Chapter-04 誓いの証明
「ああそうだ……迅。渡そうと思ってたんだが、タイミングが合わんくてな。これお前宛て」
「ファンレターですか? ありがとうございます」
俺は河口さんからそれを受け取って封を切る。発走時刻まではまだだいぶ時間があるので、目を通すことにした。読み始めて少し経って気づいたが、その手紙は代筆によって書かれたものであるらしかった。差出人は七歳の少女。赤星桜花、という名前だけが彼女の直筆で書かれている。
そこにはフジサワコネクトへの愛があった。
フジサワコネクトが好きです、一番ダービーの時のが好き、かっこよくて強いところが好き──。
そんな文字が並んでいる。そしてイギリスで勝ってほしい、フジサワコネクトが世界で一番強くて可愛い女の子だと世界中の人に教えてあげて、と書かれていた。二枚目を引っ張り出して目を通す。そこには、代筆を担当した父親からのメッセージがあった。
俺の父──瀬川優作を知っているらしかった。競馬を見るきっかけが瀬川優作騎手でした、と綴られている。そしてフジサワコネクトが生まれたばかりの頃から応援しているとも書かれていた。
大手の競走馬生産牧場であるノースファームが故郷のフジサワコネクトは、SNSで調べれば仔馬だったころの写真も山ほど出てくる。広報担当者が写真を載せるからだ。
続きを読み進めていけば、彼の娘のことが綴られている。難病で、ずっと入院しているという。そんな中でフジサワコネクトを心のよりどころにしている、と書かれていた。
(……でも、俺は……)
俺は誰かに誇れる仕事をしたか?
白綾のように確固たる支柱があるのか?
ただ、望まれて流されてここまでやってきた。ただ自分の才能だけ、生まれ持った器用さだけ、それだけでここまで来てしまった。
なのに、こんな風に手紙をくれる人がいる。
『……フジサワコネクトの走りに、瀬川迅一騎手の手綱さばきがカッコいい、と娘はいつも喜んでいます。病気が治ったら瀬川騎手のように馬に乗りたいと言っていて、治療のモチベーションになっているようです。入院したての頃はいつも「おうち帰る!」とごねて泣いていたのですが……。』
そんな文章が綴られていた。小さな子が両親と別れて一人、入院生活を送らなければならないというのは想像以上に堪えるものがある。
俺はあの頃、一体いくつだっただろうか。
そんなことを考えながら読み進める。
そして最後になりますが、という部分に目を向けた。
『最後になりますが、娘に希望を与えてくださってありがとうございます。
これからも応援しています。フジサワコネクトと無事走りきって日本へ帰ってきてください』
(ああ、俺は──)
俺は手紙を元に戻してロッカーの中に入れる。代わりにヘルメットとグローブ、そして鞭を引っ張り出して扉を閉じる。ヘルメットを被ってフジサワコネクトが待つパドックへ足を向けた。
パドックは煌びやかな服を身に着けた人でごった返している。
日本とは違う状況に驚いているかもしれない、と思ったがそれは杞憂に終わった。フジサワコネクトは河口さんに撫でられて落ち着いている。いつも通りの彼女がそこにいる。
出会ったばかりの頃よりは白くなった芦毛に、額に浮かぶ白い大きな流星。
そして足元の影に驚かないようにと黒いシャドーロールを付けている。今日は気合いのためか、脚に赤いバンテージを巻いていた。
フジサワコネクトは俺に気付いてこちらに耳を向ける。大きな瞳がじっと俺を見ていた。近づいて首筋を撫でれば数度目を細める。手を離せば「もっと!」と言うように前脚で地面を引っ搔いた。
俺は撫でてやり、河口さんに手伝ってもらってコネクトに跨る。気合十分、いつでも走れる──そんな気迫が伝わってきて、俺はコネクトの鬣に沿って撫でた。
「勝とう、コネクト。……世代最強を、証明しに行こう」
片方の耳はこちらに向いている。俺の言葉を聞いてくれているらしかった。
頭をぽんぽんと軽く撫でて、前の馬が歩き始めたのを合図に俺もコネクトに歩き出すよう指示した。
以前のように頑として動かないなんてことはない。
いつも通りの歩調で、速度で、リラックスして歩けている。
河口さんが近くにいるから、ということもあるだろうが──初めての海外遠征でもこれだけ落ち着いているならば、今まで以上の結果を出すことができるかもしれない。
「……負けられない。ダービーを勝ったんだ。世代最強なんだ」
もう負けない。全てをなぎ倒して、俺たちは先に行く。
キングジョージ六世&クイーンエリザベスステークス。二三九〇メートル──中距離最高峰のGⅠ。その舞台には先月のゴールドカップを辛くも勝利したスワンレイクリターンズがいる。ロジェールマーニュに先着した馬だ。
だが、フジサワコネクトだってロジェールマーニュに先着している。
ならば勝てる。その確信が今はあった。
発走時刻が迫っている。本馬場入場が始まった。
✤
結論から言うと、圧倒的だった。
私は箸でつまんでいた千切りキャベツを全部床にぶちまけ、口をぽかんと開けてテレビ画面を凝視していた。そこには喜びを鞍上で噛み締め、フジサワコネクトを回収しに来た厩務員と固く手を握り合う瀬川がいる。同行した関係者は抱き合い騒ぎながら泣いている。
完全復活。女王の帰還。
その言葉が似合い過ぎる圧勝劇だった。
