俺の彼女は退屈な彼氏(俺)より、刺激的な親友との背徳的な恋を選んだ。でも待っていたのは嫉妬と束縛だけの地獄だった。もう二度とあの時は帰ってこない。

ネムノキ

第1話

 夏の盛りを過ぎた風が、木々の葉を揺らし、森を通り抜けていく。


 まだ昼間の熱気はしつこく地面に残っている。


 だが、空を覆う木々の梢が作る影には、どことなく秋の気配が漂い始めていた。


 夏特有の湿気を帯びた空気も、少しずつ乾いていくのを感じる。


 それは、楽しかった夏休みが終わりを告げ、当たり前の日常が戻ってくる前触れのようでもあった。


「おい宗介、ぼーっとしてっと置いてくぞー!」


 少し先から投げられた声に、廻道宗介(まわりみちそうすけ)ははっと顔を上げた。


 友人グループの中心にいる、雲竜拓海(うんりゅうたくみ)が、悪戯っぽく笑いながら手招きしている。


「悪い、考え事してた」


 宗介は苦笑いを浮かべながら歩調を速めた。


 彼の隣には、ごく自然な動作で恋人の鶏冠井瑠奈(かいでるな)が寄り添う。


 彼女は宗介の腕に自分の腕を絡ませ、楽しそうに笑った。


「宗介はすぐ物思いにふけるんだから。ちゃんと考え事するなら、帰り道じゃなくて家でしなさい」


「はは、ごめんごめん」


 瑠奈の柔らかな髪が風に揺れ、シャンプーの甘い香りが鼻をくすぐる。


 この香り。


 この感触。


 この声。


 そして、気の置けない仲間たちとの、何でもない放課後の時間。


 宗介にとって、これこそが守りたい世界のすべてだった。


 この何気ない一日一日が、かけがえのない宝物であり、何があっても壊れてはならない均衡なのだと、彼は信じて疑わなかった。


 彼らには、秘密の遊び場があった。


 学校の裏手から続く獣道を三十分ほど歩いた先にある、忘れ去られた小さな祠だ。


 苔むした鳥居と、風雨に晒されて文字の読めなくなった石の祠がぽつんと佇むその場所は、彼らにとって世界の中心であり、大人たちの目から逃れられる唯一の聖域だった。


「それにしても、もうすぐ夏休みも終わりかあ」


 グループのムードメーカーである女子の一人が、つまらなそうに言う。


「課題終わったのかよ?」


「うっさい! そういう拓海こそどうなのよ!」


 他愛ない会話が飛び交う。


 宗介は、そのすべてを心地よく聞きながら、瑠奈の手にそっと力を込めた。


 瑠奈もまた、微笑みながら握り返してくる。


 誰もが羨む、穏やかで完璧な関係。


 少なくとも、宗介はそう信じて疑わなかった。


 ふと、瑠奈の視線がどこか遠くを彷徨っていることに気づいた。


 その瞳には、ここにいるはずの仲間たちも、隣にいる自分さえも映っていないかのような、漠然とした物憂げな色が浮かんでいる。


 それは、宗介が感じている「守りたい平穏」とは裏腹の、何か満たされないものがそこにあるかのような気配だった。


「……瑠奈?」


「え? あ、なに?」


 宗介の声に、彼女ははっとしたように我に返り、いつもの快活な笑顔を向けた。


「なんでもない。ちょっと、この森も静かになったなあって」


 そう言って彼女は笑う。


 宗介もそれ以上は追及せず、「そうだな」とだけ返した。


 彼女が時折見せるこの表情が、安定した日常への漠然とした停滞感の表れだなどと、この時の彼には知る由もなかった。


 その様子を、数歩後ろから拓海が静かに見つめていた。


 彼の視線は、二人が握り合う手に一瞬注がれ、すぐに瑠奈の横顔へと移る。


 その瞳の奥に宿る、友人に向けるにはあまりに濃すぎる、獲物を狙うかのような光の色を、宗介はまだ知らない。


「お、着いたぜ、俺たちの王国に」


 拓海が声を上げると、目の前に古びた鳥居が現れた。


 彼らは慣れた様子で鳥居をくぐり、祠の周りに思い思いの格好で腰を下ろす。


 いつもの光景。


 変わらない日常。


 宗介は深く息を吸い込み、この幸福な空気を肺いっぱいに満たした。


 ……


 ……


 ……


 その均衡が、脆いガラス細工のように砕け散る前触れは、本当に些細な偶然から始まった。


「ん? なんだこれ」


 祠の裏手の、普段は誰も近づかないような木の根元を蹴飛ばした男子の一人が、奇妙な声を上げた。


