双子の章・玖

「紫ゑ殿……、新しい契約とこの前の夜のこと、ちょっと話させてくださいましよ」

 胡ゐ子の甘ったるい声はまるで罠のように何度も何度も繰り返され逃げ場を奪ってくる。私はもう辟易していた。同じことを蒸し返されるのは心底うんざりだ。

「まったく助兵衛ね。何度も同じ話を持ち出して」

 冷たく、しかしどこか自分に言い聞かせるように呟く。その声はすぐに胡ゐ子の止まらない言葉の波にかき消されてしまう。最初は少しだけ眉をひそめるだけだったのに、やがて心の奥がざわめき、落ち着きを失っていくのが分かった。

 ついに彼女は一歩も引かず、私に迫る。

「紫ゑ殿、どうか私と契ってくだせぇょぉ……」

 その声が氷のように冷たくも熱く刺さった。

 笑えなかった。

「バカ言ってんじゃないわよ! あんたも私も女でしょうに!」

 声を荒げると、なんだか自分が弱くてみっともない気もした。だが、胡ゐ子の目を見るとそこには深い孤独と哀しみが宿っていた。彼女がずっと独りで、寄り添う相手もいなかったことを知っているからこそ憎みきれない。こいつと顔を合わせたのはだいぶ前のことだが、いつも孤独の商人として商いをしていると聞いている。

「そんなこと言わないでくだせぇょぉ……。私はずっと独り身。寂しいっちゃありゃしないんです」

「私はあなたと新婚旅行するために旅に出た訳じゃないの。私にはやらなければいけないことがあるの」

「お願いしますぅ……」

 幼い子供のように震える彼女の身体がクネクネと私に密着する。すぐに跳ね除けたがその柔らかな感触が胸の奥に残った。深いため息が自然と漏れる。

 胡ゐ子がひそやかな声で提案した。

「もし契ってくれるなら報酬はいらないですよ……。記憶容量の半分を渡す代わりに契ってほしいんです」

 その言葉は卑怯だった。ずるかった。私の覚悟を試すような不意打ちだった。記憶容量が減ることは、ただの数字の問題ではない。自分の記憶容量が惜しいわけじゃない。大切なあの子たちの面影が薄れてしまうのが何より怖いのだ。

 私が失いたくないのは自信の心ではなく、あの子たちの存在と記憶。喉の奥が重たくなる。息を吸っても肺のどこかが濁っているようだった。

「……分かった」

 私がそう答えた途端、胡ゐ子は嬉々として懐から巻物のようなものを取り出した。お馴染みのそれでいて一度たりとも気が抜けない契約書だ。そして手際よく私の名前のあった旧い契約の一枚を破り捨て、新しい紙をするすると広げる。

「では……こちらに、新たな契約を」

 差し出された筆に指をかけながら私はしばし思考を巡らせた。こいつと契ることによって得られるもの。失われるもの。

 まず得られるものは明確だ。記憶容量を譲渡せずに済む。すなわち、あの子たちの顔も声も言葉も感触もこれから先も私の中に保ち続けられるということ。

 では失うものは?

 胡ゐ子は商売の神であり、私は鏡の付喪神。神同士の契り、それはつまり神婚だ。けれど、私は神婚についてろくに知識がなかった。古き異神の誓い、婚礼、共有……。なにがどうなるか見当もつかない。だから率直に尋ねてみた。

 胡ゐ子は一瞬だけ視線を逸らし、それから説明してくれた。

「特に制限はありやせん。ただ、神婚を結ぶっちゅうのはですね、一度やっちまうと――どんなに距離をとっても、死んだりしても、転生しても……、縁だけは切れなくなりやす」

「未来永劫ってこと?」

「ええ、そうなりやす。私と紫ゑ殿は、もう腐れ縁の極みってやつになりますなぁ」

 それだけかと一瞬、拍子抜けした自分がいた。代償としては実に軽いものに聞こえた。昔からこいつとは取引の縁があった。小うるさく、しつこく、妙な所で情に厚く、欲にまみれたくせに義理堅い奴だ。再会したときに鬱陶しさを感じたのも本当だが利用できる相手でもある。縁が切れないというのならどこかで都合よく使えばいい。いざとなれば私の身代わりにすれば済む話。不死鳥みたいに縁が残るなら何度でも使い倒せるってことだ。

 ふと、口の端が僅かに上がっていた。それを胡ゐ子にあっさりと見抜かれてしまった。

「へ、変なこと考えてやせんでしょうね紫ゑ殿! 顔がなんだか邪悪ですってば!」

「さあ、どうかしらね」

 私は筆先を静かに紙に下ろした。

 それからというもの、胡ゐ子はずっとにやにやしていた。

 不気味なほどにご機嫌で、隙あらばこっちを見てはふにゃけた笑みを浮かべる。まるで魂を甘ったるい飴で包まれてでもいるような、そんな顔。なんだか腑に落ちない。

 だが楽ではあった。どうでもいいことのようで旅を続けるには案外こういう小さな変化が支えになるものだ。それに、ムスッとた顔をずっとされてもこっちの気も悪い。

 迷い家を発ってからもその奇妙な甘ったるさは続いた。

 気がつけば旅に出て半年が経とうとしていた。七割以上が山中生活。まともな街に降りた記憶すら朧だ。最初こそ木々の圧迫や道の無さ、行く先で出会う獣や魑魅魍魎に苦しんだものだが慣れとは恐ろしい。今では獣道を見分け、毒草を避け、寝床を見つけるのも手慣れたものだ。道端に寝て、崖を飛び、境界をすり抜ける――そんなことが日常になってしまった。

