いや——見ていた。

 自分が歩く姿を、どこか遠くから、ただ眺めていた。

 足音は響かず、手には何も持っていなかった。はずだった。


 路地の奥に男がいた。

 黒いコート、ナイフ。

 顔は覚えていない。たぶん、意味のない顔だった。

 けれど、喉から溢れた音だけは耳に残っている。

 高く、濁っていて、短かった。


 ——俺の“手”が動いた。


 気づけば爪が伸びていた。

 黒く、鋭く、夜に似た形をしていた。

 喉元に喰らいついた瞬間、俺はまだそこにいた。

 けれどもう“俺”じゃなかった。


 皮膚の下で骨が捻れ、血が逆流した。

 体温が落ちていき、代わりに何か“熱いもの”が心臓を叩いた。

 鼻が利きすぎて、目が見えすぎて、

 言葉はもう意味をなさなくなった。


 それでも俺は見ていた。

 ナイトが殺す様を。俺が獣になる様を。


 彼は静かに立ち上がり、振り返った。

 月光に濡れた長い髪。血のついた口元。

 その眼が俺を見た。

 まるで、ずっと知っていたかのように。

 まるで、こうなることが当然だったかのように。


 「やっと、目が覚めたな、ジョナサン」


 その声は、俺の声に似ていた。

 だがもっと静かで、深くて、冷たかった。

 夜そのものが喋っているような音だった。


 俺は叫ばなかった。

 驚かなかった。

 心のどこかで、ずっとこの瞬間を待っていたような気さえした。


 あれが最初だった。

 “俺”が“獣”として目を覚ました夜。


 それからこの街では、血が止まらなくなった。

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