リベリオル

ざきさん

第一章 邂逅、のち、求婚 1


 昨日という日は、その後の運命を変えてしまうような一日だった。

 

 それを少年はよく分かっている。実際、日常とは大きくかけ離れた一日であった。死と隣り合わせの完全な非日常を潜り抜けてきた自分たちのこれまでを言葉で説明するのは難しいかもしれない、そうとさえ思えた。


 だが、赤い瞳の少年はその言葉の前でそれすらも忘れた。


 彼女からの一言はそれすらも消し飛ばすほどの言葉であったからだ。


 「……エリ様。結婚してください」


 つい数日前に知り合った青緑の瞳を持つエルフの少女からの突然の言葉。


 それは後から思えば少年の意志決定に大きな影響を及ぼす言葉だった。


 そしてその言葉は、これから巻き込まれる運命と絡み合い、少年と少女にとって予想もできない未来へと繋がっていくことになるのである。



 朝靄があたり一体を包み込んでいる。


 昼間の活気とは程遠い薄暗さと静けさの中、粗末な石畳が一直線に続く路地道を一人の少女がおぼつかない足取りで歩いてくる。彼女は全身に創傷を負い、肩で息をし、もはや歩くことはおろか立っているのでもやっとという足取りであった。助けの来ない絶望を背負った彼女の苦悶の表情を、あたりを包む朝靄と砂塵で曇った金色の髪が隠してしまう。


 もはや自分が絶望していることすら認識できないでいる彼女は、石畳のわずかな段差に足を取られ前のめりに倒れ込んだ。倒れ込んで地面を打つ音さえ、この静けさが吸い込んでしまった。


 このまま死を迎えるのであろう、あっけない人生だった。苦しいだけだった短い一生の走馬灯が駆け巡る。楽しい思い出の追体験などできるはずのない彼女の一生は、死の解放を迎えるその時まで彼女を苦しめることになる。早く死んでしまったほうが楽になれるという希望だけが芽生え、やがて意識は遠のいて行く。


 薄れゆく意識の中で、彼女は最後に少年の慌てるような声を聞いた。彼女の記憶はそこで途絶するのであった。



 少女の視界が開けてどこかの部屋の天井の映像が映し出された時、彼女は数秒かかって自分が生きていることを自覚した。


 身体中の創傷の鋭い痛みが徐々に蘇り、手足にも感覚が戻ってきていた。彼女はゆっくり体を起こすと、ここが誰かの部屋であることだけが分かった。


 あの時確かに自分は倒れて意識を失ったと覚えている。記憶が多少曖昧だが、それだけははっきり自覚している。倒れ込んだ時に打ったのであろう肘と膝に打撲のような痛みもある。


 彼女は辺りを見回す。誰かが他にいる様子はない。無人の部屋に窓から陽の光が差し込み、そよ風がカーテンをわずかに揺らしている。普段ならばきっと爽やかな午後の自室といった様子であったが、今は現実感もなくここが現実の世界であるかさえ怪しく感じる。


 しばらくここがどこか、虚空を見つめながら考えていると部屋の外から階段を駆け上がる慌ただしい足音が聞こえてきた。その足音は真っ直ぐに部屋に向かってきて、勢いよく開戸が開いた。それと同時に、ごんっ!という鈍い音も聞こえた。


 扉の開いたそこには、左足を抱えて悶絶する少年の姿があった。どうやら彼は慌てていたらしく扉の柱に足の小指をぶつけたようであった。


「いててててて!」


 ひとしきり悶絶して、痛そうにしながらもなんとか足を下ろして彼女の方へ向き直した。


「あ!目が覚めたんだね!よかった」


 痛みをこらえて眉毛をハの字にしながら少年は笑って見せた。


 彼女の目にその笑顔が映ったが、彼女には信じられないことがあった。


 彼の耳を見たが……耳の頭頂部は丸く尖っていない。その特徴こそが一番の特徴で、彼女と彼を隔てる理由になり得る特徴であった。


 少年は十七歳くらいの見た目で、目つきは穏やかさと幼さが同居するような丸い目に赤い瞳、肌は白く、髪は赤みがかった光沢のある茶色であった。


 対して少女は、少年と同じ年頃の見た目ではあったが、目つきは切長のキリッとした印象の目に緑と青の境目のような色の瞳、肌はところどころ砂埃にくすんでいたが白い肌であったことが分かる。そしてその肌を覆うように肩より長く伸びた、砂埃に汚れてくすんだ金色の髪。


 そして一番の特徴であることは……耳の頭頂部が頭上方向に向かって明らかに尖っている。


 彼女は、彼とは違った。


 彼女は人間ではない。エルフであった。


「……どうして……」


 彼女の口をついて出たのは、疑問の言葉であった。


 彼女はエルフであり、彼は人間である。その二人がここで邂逅し、普通に会話を交わす事のできる状態だ。それは、彼らが生きるこの世界ではかなり異質と言える状況であった。


 エルフは魔の眷属である。人に近い姿でありながら人ならざる彼女たちは、人里離れた深い森に住まい、幾重もの結界によって人の世界から隔絶し静かに暮らしていると言われている。外交的関わりはおろか個人的にすら人間との交流はなく、とある森に存在するというエルフの里の正確な場所は誰も知らないのである。


 だが、時折この人間の住まう場所にエルフは何らかの事情で現れることがある。それが彼女のような立場のエルフである。


 彼女は……人の世界でも最低の身分であった。奴隷、である。


 エルフは先ほど述べた事情もあって、奴隷市場でも流通が少ない超希少商品なのである。ごくごく稀に人間に囚われたエルフが奴隷市場に流通すると、その希少性から売値は跳ね上がる。金に糸目をつけぬ貴族や富豪たちは、それでもエルフを求めて大枚を叩く。そうして買い取られた彼女のようなエルフは持ち主の奴隷となり、邸宅から出ることなく使い物にならなくなるまで使われ、やがて子供の壊れたオモチャのように捨てられる。


 彼女の立場も、かつてはそうであった。

 だからこそ、少年が気軽に話しかけて来たことが彼女にとってあまりにも異質であった。


 対等な立場のような口ぶりで、その身を心配されたことなどは一度たりともない。彼女はそんな感情が人間にあることすら知らなかったのだ。


「君、今朝僕の家の前で倒れてたんだよ。だからここに運び込んだんだ。体は大丈夫?どこも痛くない?」


 まるでエルフとの関わりが当たり前であるかのように、少年は話す。


「……私……エルフですよ。奴隷なんですよ。人間様と喋ってはいけないんです……」


 そう言われて彼女は育ってきた。しかし、少年はそれを当たり前であるかのように自然に否定する。


「そんなことないと思うよ? 変なこと教える人がいるんだね」


 そうして少年は、扉の前の机に置いてあった楕円形のパンを半分にして少女に差し出した。


「食べなよ。あっ……そう言えば君たちってパン食べるの?」


 自然な振る舞いであったからこそパンを分け与えた。だが、知らぬことだらけなのは彼も同じであったのである。

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