春雷

アスナショウコ

第一部 芽吹、春の嵐

序幕

 その馬は、生まれながらにずば抜けた才能を持っていた訳ではなかった。

 黒い馬体は雨と泥に塗れ、彼はその中で戴冠した。



 ──嵐が、命の奔流を連れてくる。


 三月九日──深夜。空からは土砂降りの雨と強風が日高を覆い、神代リゾートファームもその例外には漏れない。そんな嵐の夜に一頭の繫殖牝馬が産気づいた。

 栗毛の牝馬、スイングウィズミー。彼女は馬房をウロウロしながら我が子を産もうと必死だった。


 しかし仔馬は逆子。仮に生まれても競走馬となれる確率は低く──それどころか、まず生まれるかすら怪しい。


 細い後脚が産道から覗いていたが、このままでは助からないかもしれない。仔馬の脚は力なく垂れ下がり、誰もが既に死産を覚悟していた。



 だが、ひとつめの奇跡が起きる。



 偶然ゲストハウスに手練れの獣医が宿泊していた。彼が出産を手伝い、何とか無事に真っ黒な仔馬が生まれた。小さな黒い仔馬は、細い脚を必死に起立させて自分の体を起こす。数分もすれば仔馬はスイングウィズミーからお乳を貰い始めた。



 しかし一歳となっても仔馬はあまりにも線が細く、小さいままだった。

 このままでは競走馬にはなれないだろう、と誰もが思った。馬主──神代信二郎かみしろしんじろうは、「ここで繫養し、乗馬やセラピーなどの仕事を模索する道も視野にある」と言った。



 仔馬はそのような人間たちの心中を察したのか、突如成長を始めた。仔馬は飛ぶように放牧地を走り回った。周囲の人間はそれを酷く心配したが、仔馬は全く意に介さなかった。



 仔馬は飛ぶ。その長い肢体を靡かせて。

 仔馬は駆ける。その先に運命が待っていると信じているかのように。



 反骨精神の塊のような馬だった。そして少し遅れて、馬は競走馬への道を歩み始めた。

 神代はこの仔馬の名付けをあの獣医に委ねた。



 ──ロジェールマーニュ。


 表向きは高級テーラーだが、実は世界で暗躍するスパイの世界へ身を投げたフランス人の名だ。映画『スパイ・イン・ザ・ニューヨーク』の主人公からとって付けられたという。


 彼は多くのものを盗んでいった。

 多くのものといえば、国家機密と金銀財宝。そして────人の心。



 彼はきっと願ったのだろう。この仔馬が、多くの人の願いを叶えることを。

 そして──大切な娘の、運命を切り拓くことを。



 そうして漆黒の馬は、多くの人々の願いを背負って走り始めた。

 黒曜石の如く輝く馬体に、切れ味抜群の末脚を携えて。

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