 彼の足元には、土に半分埋もれた、黒いビニール袋があった。


「なんだよ、ゴミか?」


「にしては、なんか硬いもんが入ってるぜ」


 好奇心に駆られた数人が集まり、泥だらけのビニール袋を引っ張り出す。


 拓海が慣れた手つきで袋の口を開けると、中から現れたのは、さらに別のビニールで厳重に包まれた一冊の本だった。


「うお、本か? 誰だよこんなとこに隠したの」


 表紙は色褪せ、角は擦り切れている。


 タイトルすら判読が難しい、古びた漫画本だった。


「なんだなんだ、見せてみろよ」


 拓海がビニールを破り、その本を手に取る。


 そして、パラパラとページをめくった瞬間、彼の顔にニヤリとした笑みが浮かんだ。


「……おいおい、こりゃすげえお宝だぜ」


 彼はそう言うと、意味ありげな視線をグループ全員に向け、表紙を皆に見せびらかした。


 そこには、肌を大胆に露出させた男女が、扇情的なポーズで絡み合うイラストが描かれていた。


「うわっ……!」


「ちょ、拓海!」


 女子たちが悲鳴に近い声を上げ、顔を赤らめる。


 男子たちは逆に囃し立て、興味津々で身を乗り出した。


 それは、誰が見ても明らかな、成人向けのエロ漫画だった。


「おい、やめなよ、気持ち悪い」


 瑠奈が眉をひそめて言う。


 だが、その声にはいつものような強い拒絶の色はなかった。


 むしろ、その視線は本から離れられずにいる。


 単なる嫌悪感ではなく、わずかながら、得体の知れない好奇心が宿っているかのようだった。


「いいじゃねえか、せっかく見つけたんだから。俺たちの聖域に現れた『聖典』ってやつだ。みんなで拝もうぜ」


 拓海の悪魔的な提案に、反対する者はいなかった。


 気まずい沈黙と、抗いがたい好奇心が奇妙に混ざり合った空気が、彼らの間に流れる。


 やがて、彼らは自然と一つの輪を作っていた。


 中心には、拓海が持つ「聖典」。


 彼はゆっくりと、一枚、また一枚とページをめくっていく。


 最初は、あちこちから気まずい笑いや、ひそひそ声が聞こえてきた。


 宗介もまた、居心地の悪さに顔をしかめていた。


 彼の守りたい穏やかな世界とは、あまりにもかけ離れた異物。


 この場をどうにかしたいのに、何も行動できない自分がもどかしかった。


 だが、物語が進むにつれて、場の空気は決定的に変化していった。


 漫画の中で描かれていたのは、単なる性行為ではなかった。


 それは、親友の恋人を奪う男、その危険な魅力に抗えずに堕ちていく女。


 禁じられた関係。


 背徳的な欲望。


 そして、日常を破壊するほどの激しい情熱の物語だった。


 彼らの息遣いや、肌の熱まで伝わってきそうな生々しい描写が、ページをめくるごとに場の沈黙を深くしていく。


 誰も、もう笑ってはいなかった。


 宗介は、隣にいる瑠奈の様子を窺った。


 彼女は、食い入るように漫画を見つめていた。


 頬は上気し、唇は半開きになっている。


 その瞳に宿っているのは、もはや単なる好奇心ではなかった。


 それは、未知の世界への憧憬。


 自分の中にも眠っているかもしれない、激しい感情の奔流を覗き込んでしまった人間の、抗いがたい渇望の色だった。


 宗介の心臓が、嫌な音を立てて脈打つ。


 それは、親友と恋人という、最も身近な二人の間に、目に見えない線が引かれていくような不穏な予感だった。


 ふと、瑠奈の視線が拓海に向けられた。


 拓海もまた、漫画から目を離し、じっと瑠奈を見つめていた。


 二人の視線が、ほんの数秒、絡み合う。


 その一瞬に、どんな言葉よりも雄弁な、共犯者のような空気が流れたのを、宗介は見逃さなかった。


 まるで、彼ら二人の間だけで、すべてが理解されたかのように。


 拓海は、まるで瑠奈の反応を確かめるかのように、わざとらしく漫画のセリフを読んでみせた。


「『お前、本当はこうしたかったんだろ……?』か。言うねえ」


 その言葉は、明らかに瑠奈に向けられていた。


 彼女はびくりと肩を震わせ、慌てて視線を逸らす。


 だが、その耳まで赤く染まっているのを、宗介は見てしまった。


 何かが、音を立てて変わり始めている。


 これまで彼らの間にあった、暗黙の了解や、見えない境界線。