第四コーナーで先頭に立ったフジサワコネクトは二番手に付けていたスワンレイクリターンズをぐんぐん突き放して大楽勝したのだ。最終的に二着に入線したスワンレイクリターンズとの間には四馬身もの差をつけた決着。
ここにきて彼女は本気になった。
本格化したのだ。
しかも、ロジェールマーニュと私が惜敗した名牝相手に。欧州が誇る無敗の名牝に土を付けたのは、日本が誇る牝馬のダービー馬──フジサワコネクトだった。
私たちではなかった。
(瀬川、あいつら──なんつう競馬すんねん……)
彼女が最も得意とする走法でただ駆け、そして勝った。
まさしく横綱相撲だった。
誰も最後の直線でフジサワコネクトの影を踏むことさえ叶わなかった。
三着には武内さんが乗るフランスの馬が入っている。だがそれを着順表がテレビ画面に表示されるまで忘れていた。それぐらいに衝撃的な圧勝劇。
この勝利は日本競馬界にも世界にも大いなる衝撃を与えただろう。フジサワコネクトが日本ダービーで勝ったことは決して運だけなどではなかったのだ。
ロジェの出遅れがあろうがなかろうが、彼女は確実にダービーを勝っていた。
瀬川は馬が行ってしまえば無理に位置を下げることは無い。前に行きたがるならば行かせ、それで粘り強く先頭を狙って行くはずだ。
ここからさらに彼女は──〝芦毛の怪物〟と呼ばれるぐらいの強さを国内外で見せつけていくだろう。
もう一度洗った野菜を胃に収めている間に、レースハイライトは流れ終わっていた。
あまりにも圧倒的過ぎる内容のそれは最早振り返る必要性がない。
フジサワコネクトの圧勝。この一言で終わりや。
『では、勝利騎手インタビューです。瀬川騎手、この度はおめでとうございます』
皿に水を貯めてシンクへ置く。冷蔵庫から麦茶を取り出してコップへ注ぎ、ちゃぶ台に置く。座椅子に腰かけたらタイミング良く瀬川は喋り始めた。
『ありがとうございます。……必ず勝とうと誓っていました。でも……フジサワコネクトから勝利を貰ってしまったような感じですね。本当に強い馬です。だから今日は俺が、というか、フジサワコネクト……彼女ただ一頭の勝利だと思います』
テレビ画面に向かって文句を言いながら私は麦茶を飲み干した。髪の毛を軽く直して瀬川は再び喋りはじめる。
『あ、あと白綾にもお礼を言わないといけません』
「は?」
『白綾騎手、ですか?』
インタビュアーが不思議そうな声音で言う。私も訳が分からず画面を睨んだ。しょうもないこと言うたら帰国後に引っぱたいてやろ、と思う。
『はい。彼女は大切な事を俺に教えてくれましたし、何より──彼女のおかげでスワンレイクリターンズを倒すことができたとも思うので……見てないだろうけど……ありがとう、白綾』
「ほんまこういうとこなんよな。一言余計やねんほんま」
『……だから俺はもう負けない。自分にも、お前らにも。
全てに勝って──俺たちは先に行く』
そう付け加えた。画面の中で瀬川は微笑んでいる。だが涼やかな微笑みの裏で、柘榴のような赤い瞳の奥に囂々と勝利への渇望が燃えている。
忘れとった。
本来瀬川はこういうやつや。
負けず嫌いでびっくりするほど欲張りな奴で、どうしようもない天才騎手──それが瀬川迅一という騎手の横顔。
私は常にそれにどこかで嫉妬し、目指すものが違うからと意識しないように心掛けてきた。
だが今はどうだろう。私はロジェールマーニュに瀬川と同じ高さまで引っ張り上げられた。同じ舞台の上にいる。
同じ舞台の上で、ただ一つの栄光を求めて競い合っている。
(…………昔の私は、こういう瀬川が苦手やったなぁ……)
競馬学校に通っていたころ──皆の輪の中で一等輝いている瀬川が苦手だった。
生まれ持った才能や恵まれたバックグラウンド。その全てが疎ましかった。
私の同期にはド素人から騎手を目指した者がいなかった。私だけがド素人だった。
しかし十四人いたうち、卒業できたのは六人だった。その卒業生の中に、常に最下位にいた私が入っとる、というのも変な話やと思うけど。
全員バックグラウンドに競馬界との繋がりがあり、親が厩務員だったり調教師だったりと、英才教育受講済みというやつだった。黄金世代だなんて呼ばれ方もした。
だがその中で中央に残っているのは──
底辺を這いずり回っていたド素人上がりの私と、
生まれながらに天才だった瀬川だけ。
地方に移った者が一人。騎手を辞め競馬界を去った者が一人。調教助手に転身した者が一人。また、海外へ行き才覚を発揮している者が一人。誰も彼も目覚ましい活躍をしている。
(私は……)
己の腕でそこまでの道を切り開くことができる騎手とは思えない。
私はあくまでロジェに──
『ああ、そうだ白綾。もう一個言っとくよ』
『──もしお前が「私はロジェールマーニュに引っ張り上げられただけ」とかしけたこと考えてるなら、日本帰ってからお前の綺麗な顔面引っぱたくから覚悟しろよ』
「ハァ……!? なんやねんコイツ……!! むっちゃ腹立つ!!!!」
私は左手の中にあったじゃがりこを思いっきり握った。べきべきと豪快な音を立ててじゃがりこが手の中でじゃがりこが潰れる。無残にかけらとなったじゃがりこの一部が床とちゃぶ台に散らばる。
私の怒りの衝撃波が空間に伝わったのか、飾り棚の上に置かれていたロジェの大きなぬいぐるみがころりと床へ落ちた。
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