第8話

春の風が、制服の裾をくすぐっていく。


昼休みの教室。

窓際の席で、俺は何気なく外を眺めていた。


グラウンドでは陸上部がランニングをしている。

笑い声が響く。日常は、何も変わっていない。


でも、俺の中だけが、ぽっかり空いていた。


昨日よりも、静かだった。

心の痛みはまだ残っているけど、

涙が出るほどの傷ではなくなっていた。


――慣れていく。


それが、喪失の一番怖いところだと思った。


* * *


放課後。


靴を履き替えて昇降口を出ようとしたとき、

見覚えのある後ろ姿が目に入った。


澪がいた。

校門の前で、紘を待っていた。


彼女は髪を結び直し、制服のスカートを軽く整えた。


その仕草を見た瞬間、胸の奥がちくりと痛んだ。


付き合ってたとき、俺にはそんな顔、見せなかった。


紘が来る。

彼女は微笑む。

ふたりは歩き出す。

距離が、近い。


――まるで、呼吸を合わせるように。


「……」


俺は視線を逸らし、校舎の裏手へと回った。


もう、目の前で見ていたくはなかった。


まだ、痛いから。


* * *


帰り道、遠回りをする。


駅とは反対方向にある商店街を歩いてみた。

特に用があるわけじゃない。

ただ、まっすぐ帰りたくなかっただけ。


焼き芋の匂い。

学生カップルの笑い声。

花屋の前に並ぶ、白いスズラン。


何もかもが、やけに鮮やかに見えた。


今までは澪と一緒にいた景色だった。

今は、俺ひとりのものになった。


“誰かと過ごしていた場所”って、

ひとりになると、やたら色づいて見える。


「……忘れられるのかな」


ぼそりと呟いた声は、風にかき消された。


答えは、まだ出そうにない。


* * *


夜。

スマホの通知に気づいたのは、23時を過ぎていた。


《少しだけ、話せる?》

差出人は――澪だった。


躊躇いがなかったと言えば嘘になる。


だけど、未練とかではなく、

何かひとつ、まだ終わっていない気がして――


《いいよ》


とだけ返した。


すぐに通話が鳴る。


「……ごめん、こんな時間に」


「大丈夫。寝てなかったし」


「……そっか」


ふたりの間に、短い沈黙が落ちた。


俺がそれを破った。


「なに話したかったの?」


「今日、ハルくんのこと、見かけた」


「……そう」


「ちゃんと目、合わせられなかった。……情けないよね」


「別に。こっちも、合わせる気なかったし」


「……そっか」


彼女の声が少しだけ震えていた。


「私、紘くんと……ちゃんと向き合おうと思ってる。

中途半端なまま、ハルくんのこと引きずってたら、失礼だから」


「うん」


「だから、ちゃんと“終わらせたくて”連絡したの」


「もう、終わってるよ」


「……ううん。

“ちゃんと終わる”っていうのは、

“お互いに、それを受け入れること”だと思うから」


そう言った彼女の言葉には、どこか覚悟のようなものがあった。


俺は深く息を吐いた。


「……わかった。これで、ほんとに最後にしよう」


「うん……ありがとう。好きになってくれて」


「……ありがとう。選んでくれて。少しの間でも、“隣”にいてくれて」


「――ねえ、最後にひとつだけいい?」


「ん?」


「私、最初にハルくんを“名前”で呼んだとき、すごくドキドキしたの」


「……そうなんだ」


「でも、今日ふと気づいたの。

“最後に呼びたかった名前”も、ハルくんだったかもしれないって」


その言葉が、胸の奥に落ちた。


「……でも、呼ばなかったね」


「うん。呼んだら、戻れなくなる気がしてた。

だから……これでよかったんだと思う」


「……そっか」


通話が切れたあと、天井を見上げて笑った。


泣いてなんかいなかった。

でも、たしかに、何かが終わった音がした。


それは、恋の終わり。

だけど、同時に――俺の物語の始まりだった。

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