 それが、この一冊の古びた漫画によって、ぐちゃぐちゃにかき混ぜられていく。


 宗介は、胸に広がる言いようのない不安から目を逸らすように、無理やり笑顔を作った。


「もういいだろ、こんなの。そろそろ帰ろうぜ」


 彼の声は、自分でも驚くほど弱々しく響いた。


 その提案に、何人かが我に返ったように頷く。


「そうだな。なんか、変な気分になったし」


「うん、帰ろ」


 拓海は「ちぇっ」と舌打ちしたが、本を閉じると、それを再びビニール袋に戻して、元の場所へと隠した。


「また明日、続きを読もうぜ。俺たちの聖典だ」


 その言葉に、誰も返事をしなかった。


 帰り道は、来た時とは打って変わって、重苦しい沈黙に支配されていた。


 宗介は瑠奈の手を握ろうとしたが、彼女は「あ、ハンカチ落としちゃったかも」と不自然な口実をつけて、彼の数歩後ろを歩いた。


 二人の間に、初めて明確な距離が生まれた瞬間だった。


 その夜、宗介は自室のベッドの上で、何度も寝返りを打っていた。


 昼間の光景が、何度も脳裏に蘇る。


 漫画の扇情的な絵。


 そして何より、瑠奈と拓海が交わした、あの濃密な視線。


 考えすぎだ。


 ただの悪ふざけじゃないか。


 そう自分に言い聞かせようとするが、胸のざわめきは一向に収まらない。


 瑠奈にメッセージを送ろうとして、スマートフォンの画面をつけた。


 何か、いつも通りの、他愛ない会話をすれば、この不安は消えるかもしれない。


 しかし、その時だった。


 宗介のスマートフォンが、先にぶぶ、と短く震えた。


 拓海からの、グループチャットへのメッセージだった。


『今日の聖典、やばかったなw 夢に出そうだわ』


 そのメッセージに、他の数人がスタンプで反応する。


 宗介は、既読の数が増えていくのを、ただぼんやりと眺めていた。


 瑠奈も、すぐに既読をつけた。


 だが、彼女は何も返信しなかった。


 その頃、瑠奈は自分の部屋で、同じようにスマートフォンを握りしめていた。


 心臓が、昼間とは違う種類の、しかしもっと激しいリズムで鼓動している。


 グループチャットの通知を無視して、彼女が見つめていたのは、拓海から直接送られてきた、もう一つのメッセージだった。


『大事な話がある。いつもの隠れ家に来れないか? 二人だけで』


 その短い文面が、彼女の心に突き刺さる。


 駄目だ。


 行ってはいけない。


 宗介を裏切ることになる。


 頭では分かっている。


 なのに、体は言うことを聞かなかった。


 昼間に見た、あの漫画の世界。


 自分には縁のない、背徳的で刺激的な世界。


 宗介がくれる、優しくて穏やかな日常とは正反対の、激しい情熱。


 それを、拓海なら、くれるかもしれない。


 その抗いがたい好奇心と、疼くような渇望が、罪悪感を麻痺させていく。


 彼女は息を殺して部屋を抜け出し、夜の闇へと吸い込まれていった。


 森の奥の祠は、夜の帳が下りると、昼間とは全く違う顔を見せた。


 月明かりが、木々の隙間からまだらに差し込み、不気味な影を地面に落としている。


 風が、どこからともなく冷たい空気を運び、瑠奈の肌を粟立たせた。


 瑠奈が息を切らして辿り着くと、拓海はすでにそこにいた。


 彼は祠の石段に腰かけ、まるで彼女が来るのを確信していたかのように、静かに煙草をふかしていた。


 その紫煙が、夜の闇にゆらりと溶けていく。


「……来たか」


 拓海の低い声が、瑠奈の緊張をさらに高める。


「大事な話って、なに?」


 瑠奈は努めて冷静な声で尋ねた。


 拓海はゆっくりと立ち上がると、彼女との距離を詰めてくる。


 その一歩一歩が、瑠奈の心臓を締め付けるように感じられた。


「昼間の漫画、どうだった?」


「……最低」


 瑠奈は絞り出すように答えた。


「嘘つけよ。お前、すごく興奮してた」


 拓海の指が、そっと瑠奈の頬に触れる。


 彼女はびくりと体を震わせたが、それを振り払うことはできなかった。


 拓海の指先から、熱が伝わってくるような錯覚に陥る。


「宗介は優しいよな。いい奴だ。でも……お前を満足させてるのか?」


 その言葉は、毒のように瑠奈の心に染み渡った。


 彼女が心の奥底で感じていた、漠然とした物足りなさ。