「ねえ紫ゑ殿、あの山……」

 ある日、胡ゐ子が遠くに聳える山を指さした。

「あのてっぺんまで登って見晴らしを確かめてみやしょうよ」

 悪くない提案だった。勘も鈍り足も思考も迷い始めている頃合いだったから。私たちはその山に登った。山頂は思ったよりも広く開けていて風通しがよく、木々もまばらだった。見上げれば、低く雲が流れていた。

 そして視線を巡らせた先。山々に囲まれた盆地の中央にそれはあった。

 紅葉に縁取られた谷の中に一つの大きな街。和風建築の屋根が連なり、ところどころ西洋風の塔や窓が顔を覗かせる。奥行きがあり、どこまでも続いてそうなほどだった。まるで私のいた里を幾つも束ねたような街並みだった。

 胡ゐ子が懐から遠眼鏡を取り出し、景色に焦点を合わせる。

「……あれ? なんだか……」

 その口調が急に硬くなった。

「紫ゑ殿、あれ……火が出てます。街の中央、真っ赤っかです」

 眼鏡を受け取り確かめる。

 燃えていた。確かに街から黒煙が立ちのぼっている。何が起こっているのかは分からなかったこのまま眺めているだけでは済まないと感じた。

「行くわよ」

 私は立ち上がり崖際に足を向けた。

「え、ま、待ってください、いきなり!? 降り口くらい探しやせんか!?」

「今の私たちに他の道は無いんだから」








 火の手はすでに何軒もの家を呑み込んでいた。瓦屋根が崩れ、白壁が黒く焼け落ちていく。

 しかしその混乱の中で、一角だけ異様な静けさを保った広場があった。そこには神職らしき男が一人、何かを焚いていた。

 焚かれているのは薪ではなかった。人だ。白い布を巻かれ、身動きの取れぬまま火に包まれていく者たち。目を背けたくなるような光景と肉の焼ける臭い。だが神職は眉一つ動かさなかった。広場の周囲には人々が遠巻きに集まっていた。その顔には祈りとも恐怖ともつかぬ表情が浮かび、時折こんな声が漏れる。

「鬼が触れた子だ」

「手遅れだ」

「焼けば清まる」

 狂っている。正気の言葉ではなかった。

 最後の一人が連れてこられる。それを見た瞬間、息が詰まった。似ていたのだ。あの子たちに。死なせてしまった双子に。白装束の少女は年の頃も体格も似ていた。

 何もかもが双子と重なった。

 足が勝手に動いていた。

 叫びもせず名乗りもせず、私は群衆の中を無言で進んだ。火床の前に立ち、少女の足元に描かれていた朱の符をだ無造作に下駄で塗り潰した。

 神職の男が口を開く。

「異界の者が我々の掟に手を出すな」

 その声には怒りもなければ驚きもなかった。ただ、規律を淡々と告げるだけのもの。だが、その声音がかえって私の中の何かに火をつけた。

「その掟とやらで、どれだけの命を焼いた?あんたたちの正義が誰も救わないってのは見りゃ分かるわ」

 私は少女を抱きかかえると振り返らずその場を後にした。胡ゐ子が少し遅れて追ってくる。小走りに、焦ったような表情で。


「紫ゑ殿、あんまり目立つと目をつけられますよぉ……」







 

 火の手から離れて街はずれへと逃れた。抱えていた少女の体は枝のように軽く、ひどく熱かった。私は胡ゐ子に目配せをして歩き出す。やがて、見つけたのは瓦屋根のかろうじて形を保った廃屋だった。最悪の居心地ではあるがしばらく避難所にはなる。

「ひとまずここで休みましょ」

 そう告げると胡ゐ子は肩から降ろした大荷物をがさごそと探り始めた。

「えーと……。あったあった、これです」

 彼女が差し出したのは分厚い白粉、眉墨、紅、そして筆と鏡。

「化粧品……? こんなときに何を――」

「これで顔を変えるんです。ちょっと手間はかかりますけど、紫ゑ殿の美貌なら数分もあれば化けられますぁ」

 軽口を叩きながらも胡ゐ子の手つきは案外真剣だった。

 鏡の中の私は目元の印象を変え、輪郭に影を落とすことでまるで別人になっていく。

 少女にはまだ話しかけられないでいた。彼女は膝を抱えてうずくまり、口を開くことも目を合わせることもなかった。

「……胡ゐ子、しばらくあの子のそばにいて。涙峰に関する情報を探すために私はもう一度、街に戻る。それと......あのふざけた儀式まがいのことについてもね」

「紫ゑ殿……、一人で行って平気ですかい?」

「大丈夫。私のことを舐めすぎ」

 私は一度だけ振り返る。胡ゐ子が不安げな顔をしてこちらを見ていたが、すぐに笑ってみせた。

「わかりやした。紫ゑ殿が戻ってくるまで私があの娘を見ておきやす」

「お願い」

 それだけを言い残して私は廃屋を後にした。

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