夏空に、万歳三唱を
雲乃わんたん
第1話 ある、晴れた日。
その日はとても空の青い春の終わりで、いつもと同じはず、だった。
中学三年生だった。
膝下十五センチのプリーツの紺色のジャンパースカートの制服に、学校指定の三つ折りの白いソックス、胸まである、くるくるとした天然パーマの髪の毛をおさげにまとめ、分厚い乱視と近視用のメガネをかけていた。
ほっぺたには新しい赤いニキビ。
ひとつ上の従姉妹を追いかけるようにして入学した都内の中高一貫のお嬢様学校。
挨拶は「ごきげんよう。」
あの頃の私は、いつも彼女の後ろを追いかけていた。
穏やかで明るくて、ユーモアセンスのある色白の美人だった。手がハンドモデルかというくらい白くて美しく、自分のしわくちゃの指の関節を呪ったものだ。
彼女の父と私の父が兄弟、彼女の母と私の母が姉妹、という血の濃さなのに、私は全然美しくなく、鼻は低くて目は一重、ほっぺたはメガネを持ち上げられるくらい丸く盛り上がっていて、似ても似つかなかった。
見た目以外でも、違うところはあった。
彼女の家族はいつも仲が良くて、私の理想の家族だった。
だって、我が家はいつも怒鳴り声がし、家の壁にいは大きな穴を隠すためのタペストリーが至る所に飾られていたのだから。
私には弟が二人いる。全員四十を超えた今となっては仲良くやれている。
でも、みんながみんな反抗期だったあの頃は、それはそれは仲が悪く、ひどい状態だった。
一番印象に残っているのは、家に帰ったらベッドや本棚、椅子が階段から雪崩の後のように落ちていたことだ。母と上の弟、達也が喧嘩をした結果だと下の弟の将也に聞いた。
その頃、達也が怒り出すと母も私も小さい将也にも止めることはできなかった。
達也の怒りの嵐が通り過ぎるまで、私と将也は私の部屋で息を殺していた。そうして静かになってからドアを開けると、新しい穴が壁に増えているということが日常茶飯事だったのだ。
母はよく、「父親が家にいないから。」と言っていた。
父親が家にいないから、誰も達也を止めることができない。父親が家にいないから、子供たちが母親を馬鹿にしている。
いつも、そんなことを言っていた。
父と母は離婚していたわけではない。別居していたわけでもない。それでも、我が家に父はいなかった。
父は、私たちが寝静まった後に帰ってきて、朝、学校に行く頃には自室で寝ていた。顔を合わせることはほとんどなかった。
そんな状態だったから、もちろん私たち姉弟は父のことが好きではなかった。むしろ、憎んでいた。
その日はもう、衣替えも済んで半袖になっていたと思う。
その時住んでいた浅草の言問橋は隅田川公園が近く、当時はあまり高い建物もなくて、空が広かった。
そして雲ひとつなく、吸い込まれてしまいそうに青かった。
銀座線浅草駅からの帰り道、私は機嫌が悪かった。
今まで学校指定のカバンはカバンは黒い牛革の、いわゆる普通の学生鞄だったのが、その年からカーキ色のおしゃれなものに変わった。本革だったから、三万円近くしていたが、そこはお嬢様学校、同級生はみんなどんどん新しい鞄に変わっていく。
私もその鞄が欲しいと母にねだったが、我が家の状況を考えると、買ってもらえるはずはなく、学校からの帰り道、父親さえちゃんとしていたら簡単に買ってもらえるのに、全部あいつのせいだと呪いの言葉を吐いていた。
家についてマンションのエントランスに入る前に、隣の家のおばさんにあった。
背が高くてひょろっとしている人。もう、とっくに名前は忘れてしまったのに、あの時の言葉は一言一句覚えている。
「さっちゃん、お父さんが、さっちゃんのこと置いてどこかにいっちゃったよ。」
何を言っているんだろう、このおばさんは。
そう思った。
父は家にいなかったし、私は心の中で父に呪いの言葉を放っていたけれど、家族の中で、一番父に愛されていたのは私なのだ。長子で女の子だったから、父は私を弟たちよりも甘やかしていた。幼稚園の頃は起きるといつも父の買ってきた「おめざ」が用意されていた。それはたいていは黄桃の缶詰で、パチンコの景品だった。
私は父のお気に入り。それなのに私を置いていなくなるはずがないのだ。
その後、どうやって「父が失踪した。」という事実を聞かされたのかは忘れてしまったが、私たちは捨てられたのだと知った。
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