 その核心を、拓海は的確に突いてきた。


「あいつは、お前の価値を分かってない。お前みたいな女には、もっと……激しいもんが必要なんだよ」


「やめ……」


 瑠奈の拒絶の言葉は、拓海の唇によって塞がれた。


 それは、宗介とのキスとは全く違う、力ずくで奪うような、荒々しい口づけだった。


 抵抗しようとする彼女の腕を掴み、拓海は彼女を祠の壁に押し付ける。


 背中に冷たい石の感触が響いた。


「嫌じゃないだろ? 本当は、こういうのが欲しかったんだろ?」


 耳元で囁かれる拓海の低い声が、彼女の最後の理性を溶かしていく。


 そうだ、欲しかったのかもしれない。


 このスリルを。


 この背徳感を。


 この息もできないほどの激しさを。


 彼女の抵抗が、次第に弱まっていく。


 乱れた服の隙間から、拓海の手が侵入してくる。


 その感触に、恐怖と快感が同時に体を駆け巡った。


 ……


 ……


 ……


 宗介は、どうしても胸の不安を拭い去ることができず、ベッドから起き上がった。


 そうだ、瑠奈は今日、祠に大切なお守りを置き忘れてきていた。


 それを届けるという口実があれば、彼女に会える。


 彼女の顔を見て、いつも通りの声を聞けば、きっと安心できるはずだ。


 彼は、瑠奈の母親から預かっていた合鍵で彼女の家に入った。


 部屋にそっとお守りを置いていくつもりだった。


 しかし、彼女の部屋のベッドはもぬけの殻だった。


 どこへ行ったんだ?


 こんな夜中に。


 最悪の予感が、彼の背筋を凍らせる。


 まさか。


 いや、そんなはずはない。


 宗介は、頭を激しく振って、嫌な想像を打ち消そうとした。


 彼は、何かに憑かれたように家を飛び出し、夜の森へと向かって走り出した。


 目的地は一つしかない。


 彼らの聖域、あの古い祠だ。


 暗い獣道を、息を切らしながら駆け抜ける。


 木の枝が頬を掠め、小さな傷ができたが、痛みは感じなかった。


 ただ、胸を締め付けるような不安だけが、彼の体を突き動かしていた。


 やがて、祠のシルエットが月明かりの中にぼんやりと見えてくる。


 そして、彼は見てしまった。


 祠の入り口に、見慣れた二つの影が寄り添っているのを。


 宗介は、咄嗟に近くの木の陰に身を隠した。


 心臓が、破裂しそうなほど激しく鳴っている。


 自分の鼓動が、全身に響き渡る。


 中から、微かに声が聞こえる。


 喘ぐような、甘い声。


 それは、間違いなく瑠奈の声だった。


 そして、それに答える、低い男の声。


 拓海だ。


 信じたくなかった。


 何かの間違いだと思いたかった。


 忘れ物をしたんだ。


 そう、俺はただ、忘れ物を届けに来ただけだ。


 だから、何も見ていない。


 彼は震える足で、一歩、また一歩と祠に近づいていく。


 足元の枯葉を踏み潰す音が、ひどく耳障りに響いた。


 そして、意を決して、祠の薄暗い内部を覗き込んだ。


 月明かりが、その光景を無慈悲に照らし出していた。


 服を乱し、壁に体を押し付けられた瑠奈が、苦しげに、しかしどこか恍惚とした表情で、拓海の首に腕を回している。


 拓海は、彼女の体に自分の体を密着させ、その唇を貪るように塞いでいた。


 時間が、止まった。


 宗介の世界から、音が消えた。


 蝉の声も、風の音も、自分の心臓の音さえも聞こえない。


 ただ、目の前の光景だけが、スローモーションのように、彼の網膜に焼き付いていく。


 血の気が引いていくのが分かった。


 声が出なかった。


 叫ぶことも、泣き叫ぶこともできなかった。


 体が、まるで石になったかのように、その場に縫い付けられて動かない。


 彼が何よりも大切にしていた、穏やかで、幸福で、変わらないはずだった日常が、今、目の前で、音を立てて崩壊していく。


 そのあまりの衝撃に、宗介は呼吸すら忘れていた。


 凍りついた宗介の瞳が、裏切りの光景をただ、見つめていた。


 物語の幕は、絶望の淵で、静かに切って落とされた。


……


……


……

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